ちいさな猫と地獄について

藤枝伊織

ぼく


 地獄とは他人のことだという。


 ぼくには優秀な兄と姉がいる。ささいな挙動一つとっても彼らと比べられた。母の目という定規からしてみればぼくは尺が足らなかったようだ。

 やれ背が小さいだとか、やれ頭が小さいから脳も小さいだとか、鼻が大きすぎて顔のバランスが悪いなんてことも言われた。なんてことはない。容姿はどうとでも見たままを、悪い言葉で表現すればいいだけだ。だがテストの点数が悪かったと言うことに関しては証拠が残ってしまっている。

 家族が暖炉に暖まり団欒するなか、ぼくはお仕置きに寒い倉庫を一晩中掃除させられたこともあった。あれは高等試験の成績が全体の半分よりもやや下だったからだ。大衆と比べられてはたまったもんじゃない。寒いのはたいそう堪えたが、母に叱られたり兄姉の自慢を聞いたりするよりはずっとよかった。そうやってぼくがなにかしらの折檻を受けるとなると、きまって父はふらりといなくなる。大概は近所に住む父の幼なじみとビリヤードなんかに打ち込んでいたりする。そしてぼくの折檻が終わるころになんでもない顔をして帰ってくるのだ。

 勉強はしてもしなくても同じだった。それでもしないと暇になるからぼくは毎日勉強をしていた。毎日だ。習慣とは怖いもので、これは今でも続けている。毎日毎朝五時に起きて、そこから二時間の勉強。それでもテストの点数は伸びなかったし、だれもぼくの行為を褒めることはしない。

 常に上位だった兄姉と比べ、半分よりもやや下というのがぼくの定位置だった。それは救いようもないほど悪い点ではないが、けっして褒められることはない、というものだった。水族館にマンボウがいなかったからといってその水族館を責める人はいない。ぼくはそんな存在だった。そのくらいが分相応だと思っていたが、それでもろくでなしというラベルを貼られるのは想像よりも早かった。

 大学に落ちたことをどうやって家族に報告しようか悩んだ末、ぼくはバーにいた。そこでスコッチとテキーラを交互に飲んだ。なぜそんな奇怪な飲み方をしたのかと言われるとぼくも答えに困る。

 ぼくはそう酒に強くない。いつもなら甘いカクテルをちびちび飲むところだろうけれど、さすがに大学に落ちたことが辛かった。甘いものでは流せなかった。ぼくの知識の中で強い酒というとテキーラで、バーで男が渋く飲むものがスコッチだっただけだ。案の定すぐに酔い潰れ、気がつくと大変なおかんむりの様子な母を目の前にした。

 なぜ母がバーなぞに来ているのか不思議には思わなかった。それよりも母の前に醜態を晒してしまった恐怖の方が勝っていた。今にして思えば母があんな場所に行くはずもないし、まだ閉店時間まで間もあったし人気もない店が母に連絡を入れるはずもない。あの店はぼくの友人の兄の店だった。

 恐らくぼくの兄が仕事終わりにでも店の前を通りかかりぼくを見つけたのだろう。兄はしばしば母の伝書鳩になる。姉はまだましだ。見てみないふりをしてくれる。

 兄を想起させる黒縁眼鏡をぼくはいまだに嫌っている。黒縁眼鏡をかけ始めたという理由だけで、むしゃくしゃしていたときに友人を殴ってしまったこともある。深く反省しているし、眼鏡の人を見ても敵だと思わないように心がける習慣がついた。

 ぼくはそういうわけで元々出来の悪い息子と言われていたが、加えてろくでなしと呼ばれるようになってしまった。


 その後無事大学に受かり、独り立ちしてからもろくでなしと言われ続けた。一度ついた汚名とはなかなか抜けないものだ。家族内のちいさなもので済ますことが出来ず、一度でも外の人に知られたらそう見られてしまう。ぼくの人生にはすでに母によって大きなシミがつけられていたのだ。

 ぼくはボンクラのろくでなしとしてそれらしく生きていこうとした。しかし酒に弱いため酒に溺れることもできず、母に対する恐怖からか女遊びというものも出来なかった。博打というのも気弱なぼくは性に合わなかった。形から入ろうとしているためだろうか。なかなか悪いことも出来ない。ぼくをろくでなしだと思って近づいてきた奴らも、ぼくがただの弱虫の落ちこぼれだと気づき使いっ走りにもしなくなった。あまりにも生真面目でつまらないらしい。せめて泣いて見せろと言われたこともあるが、母の着ていたワンピースの袖ほどにも怖くない彼らに対して泣くことが出来なかった。あまりに嘘が下手すぎて、怖がっているフリすら出来なかったのだ。

 どうもうまくいかないことが多すぎる。

 ぼくは、なんでも中途半端に自分をごまかすことで過ごしてきた。なるほど。魔法の言葉のようにぼくはそう口にする。


 なるほど、そうすれば自分をごまかすことが出来るわけだ。


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