第16話 約定

「姫さま!」


 冥府の王の爪がアウゲに届く前に、ヴォルフはアウゲを突き飛ばした。よろめいて座り込んだアウゲの目の前で、冥府の王の爪がヴォルフの左腕を消し飛ばす。


「ぐ……っ」


「ヴォルフ!!」


 アウゲの悲鳴。しかし、切り落とされた腕の切断面から噴き出たのはアウゲの予感に反して血ではなかった。黒い無数の茨の蔓が伸び、絡み合って巨大な腕を形作る。さらにその先が5本に分かれた。

 バシュッ

 巨大な茨の手は冥府の王の頭部を握りつぶす。首から下はそのまま後ろに倒れ、床につく前に靄となって消えていった。


「ヴォルフ……!」


 アウゲがヴォルフに駆け寄る。


「腕が……!」


「あいつ、よりにもよってこっち側を吹っ飛ばしてくれましたね」


 ヴォルフは笑って言う。


「笑っている場合なの? これは……」


 アウゲが恐る恐る茨の棘に触れると、そこから絡み合った蔓はぽろぽろと崩れ、その下から生身の腕が現れた。


「魔族は、現世の人間と同じ原理で生きているわけではないですからね。でも、ごめんなさい、姫さま」


「……?」


 信じられないという表情でヴォルフの腕を撫でていたアウゲは顔を上げた。


「せっかく刺繍してくれたのに、またなくしちゃいました」


 ヴォルフが左腕を持ち上げる。確かに腕そのものは従前と全く同じに、傷ついたことがなかったことのように再生していたが、騎士服の袖はなくなったままだった。


「そんな、そんなもの……」


 見る間にアウゲの目に涙が溜まる。


「百個でも千個でも、何度でも作ればいいだけのことよ。ただあなたが無事でよかった……」


 アウゲは涙を見られまいとヴォルフの胸に顔をうずめる。右手でまだ剣を握ったままのヴォルフは、左腕だけでアウゲを抱いて、その真っ直ぐな銀の髪にくちづけた。


「ひとりにしてごめんなさい、姫さま。もう二度と寂しい思いはさせないって、ずっと一緒にいるって誓ったのに」


 ヴォルフの腕の中でアウゲは首を振る。


「いいえ、私は平気よ。だって……」アウゲは顔を上げてヴォルフを見つめた。その頬には涙の跡が光っている。「あなたは必ず来るとわかっていたもの。始めから勝つとわかっている賭けなんて、張り合いがなくてつまらないわ」


 アウゲの言葉に思わずヴォルフは笑ってしまう。


「さすがおれの姫さま。おれの、アウゲ……」


 ヴォルフはそっとアウゲに顔を寄せて、唇を重ねた。右手の剣を手離して、アウゲを両腕で強く抱き寄せる。抱き寄せられたアウゲは爪先立ちになり、ヴォルフの背中に腕を回す。

 別離の時間を埋めるように、触れあわせて啄んで離して、また深くくちづける。頭の芯がとろりと蕩けて、呼吸が混ざりあって、離れていた時間の長さを知る。


「帰りましょう、姫さま」


 長いくちづけの後で、ヴォルフが言う。熱を伴ってそっと頬を撫でるその指先に思わず首をすくめながら、アウゲは頷いた。


「ええ。私たちの家に」


 アウゲは感慨深くまやかしの離宮の居室を見回して、そしてぎょっとなった。


「ヴォルフ……」


 ヴォルフの左腕をそっと掴む。


「どうかしましたか……いっけね」


 ヴォルフもアウゲの言わんとするところに気づいた。

 冥府の宰相が、ゲーム盤の前に座ったまま固まっている。完全に先程ヴォルフがアウゲに使った暗示に巻き込まれていた。


「ごめんなさいね、どうりで静かだと思ったわ」


 アウゲがそっと宰相の肩に触れると、暗示が解けて宰相は身震いした。


「……ハッ。気づいてもらえなかったらどうしようかと思っておりました。ありがとうございます、アウゲ殿下」


「冥府の王はどうなったの?」


 どっこらせ、と掛け声と共に椅子から降りた宰相は大きく伸びをして、あるかなきかの首を回す。


「ご心配には及びませんよ。今は拗ねておいでですが、千年もすれば気を取り直して、また生まれ変わるでしょう」


「生まれ変わる。……ねえ、宰相」


「なんでしょうか?」


「冥府の王は生まれ変わるのね。でもあなたは、代々の冥府の王に仕えてきたと言ったわ。もしかしてあなたが……あなたこそが……」


 しかし宰相はゆっくりと大きく首を振って、そこから先を言わせなかった。


「魔界の嗣子は魔王となりぬ。どうぞお幸せに。魔王陛下、王妃殿下。帰還にはこちらの『王の道』を……」


「あ、や、いいよ。表で友だちが待ってるから」


 ヴォルフが軽い調子で言う。


「は、え……?」


「それじゃ、宰相、姫さまがお世話になったね。冥府の人たちにもよろしく」


「え……あ、あの……」


 冥府の宰相は短い腕を宙空に伸ばしたまま、新しい魔王が伴侶の腰を抱いて出て行くのを呆然と見送りかけた。


「アウゲ殿下、一つだけ……!」


 ヴォルフに腰を抱かれているので、アウゲは上半身だけで振り返った。


「あの時、我が君はあなた様の課した約定に縛られていました。だから魔界の嗣子は我が君をあっさりと撃破することができた。それも計算の上だったのですか? それを見越して賭けを申し出られたのですか?」


 アウゲは一瞬きょとんとして、そして笑って首を振った。


「いいえ。私は、そこまでの深謀遠慮ができる人間ではないわ。賭けを申し出たのは、純粋にその場凌ぎよ。最初から勝つとわかっているつまらない賭けではあるけれど、一時的にでも、冥府の王を押し止めることができればと思ったの」


「左様でございますか……」


「じゃ、またね」


 ヴォルフは片手を挙げてひらひらと振った。




 人族の王家に仕える蜥蜴型魔族・メーアメーアは「邂逅の間」で新しい魔王の帰還を待っていた。試練がどんな形に決着したにせよ、魔王の代替わりは成り、冥界から魔王が魔界に戻る。出迎えは執事頭の役目だった。

 冥界側から冥府の宰相が姿を現す。しかし彼はひとりだった。


「……つかぬことを伺いますが。魔王陛下はどうなさいました?」


 メーアメーアは眼球をぺろりと舐める。


「それがその、友だちが表で待っているからと王の道を使わずにお帰りになりまして……。魔界に何の連絡もしないわけにもいかず、こうしてわたくしが」


「……左様でございまいたか」


 メーアメーアは反対側の眼球をぺろりと舐める。


「友だちというのはおそらく翼竜族のアーウィン王子でございましょうね。悪い人ではありませんが、ヴォルフさまの目付役としては少々心もとない……。逃亡される前に捜索隊を出すべきですね。そもそも、王の道を使わずに魔王が帰還した例がこれまでにありましたでしょうか、まったくヴォルフさまは……」


 メーアメーアは聞く者のない小言をいつもの癖でひとしきり言う。


「……あなた様は、蜥蜴族、正式には竜族の、正当なる王位継承者であったと記憶していますが? 竜族といえば、かつては魔王を輩出していた名門中の名門」


「古い話ですよ。今のわたくしは、人族の王宮の執事頭。休暇をまとめて異界旅行をすることを生き甲斐としている、ただの蜥蜴です」


「故郷にはお帰りにならないので?」


「わたくしは今や帰る故郷を持たぬ者でございますゆえ。流れ者のわたくしを拾い、取り立ててくださった先々々々代魔王陛下には感謝しております。それに案外わたくしは執事頭が性に合っているのですよ。小言を言われるより言う立場がね」


 メーアメーアの言葉を聞いて、宰相は何度か頷いた。

「それであればよろしいのですが。あれは酷い内紛でした。魔界は言うまでもなく、いくつかの異界を巻き込むほどの。あなたはそれを終わらせた功労者だったはずなのに」


「英雄になるためには、わたくしは恨みを買いすぎました。なにせわたくしの呪いのせいで、竜は蜥蜴になり、魔王の地位を人族へ譲ることになったのですからね」


 メーアメーアは眼球をぺろりと舐める。


「今のわたくしは他種族に仕える変わり者。それでいいのですよ」

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