第10話 離宮

 魔界は、魔王を戴く人型魔族の国を中心として、それぞれ姿の異なる魔族たちが人族の国を取り囲むように存在している。翼竜族の治める西域を抜け、さらに進むと、冥府との境界、「辺境」と呼ばれる地域になる。辺境がどのくらい広がっているのか、辺境から直接冥界に接続しているのか、あるいはどこかに辺境の「果て」があるのかは知られていなかった。辺境の果てを探しに旅立ったありとあらゆる種族の者たちは、いずれも還らなかった。幼少の頃、ヴォルフはアーウィンを誘って(ローザに言わせるとアーウィンを唆して)辺境の果てを探しに行ったことがある。もっとも、いくらも行かないうちに見つかって連れ戻され、大目玉を食らったことは言うまでもない。


 西域の岩山が連続する地帯を抜けると、地面の色がだんだん灰色味を帯びてくる。空を灰色の雲が覆い、気流も乱れ始める。しかしアーウィンは風をうまく操り、滑らかに飛び続けた。マントにしたヴォルフの上着が風に翻る。

 アーウィンがふと口を開いた。


「懐かしいな。この辺まで2人で来て、ママ上にボッコボコにされたよな」


「覚えてるよ。アーウィンまで母上にボコボコにされて、引きずられて帰ったんだっけ」


「オレあの後、オヤジにもボコボコにされてんで。お前んとこのパパ上はええよな。絶対殴ったりせえへんやん?」


「ああ、確かに。イタズラがバレておれが牢屋とかに閉じ込められてると、父上が来てすぐ出しちゃうから、途中から母上に面会禁止にされてた」


「話の情報多すぎるわ。そういや初めて会っおうた時もお前牢屋に閉じこめられとったな。あの、崖の上の。どんなえげつないイタズラしたらそうなんねん……。何したんや」


「なんだっけな……肖像画の顔を切って動物の顔の絵に挿げ替えた時だったかな? いや、違う気がする。母上の剣を持ち出して串焼きパーティーしようとした時だっけ……忘れた」


 風景はどんどん陰鬱になっていく。空は濃い灰色になり、地面もまた白っぽい灰色一色だった。起伏のない地面がどこまでも続いている。天にも地にも動くものはなく、灌木のようなものさえ見当たらない。この辺りはもう昼と夜の区別もない。静かで、膠着した世界だった。

 その世界に、小さく、立体のオブジェが転がっているのが見えてくる。あるものは立方体であり、あるものは球体だった。さまざまな立体が投げ出されたように無造作に置かれている。魔界の住人が魔王の墓と呼んでいるものだ。


「あれやな。……しかし、単に魔王の墓っちゅうても、いっぱいあるで? 一つずつ探すんか?」


 他に比較物がないので感覚が狂うが、アーウィンの飛翔スピードのわりに全く近づいてこない。相当巨大なのだ。


「いや、行けばおれにはわかるはずだよ。そうでなきゃ意味がない」


うかあ。ほな、行くのみやな。しかし、他に何もないから距離感狂うな」


 アーウィンはぶつぶつ言いながらも、立体群に向けて真っ直ぐに飛んだ。


 近づいてみると、それらは圧倒的に巨大だった。完璧に整えられた山とでも言うべきか。かつてここを探検しようとしたときは、入口が見つけられなかったことを思い出す。


「アーウィン、このあたりを一周してくれないか。まず空から探す」


「おう」


 アーウィンはヴォルフが真下を見やすいように身体を少し傾けて旋回する。

 冥府の王は、明確なメッセージを発信しているはずだった。「ここに来い」と。

 ヴォルフの目が、突き刺さすように聳え立つ円錐の陰にある、小さな建物を捉えた。


「あれだ。円錐の後ろに建ってる家」


「ホンマや。よう見つけたな。あれで間違いないんか?」


「間違いない。あれは、姫さまの離宮なんだ。姫さまは必ずあそこにいる」


 ヴォルフの言葉を聞いたアーウィンは緩やかに旋回して高度を下げていった。



 離宮と全く同じ建物は、巨大な円錐の陰に隠れるように建っていた。灰色の空と地面、狂いなく完璧に整った巨大な立体群の中にあって、生活感の漂う建物は異質だった。

 ヴォルフはアーウィンの背から飛び降りる。


「ありがとう、アーウィン。ここまでで十分だよ。西域に戻って」


「いや、ここでお前がお姫さま連れて出てくるの、待ってるわ。お前は凄い奴や。お前のお姫さまもな。お前やったらできる。でも……」


 心配そうに言葉を途切れさせるアーウィンに、ヴォルフは笑って言う。


「大丈夫だよ。おれは負けない。姫さまもね。戦う前から負けてちゃ、姫さまに叱られるよ。じゃ」


 ヴォルフは軽く手を上げると、迷いなく離宮の扉を開けて、中に消える。アーウィンは異種族の友人の背中を見送った。




 建物の中に入ったはずなのに、ヴォルフは青空の下にいた。春から夏に移り変わろうとする澄み切った青空。温かく乾いた風。夏の日差しを浴びる前の草は柔らかく、穏やかな風に吹かれている。少し離れたところには水路があるらしく、水の流れる音がする。水路のほとりには黄色い花が揺れていた。アウゲの誕生日の頃だ。

 足元は一本の道があって、それはまた、離宮に続いている。ヴォルフが立っているのは、離宮の裏庭だった。人の国にいた時、毎日のように2人で散歩をした思い出の場所。

 懐かしい風景に、ヴォルフは思わず口元を綻ばせる。

 彼はなんとなく水路に近づいていった。アウゲは水路脇の花や、水路の魚を眺めるのが好きだった。この場にアウゲがいれば。

 元は人工的に作られた水路なのだろうが、今となって水草がびっしりと生い茂り、水の中の草原を作っていた。この季節は、水草の小さな白い花を見ることもできる。

 温かな気持ちになって水路に近づいていったヴォルフの視界の端に、水の中で揺れる白と黒が映った。

 ヴォルフの表情が凍りつく。

 ゆっくりと顔を巡らせる。頭で理解する前に、膝が震え出す。自分を叱咤して、何とかそちらの方へ足を踏み出す。


「姫……さま……?」


 喉が乾涸びて、言葉はほとんど声にならなかった。


 水底に沈んでいたのは、アウゲだった。


 胸の上で軽く手を組み、透きとおった緑の水草のベッドに横たわっている。水の流れの中にアウゲの銀の髪が絹糸のように漂う。

 目を閉じたアウゲの顔は眠っているように穏やかで、その麗しいかんばせを洗う水はあくまで清澄だった。全ては一幅の絵画のように美しかった。


「嘘だ……」


 魔族は人と同じ原理で死ぬのではない。しかしこれは……。

 ヴォルフは躊躇いなく膝の上くらいの水深の水路に入ると、アウゲの身体を抱きあげた。意識がなく、髪とドレスにたっぷりと水を含んだアウゲは重かった。何とか引きあげて水路脇の草の上に寝かせる。


「姫さま、起きて……。ねえ、起きてください」


 奥歯がガタガタ鳴る。ヴォルフは震える手でアウゲの頬を撫でた。それは水と同じ温度だった。


「姫さま……ねえ、アウゲ……」


 何度も名前を呼び髪を梳くが、アウゲは何の反応も返さない。ただ眠っているだけにしか見えないのに。今にも目を開けそうなのに。ヴォルフの両目から、堰を切ったように涙が流れる。こんな。こんなことがあっていいはずがない。


「……?」


 アウゲの手を取ったヴォルフはその違和感に気づいた。指の関節のところに球体が嵌まっている。手首にも。


「人形……?」


 それは、関節の球体によって自由に動かすことができる、精巧に造られたアウゲそっくりの人形だった。


「きゃはははははは!」


 耳障りな甲高い笑い声がして、ヴォルフは振り返る。

 屈んだヴォルフと同じくらいの大きさの冥府の者がいた。相変わらず光を全く反射しない黒い身体で、目と口の部分だけが切り絵で作った顔のように白く抜けている。


「引っかかった引っかかった!」


 冥府の者は腹を抱えて笑い転げる。


「お前のそのバカみたいな顔!! ウケるんですけどお!! きゃははははははは!! あー苦しい、あー笑いすぎて死んじゃう。きゃはは、きゃはははははは!! もうやだ、誰か笑うの止めてー!!」


 ヴォルフは人形のアウゲの手をそっと胸の上に戻すと、立ち上がった。


「その人形、花嫁の代わりにお前にやるよ。あ、大丈夫大丈夫。心配しなくても、アソコも念入りに、いい具合に作っといたからちゃんとデキるよ。何なら、本物よりヨかったりして!? きゃはははははは……!!」


「黙れ」


 ヴォルフが小さく、低い声で言う。


「はははは……あがっ!?」


 大口を開けて笑っていた冥府の者の口が裂けて、口から上の頭部が吹き飛ぶ。身体がよたよたと頭部のほうへ歩いていく。


「やめ……たすけ……」


 引きちぎられた頭部を元の位置に戻した冥府の者は命乞いしようとするが、ヴォルフの静かな怒りはそれすら許さない。


「消滅しろ」


 ヴォルフが低い声で命ずると、冥府の者の身体は乾いた漆喰のようにひび割れ崩れていった。しかしヴォルフはもう、そちらを見もしなかった。人形の傍らに膝をつく。人形だとわかった後に見ても、それは眠っているアウゲにしか見えなかった。


「姫さま、待ってて。今行きます」


 ヴォルフは人形の手を元のとおりに組みあわせた。

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