第2話 なんでも何も

 ヴォルフが遠征している間は王宮の自室で過ごしているアウゲだが、ヴォルフが帰ってきた時は2人で「離宮」で過ごすことにしていた。アウゲが故国で暮らしていた家を模して建てられた、離宮とは名ばかりの小さな建物。

 ここにいる間は、王宮の使用人たちも2人を放っておいてくれた。もともと、故国では自らの発する毒素のために、他人が身体に触れることはおろかずっと同じ部屋で過ごすことすらできなかったアウゲだ。自分の身の回りのことを自分ですることには慣れていた。


「姫さま、大丈夫ですか? ショックじゃありませんでした? 何もあの場で言うことないのに、まったく母上は無粋なんだから」


「いいえ、平気よ」


 アウゲはソファに背筋を伸ばして座る。ヴォルフがその隣に腰掛けた。

 アウゲは目を伏せる。髪と同じ色の長いまつ毛が頬に影を落とした。ヴォルフはアウゲの肩を抱き寄せ、こめかみに、瞼にくちづける。アウゲは目を閉じたまま、ヴォルフの肩に頭を預けた。しかしすぐに身体を起こして、真っ直ぐにヴォルフを見る。


「でも、やるからには必ず成し遂げるわ。戦う前から負けてたまるものですか」


「そうこなくっちゃ。さすが、おれの姫さま」


 ヴォルフはアウゲの髪を梳く。


「それで、私は何をすればいいのかしら。明日から、近衛騎士に剣でも習おうかしら」


「だめです」


 言い終わらないうちに、ヴォルフが驚くような強い調子で言う。


「そんな、姫さまの綺麗な手に剣だこなんて……。考えるだけでぞっとします。絶対だめですからね」


「でも、そうでもしないと戦えないわ。厳しい戦いになると、陛下もおっしゃっていたでしょう? せめて自分の身くらい、自分で守れなければ」


「だめです。絶対に、だめ。いいですね?」


 ヴォルフはアウゲの両手を握って、子どもに言い聞かせるように言う。


「それなら、私はどうすればいいの?」


 アウゲは唇を尖らせて上目遣いにヴォルフを見る。


「姫さまには、姫さまの戦い方があるはずです。剣を振るだけが戦いじゃない。父上と母上の試練の時は、引き離されて、母上は迷宮を彷徨う羽目になったって言ってました。そして、母上は冥府の者と延々戦わされたみたいですけど、父上の方は違ったらしいです」


「らしい、というのは?」


「や、なんか、よっぽど辛い思いをしたのか、父上、ちゃんと話してくれないんですよね。でも多分、姫さまが聞けば話してくれると思いますよ。父上は真面目なので」


「ええ。今度聞いてみるわ。もし殿下が話してもいいとおっしゃったら。そして当然のことだけれど、陛下もお強いのね」


 今さらそのことに思い至る。


「強いですよ、母上は。今のおれが本気で戦っても勝てるかどうか。普段はあのとおりふざけてますけどね」


「……不敬よ」


 戦場には行かないアウゲはこれまで数度しかヴォルフの戦いを見たことはなかったが、それでも、彼が素晴らしい剣の使い手であり、その戦い方が優れた舞踏家の舞と同様に洗練されているのは知っていた。この親子はどうも、自分の持っている強さや鋭さを隠したがる傾向にあるようだ。本当によく似ている。そう言うとヴォルフは嫌がるだろうが。

 ヴォルフはアウゲの方に身体を向け、背中に両腕を回して抱き寄せる。首筋に顔をうずめると、アウゲがつけている香水がふわりと香った。つけた直後は咲き乱れる花々の香りだったが、時間の経過とともに、体温で温められ、アウゲ自身の匂いと混ざりあって、最後には甘く落ち着いた香りになる。ヴォルフはその香りが好きだった。胸いっぱいに吸い込む。


「ああ、姫さまいい匂い……。なんでおれの好きな匂い知ってるんですか。こんなの、ずるいですよ……」


「なんでも何も、あなたがくれたのよ」


「そうでしたっけ。忘れました」


 照れ隠しなのかヴォルフはとぼけているが、その香水は確かにヴォルフがプレゼントしてくれたものだった。香水選びにつきあわされたメーアメーアいわく、「大変難儀でございました」と。全てを理解していながら同調はしない、彼らしい言葉だった。

 アウゲの背中に回っていた手がするりと頬に移る。アウゲはヴォルフに身体を預けて目を閉じた。唇が重なる。柔らかく。アウゲの心の底には硬くて重い、金属質の不安がある。ヴォルフはそのことを知っている。敵わない。今日まで彼に、どれほど助けられただろう。妙に人懐こい奇妙な近衛騎士としてアウゲの目の前に現れたあの日から、今まで。

 くちづけながら、ヴォルフの大きな手が頬を撫で、髪を梳く。指先で耳の縁をなぞられると身体の中心がとろりとして、もう自力で座っていられない。ヴォルフの背中に腕を回して彼から与えられる熱に没頭する。

 唇を割ってヴォルフの温かい舌が入ってくる。ヴォルフの舌はそれ自体が意思を持つ生き物のように、アウゲの舌に絡んで、口内をさぐり、歯列をなぞる。


「ふ……」


 翻弄されて声が漏れる。背中の肌に直接彼の手のひらの温かさを感じて、それでアウゲはヴォルフがドレスの背中のボタンを全て外し終わったことを知る。

 襟元がくつろげられて、首筋にキスの痕が付け加えられていく。


「痕はだめ……」


「もう遅いです。ピンクのドレス、しばらく着られないですね」


 ちゅ、ちゅ、とヴォルフが音をたてる度に、首筋に、鎖骨の上に、紅い花が咲く。


「だれの、んっ、せい、なの……」


「別におれは見られてもなんともないですよ。むしろ見せびらかしたい」


「ばか……」


 アウゲは目を閉じたまま、ヴォルフの上着を握りしめる。


「だって……みんな、姫さまのこと見すぎです」


 ヴォルフはアウゲの背中に腕を回して強く抱き寄せると、首筋を鼻先でなぞる。アウゲの顎が細かく震えた。


「姫さまを見ると、みんな姫さまのこと、好きになっちゃう」


「そんなはず……」


「あるんですよ。わかってないですね、姫さまは」


 ヴォルフはもう一度アウゲの唇を柔らかく喰む。


「姫さまは、自分がどれだけ魔族と冥府の者にとって魅力的か、知らないでしょう」


 ヴォルフは熱を帯びて潤んだアウゲの目を覗きこむ。


「でも、たとえそうだとしても、私に触れていいのはあなただけよ」


 アウゲは上目遣いにヴォルフを見る。ヴォルフの深い青の目に、自分が映っている。そして自分の目にもヴォルフが映っているだろう。ただひとりの人として。アウゲはヴォルフの頬にそっと指先で触れる。


「愛しているの、ヴォルフ」


「姫さま……アウゲ」


 ヴォルフはアウゲを膝の上に抱き上げると、唇を重ねた。それはますます熱を帯びていく。お互いを行き来する熱が、さらにお互いの熱を上げる。高まっていく。ビスチェの背中のリボンが解かれる。


「ねぇ、ヴォルフ。ここでは、いや」


 アウゲはヴォルフの首に両腕を回したまま、顔を少し離して訴える。


「ん。わかりました」


 ヴォルフは軽く唇を触れ合わせると、アウゲを横抱きにして立ち上がった。寝室へ続く扉がひとりでに開く。許可を得ていない者には決して開かれない魔界式の扉だ。きっと今朝も、メーアメーアは離宮に2人を呼びにきたに違いない。しかし、ヴォルフはメーアメーアに扉を開かなかった。

 ヴォルフはアウゲをそっとベッドに座らせると、床に片膝をついて、アウゲの足を自分の膝に乗せて靴を脱がせた。


「いつ見ても姫さまの足は小さくてかわいいな」


「特に小さい足というわけではないわ。普通よ。多分」


「でも、かわいさは普通じゃない」


 ヴォルフの手が脚を遡ってくる。アウゲは思わず目を閉じた。


「もっと姫さまが見たい。触りたい」ヴォルフはアウゲの膝頭にくちづけて、アウゲを見上げる。「いいでしょ、アウゲ」


「……」


 返事はため息に変わってしまって、アウゲはただ頷いた。

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