アフリカ人、北を征(ゆ)く

北浦寒山

第1話【一】アフリカ人、アフリカを去る(前編)


 照りつける太陽が大地をく。


 じりじりと音が聞こえそうな日差し。

 わずかな風が丈の高いブッシュをさわさわと揺らす。カカ、カカカカ、とどこかで鳥の啼く乾いた声がする。


 デンババは腰を低くしたまま微かに目を左右に配った。

 陽光が漆黒の肌に容赦なく照り付ける。

 南の地平に薄い雲がかかっている。イヒビの川の方だ。それ以外に空に雲はない。抜けるような青空がどこまでも広がっている。


 重い、圧力のある青。

 それがアフリカの空の色だった。


 身長よりも長い、黒光りする重い槍をそっと持ち替える。

 耳を澄ます。ぶんぶんと耳障りにハエが顔の周囲を飛ぶ。だが、デンババの聴力がそれに乱されることはない。


 草が僅かに乱れる音が複数、斜め右側から聞こえる。


 鹿クルングだ。角の先端がかすかに見える。

 間違いない。槍を握り直す。

 

 ボノエボの木に小石のような蕾のつく頃、鹿はこの辺りを通って西へ向かう。水場に拠点を置き、子鹿を生むためだ。

 デンババたち、マヒ族にとっては狩りの季節だった。


 ちらと目を上げる。遥かな先にもっさりと葉の繁ったビナバの木のシルエットが見える。

 その梢には葉の陰に隠れたカンガがいるはずだった。


 ピピ、ツピッピ、と木の方角から鳥の声。


 カンガの立てた鳥の啼き声だ。『右へ三つ』と声は言う。

 


 獲物に気づかれることなく情報を交換する方法を、マヒ族の狩人は古くから体得していた。

 鳥の声の音素を耳で聴き分け、微妙な啼き方の違いからそれに意味を持たせることにより会話する。


 その声はまさしく鳥の声そのものにしか聞こえない。

 鹿たちの動きにも乱れは生じていなかった。

 マヒ族の暮らす地域は常に草深く、丈の高いブッシュに遮られ、獲物の姿を視認することはできない。それゆえに、マヒ族は古くから仲間と協力して狩りをする方法を編み出していた。


 獲物に姿を見せる事なく、しかも姿を見ずにたおす。

 この草深い原野で狩りをして生き抜いていくためには、その方法しかなかったのだ。


 右へ三つ。掌を水平にして指を開く。角度にして三つ分、という意味だった。

 目を少し上げて瞬間的に目測する。


 ビナバの木まで二百五十五歩。右三つの角度で、鹿までの距離は百三十六歩。

 正確に槍で仕留められる距離まであと十六歩だ。

 デンババは慎重に、音もなくブッシュの中を分け入った。



 AB二点間の距離と定点の角度からC点までの距離を割り出し、さらに次の角度からその先の点の座標を特定する。


 これは、現代で言うところの多角点トラバース測量である。


 衛星電波を使ったRTKリアルタイムキネマティック測位が主流となっている現代の測量においても、電波の届かない場所や屋内、障害物のある場所などでは、多角点トラバース測量を

併用する場合が多い。

 通常はTSトータルステーションから発射されたレーザー光をピンミラーに反射させて測距する。角度は機械が自動的に検知して座標を自動計算する。


 マヒ族は、それを肉眼で行うことができるのだった。


 生物は古来から、その生活環境の変化に適応して能力を発達させ、生き抜いてきた。

 ヒトという種もまた、例外ではない。


 中央アフリカにかつていたある部族では、成人となるための通過儀礼イニシエーションが「虫と会話すること」であったという。

 これは古来よりサバクトビバッタの被害にさらされてきたことにより「虫と和解する」という方法を体得せざるを得なかった、という環境によるものであるらしい。


 現代においてもそんな例が実在する。


 東南アジアの海洋民族・バジャウ族は、六十メートルの水深で十分以上の呼吸停止に耐えることができる。

 これは、水中活動に適した状態に臓器が進化したことによるものだ。


 文明の進歩により失われてしまった、種としての能力は数多い。

 ともすれば忘れがちな事ではあるが、ヒトという種もまた、環境の変化とともに進化もしくは退化する一つの生命体なのだ。




 十六。

 デンババは立ち止まった。

 鹿の動く気配はない。


 チチッチ、と木からカンガの声。『そこだ』と聞こえる。

 デンババはかがんだまま、鹿のいる方角に向き直った。槍を肩に乗せ、先端を空へ向ける。

 上半身を大きく反らせ、はがねのような黒い腕がしなった。


 ――シッ! 


 微風のような音がデンババの口から漏れ、身長よりも長い槍が空に向かって放たれた。

 大きく上空へ向かった槍は空中で放物線を描いて反転し、その自重によって落下速度を増していく。


 獲物が上空から迫ってくる影に気づいたときは、もう遅い。


 ざっ、と槍の刺さる音と共に、ピイッ! と一匹が悲鳴を上げた。

 たちまち他の鹿が蜘蛛の子を散らすように跳びはね、逃げ出した。

 デンババが黄色い草を蹴散らして駆け寄る。


 雌鹿の一匹が首を射抜かれて倒れ、びくびくともがいていた。

 デンババはその上に馬乗りになり、腰縄に結んだ石のナイフを引き抜くと、鹿の首に突き立てた。横に引く。

 ざっ、と血が噴き出し、たちまち地面に吸い込まれる。

 雌鹿は動かなくなった。


 ふうっと息をついた。


 ピピイッ! という鋭い鳥の声。カンガだ。


 ――『危険!』


 反射的に立ち上がった、が、草に遮られて何も見えない。

 視界の端でカンガの影が木の枝から飛び降りるのが見えた。


 獲物を置いてはいけない。ナイフを腰に結び直した。

 渾身の力を込めて鹿の身体を左肩に担ぎ、槍を右手で構えたまま、デンババはカンガの方向に向かって走り出す。

 もう音に構ってはいられない。全力で走った。右斜め後ろで草が乱れる音をデンババの鋭い聴覚が捉えていた。

 速度を上げる。迫る気配の速度も上がった。


 ――まずい、来る!

 

 横をちらりと見る。

 まだらな模様が一瞬視界に入る。獰猛な光を帯びた双眸と目が合う。

 チュイだ。


 ごあっ! と横から咆哮が聞こえるのと、前から黒い影が躍り上がるのとが同時だった。

 デンババが向き直った時には、すでにカンガは豹の背後から首に腕を巻き付けていた。両足が胴に巻き付き、太い腕が思い切り首を締め上げている。電光のように素早い一瞬の行動だ。

 並外れた腕力と脚力を持つカンガにしかできない荒業だった。

 豹の白い牙が陽光を反射して輝く。鋭い鉤爪が宙を引っ掻いた。


 カンガと豹は空中で反転し、カンガが下になって草むらに倒れこむ。

 豹の顔と腹が空を向いていた。


 一瞬の隙は見逃さない。


 デンババは獲物を放り出すと槍を両手で構え、カンガに当たらないように、くわっと開いた豹の口からほぼ水平に頭蓋へ向かって槍を突き上げた。

 がつっ、と頭蓋骨を貫く手ごたえが伝わる。

 

 カンガの腕に食い込ませていた豹の腕が動きを止め、二三度宙を切ったあと、動かなくなった。


 カンガが豹の身体を横に投げ出し、荒い息をつきながら起き上がった。引っ掻かれた腕から血が流れている。

 腕に口を当てて血を吸うと、ぺっと赤い唾を吐き出した。


「大丈夫か」デンババが豹の顎に足をかけて槍を引き抜いた。

「ああ、大した怪我じゃない。――結構でかかったな」

「そうだな。久々の大物だ」


 地面に横たわった豹を見やる。デンババの身長よりやや小さい程度の全長だ。

「以前お前が仕留めた獅子シンバほどじゃないか」

「いい勝負じゃないかな」

 カンガが白い歯を見せた。

「ウニグマにいい土産ができたな」

 毛皮の事を言っているのだった。豹の肉はあまり食用に適さないからである。

 

 ウニグマはマヒ族のまじない師だ。

 祖霊をまつる役目を持つまじない師は常に鳥の羽や毛皮、獣の角や牙などで着飾っているのだった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る