★頼み

「頼みって……なんの頼みですか」

 聞きながら、思わず眉をひそめてしまった。

 コーヒーカップの取っ手を握る。もし「二百万円もってこい」とでも言おうものなら、顔中の穴という穴にこのコーヒーぶち込んでやるぞ。

「頼みを聞いてほしい」と言った蛍石さんは、そんな私のように苦笑しつつ答える。

「疑うのも無理はありませんね。少し、確認したいことがあるだけですよ」

 その前にひとつ、と蛍石さんは前置きをする。

「綾さんは、花崎高校生ですよね?」

「ど」ぎくりとする。「どうして、それを」

「見た目から、だいたい高校生だろうと。それに、ヴェイグに来る人は、大抵が花崎市と隣町の駒居市の元住民なんですよ」

 当たっている。私が通っているのは花崎高校であって、住んでるところも花崎市だ。

 県立花崎高校は、県内有数の進学校である。県内で上位二十パーセントしか入れないとの噂がまことしやかに広まっており、私の周りは私の周りは頭の良い人ばっかりだ。私なんかは中学校三年間で猛勉強してやっと受かったくらいの人間である。たぶん補欠合格だろうから、そりゃあ朝テストにだって落ちるというものだ。

 そうなることは分かっていたけど、勉強をやめるわけには、いかなかったのだ。

 あの頃の、心臓から凍った血が巡っていくような感覚を思い出してしまう。

 どういう顔をすればいいんだっけ。関係のないことを考えすぎて、だんだん分からなくなってくる。口の端を吊り上げて笑った顔をつくると、ユキタが赤い瞳で私を捉えるのが分かった。

 ――今はいい。忘れよう。

「それで、花崎高生なら、何が問題なんですか?」

 話を進めようとそう言うと、蛍石さんは少し眉を寄せて微笑んだ。苦しげで、どことなく寂しそうな笑みだった。私のさっきの作り笑いとは比べ物にならない、胸に迫ってくるような。

「綾さんは――……、花矢蓮を、ご存知ですか?」

「……え?」

 表情を見ていたせいで、反応が遅れた。

「は、花矢蓮、さん?あの……黒髪ロングの?」

「知ってらっしゃるんですね」

「……お、同じ、クラスですけど……」

 何で花矢さんが話題にのぼるんだ。ていうか、こっちの世界で現実にいる人の名前が出てくるとちょっとだけ変な感じがする。普通に考えれば、関係はあるんだろうけど。

 蛍石さんは、ふっと軽く息を吐いた。諦めたようにも見えて、思わずユキタと目を合わせる。何を言わんとしてるのか、ユキタにも見当がつかないみたいだ。

 やがて、蛍石さんが口を開く。

「花矢蓮は、わたしの娘なんですよ」


「綾さん、蓮と同じクラスだと言いましたね?できることなら、近況と、……わたしについてどう思っているかを、聞いてきてほしいんです。その頼みさえ聞いてくださったら、案山子でもなんでも差し上げましょう」

「え、ちょ、ちょっと待ってくださいっ」

 うそ、まさか花矢さんのお父さんだったとは!

 確かに……そう言われてみれば鼻筋の通った顔立ちや口元は似ているけれど、目つきはあまりにも違いすぎる。彼女は突き刺すような鋭さがあるけど、蛍石さんは柔和で優しそうだもの。これで気付けと言う方が酷だ。

 それ以上に――近況って。花矢さんは、言うなれば「浮いてる」ような状態なのに。それを、本人のお父君に?

 言えるわけないじゃん!

「その様子だと、やっぱり蓮はクラスで浮いていますよね?」

 ひきつった私の顔を見て、蛍石さんはくっくと忍び笑いをする。

「……そう思いますか?」

 分かってるなら聞かないでほしい。

「そう思いますよ。昔から頑固でしたからね。人に馴染むのが下手なんですよ」

「昔、ってことは、ヴェイグに家族を連れてきたりはしてないんですね。どうして……」

 一人でこっちに、と言おうとして、私は言葉を呑み込んだ。

 ユキタが私の足を軽く蹴ったからだ。

 テーブルの下でさり気なく。きっと蛍石さんは気がついていない。

 顔を上げれば、ユキタは小さく首を振っていた。

 ――ここは、居場所のない人が訪れる世界。

 あまり踏み込んではいけないのかもしれない。そういうところの気遣いは、流石翔くんだなぁと思う。

「ヴェイグに来たのは、かれこれ九年ほど前になりますね。当時はまだ、ここもできたばかりのようで、更地が沢山あったんですよ。この店、『ロータス』は、そんな中でできたヴェイグ初の店です」

 蛍石さんは気にするふうでもなく、懐かしげに店内を見回す。

「なら、そろそろ十周年ですね」とユキタ。

「十周年だなんて信じられないな。建てたばっかりみたいにお店も綺麗だし」

 暖かみのある店内は、それだけ蛍石さんがここを大事にしてきたってことの表れだろう。

「九年も経てば、蓮も私の顔を忘れているかもしれませんね」

 ぽつり、と扉を眺めながら蛍石さんは呟く。

「花矢さん、記憶力がいいからきっと、覚えてますよ。大丈夫、です」

 気休めだけど、言わずにはいられなかった。

 振り返った蛍石さんは私の目を見ると、くしゃりと笑う。

「覚えていたらたぶん、私のことを訊いてくる綾さんに紙でもぶちまけるでしょうね」

「え?」

「それか、普通に一発殴るかも」

「ええ⁉」

「蓮にとってわたしはトラウマそのものでしょうから……何かしら抵抗はあると思います。蓮が覚えていて一番被害を受けるのは綾さんですね」

「ええっ!」

 私は頭を抱える。なにそれ……聞いてないよ……花矢さん、もうちょっとおとなしいイメージだし……!

「よ、よく私に行かせようと思いましたね……」

「すみません。それは申し訳なく思ってます。でも」

 蛍石さんの表情が、ふっと色を失くす。私が見ても分かるくらいの無理矢理な笑みで、こう続けた。

「連を知る、最後の手立てなんです」

 思わずユキタと顔を見合わせる。

「……ユキタ、どうすべき?」

「もし受けたら、僕はあちら側に行けないから、全部綾がすることになる。大変だと思うなら、最初から断っておくほうがお互いのためなんじゃないかな」

「そうね、そうだよね、うん……でも案山子のためでもあるからなぁ」

 仕方ない。横髪を耳に掛け、腹を決めた私は蛍石さんに目を合わせた。

「わかりました、訊いてきます……気が向いたらですけど。明日の夜にすぐ分かるとは限りませんからね?」

「いいですよ。何日掛かろうと待ちましょう」

「案山子のためなんで、なるべく早く頑張ります。――約束、守ってくださいよ」

「勿論です」

 そう蛍石さんが答えた瞬間、周りの景色がぼやけはじめた。水彩画の線を滲ませるようにゆっくりと、色という色が水に溶けはじめる。

 ああ……朝がくるのか。てことは花矢さんに聞きに行かなきゃいけない。なるべく接触を持たずにいたかったんだけど。美雪たちに変な疑いを掛けられたくないし。

「あの、私、行ってきます」

 眼に涙の膜が張ったみたいにぐんにゃりと歪む景色に声をかけた。既にユキタと白いマグカップの区別もつかない――


「――そういえば綾さん、先程、どうして、と仰いましたよね」

 薄れていく意識が、一瞬引き留められた。

「どうして、そうですね……言ってしまえば、ここは、」

「わたしたちの、最後の砦なんですよ」


 透明に歪んだ世界に、言葉の切れ端をつかもうと手を伸ばしてみるけれど、結局何かを掴めるわけでもなかった。

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