2-4

 その幻獣は、ベッドの上に横たわったまま動く気配がない。

 大型犬よりもさらに一回り大きな身体を持つ、犬の姿をした幻獣だ。

 黒い被毛には毛艶がなく、ボサボサしていてお世辞にも綺麗とはいえない。身体全体は黒い被毛に覆われているが、長い尾と足先の被毛だけは白く、まるで靴下を履いているかのようだ。口先の被毛は炎を思わせる鮮やかな赤で、黒と赤のコントラストが非常に印象的だった。


 シュユはこの幻獣を知っている。

 過去に本を読んでいた際に、目にしたことがある。

 炎を呼び、国一つを火の海に沈めることができるほどの強い力を持つ幻獣――業禍犬ごうかけんだ。

 なるほど、炎を自在に操る幻獣が守護者とは、星炎の神獣の地らしい。


「スウォンツェ、新たな幻療士を連れてきた。俺と同じ、神獣に縁を持つ家門の出だ。お前を蝕む病の正体を突き止めるため、協力してくれないか」


 内心納得する傍で、リュカがスウォンツェと紹介された業禍犬の近くに片膝をついて座り、呼びかけていた。


「……」


 主人の声に反応し、スウォンツェがわずかに目を開ける。

 赤い目だけを動かしてリュカを見上げ、次にシュユを見上げ、静かにまた目を閉じた。

 本来、心を許した人間以外が同じ空間にいるだけで激しい敵意を見せてくる業禍犬が、牙をむき出さずにただ横たわっているだけの姿は見ているだけで心が痛む。

 すっかりボサボサになってしまった被毛を優しく撫で、リュカがつらそうにため息をついた。


「……例の病を患ってからは、ずっとこの調子だ。ほとんどの時間を横になって過ごし、呼びかけても反応が薄い。こうして目線だけで見上げてくる程度だ」


 リュカの声に耳を傾けながら、シュユもメディレニアとともにスウォンツェの傍へ歩み寄る。

 ちょうどリュカの真隣に来たところで足を止め、彼を真似るかのようにその場に膝をつき、床に直接座った。

 手に持っていたトランクケースは自分の真隣に置き、スウォンツェがさらにその横へ腰を下ろす。


「どのような症状が出ているのか、まずは具体的にお聞きしてもよろしいでしょうか?」


 リュカへ問いながら、シュユはトランクケースから体温計を取り出した。

 体温計の先端に専用のカバーをかぶせ、水平にしてゆっくりとスウォンツェの肛門へ入れる。

 今の体温を無事に測り終えると体温計を抜き、カバーを取り外した。


「そうだな……。最初は特に気になる様子はなかったのだが……ある日を境に、動いてもすぐに疲れた様子を見せるようになった。ちょうど調査で忙しい時期だったため、無理をさせてしまったかと思っていたのだが……」


 次に片手でトランクケースを開け、中から白紙の本とペンを取り出し、真新しいページにペン先を乗せた。

 文字一つ綴られていなかった白いページに、シュユの手によって文字が綴られていく。

 記されたのは、元気消失と疲れやすさの文字と、現在のスウォンツェの体温。


「しばらく経った頃、今度は動くのを避けて静かに過ごすようになってきた。それに加え、早朝頃に乾いた咳をするようにもなったな」


 運動拒否。

 早朝頃に乾いた咳。

 リュカが告げた症状をページへ次々に書き込んでいく。

 咳という文字を綴った瞬間、ほんの少しだけ、シュユの顔が曇った。


「……他に何か特徴的な症状は?」

「明らかに食欲が落ちている。時折、苦しそうに呼吸をすることもあるため、ベアトリスの処方で呼吸を楽にするための薬を飲ませているな」

「……食欲不振と呼吸困難ですか……」


 小さな声で復唱しつつ、シュユは本とペンを一度置いてスウォンツェの顎の下に触れた。

 指先に意識を集中させて、感じる脈拍数を脳内で数える。

 素早くペンを走らせて現在の脈拍数を記しておくと、次にスウォンツェの腹部へ軽く手を触れ、呼吸数を測った。

 確かに呼吸が浅く、早くなっており、何らかの異常が起きていることが明らかだ。


「――」


 見聞きした症状を一つ一つ記していく手が、ふと止まる。

 初期は無症状。

 元気消失。

 疲れやすさ。

 数日後に運動拒否と早朝頃の乾いた咳。

 食欲不振。

 呼吸困難。

 ページの上に並べられた症状たちは、どれも覚えがあるものだ。

 過去の苦い記憶がシュユの頭の端に蘇る。


 そう、あれはまだシュユが領地で暮らし、幻療士になるために必要な勉強をしていた頃。ある日突然領内にいる幻獣たちの急死が相次いでいるという報告から始まった――病魔災害に直面したときのこと。

 シュユは、これらの症状を持つ病を――メディレニアの母である一角狼の命を奪った病を、この目で見ていた。


「……侯爵様が確認された症状は、これで全部ですか?」

「あ、あの……」


 シュユがリュカへ確認をとった瞬間、別の場所から声があがった。

 ぱっと声が聞こえた方向へ素早く目を向ける。

 声をあげたのは、出入り口近くでこちらの様子を伺っていた一人のメイドからだった。


「どうした。何か急遽報告しなければならないことでも起きたか?」


 リュカがメイドへ声をかけると、メイドはおずおずとした様子で口を開いた。


「その……お客様が相次いだので、まだ旦那様に報告できていなかったんですが……」

「なんだ」

「スウォンツェ様……今朝、血尿の症状も新たに出ていました」


 血尿。

 新たな症状がさらに加わった瞬間、シュユは己の身体が凍りつくのを感じた。

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