【短編】天音さん、傘をなくしたようです

くらの

第1話 天音さん、もう悶々なようです

     ☆


 もくもくと湯気が立ち昇る湯船の中。


 天音天てんねそらは一人、悶々としていた。


「お名前を聞きそびれてしまいました……」


 日中、コンビニの前で雨宿りをしていた天に、新品のビニール傘を手渡してくれた男性の顔が、頭から離れない。


「うふふっ。『こんなところにずっといると風邪ひきますよ』ですって」


 ペンケースを財布と間違えて鞄に入れてしまったがために傘を買えなかった天を救ってくれた男性の声が、何度も何度も、脳内にこだまする。


「またお会いするまでは……」


 天は決心した。次、彼に会う時までずっと、この傘を肌身離さず持っておこうと。

 そうして、傘を返すついでを装って、もっとお話しするんだと。


 ――傘を返すのは惜しいけれど、一緒にお話しできるのなら安いものです。


 これまで天に向けられてきた善意は、往々にして下心が見え透いたものであった。

 困ってもいないのに手渡されたハンカチに連絡先が挟まっていたり、忘れた教科書を見せてもらう代わりにデートを要求されたりと、思い出せば枚挙にいとまがない。


 だから、目も合わせずに発せられたあの言葉は、何の下心もなかったあの言葉は、天の心に深く刺さった。


     ☆


 もうすぐ高二の春休みが終わるというのに、まだ何も思い出がない。

 一つくらいは何かしておかないと、新学期になって色々と困ることになる。


 新年度といえば、クラス替え。

 知り合いが同じクラスに一人もいないなんてことはないだろうが、新たなクラスメイトの大半は、廊下で見かけたことはあるが、話したことはないような人たち。


 そんな彼らと話さねばならないとき、まず話題に上がるのが「春休みに何をしたのか」ではなかろうか。

 苗字が「あ」とか「い」とかから始まるような人たちは、出席番号の話で盛り上がることも可能なのだろうが、生憎俺の名前は千代世一ちよせはじめ

 出席番号一番になりようがない。


 ところでこの「春休みに何をしたのか」という話題。

 何気なく聞こえるかもしれないが、実は後の高校生活を大きく左右しうる諸刃の剣なのだ。


 この話題で会話がはずみ、話していて面白いやつだと認識されれば、その後の高校生活も何不自由なく送れるだろう。

 しかしもしここで「何もしていない」と答えれば、話はそこで終わってしまい、俺には「つまらないやつ」というレッテルが貼られる。

 第一印象はのちの評価に大きく影響し、一度貼られてしまったレッテルを剝がすのは容易ではない。

 だから、その後の高校生活は間違いなくつまらないものになってしまう。


 鈍色の高校生活なんてごめんだ。バラ色とまではいかないにしても、せめて明度の高い高校生活を送りたい。




 そういうわけで、一つでも話のネタになるようなことをしなければという使命感に駆られた俺は、重たい腰を上げて市街地に足を運んだ。


 特にやりたいことはないので、この辺りをふらふら歩いて、何か目を引くものを探す作戦だ。

 ゲームセンターでお金を溶かして、行列のできるパン屋でカレーパンを買って、本屋で最近何かと話題の漫画の新刊を買って、話のネタを順調に仕入れていった。


 ちょうど、ストリートシンガーのギターケースに百円玉を投げ入れているところで、ぽつりぽつりと雨粒が手の甲を濡らすのに気づいた。

 天気予報は曇りだったしすぐにやむだろうなんて考えながら次なるネタを求めて歩いているうちに、本降りになってしまった。


 こうなったら傘を買わなくては。


 近くにあったコンビニに一目散に駆け込む。ほのかに香るコーヒーの香り。

 ビニール傘を手に取ってレジに向かう。

 ポケットからスマホを取り出して電子決済で支払いを済ませる。

 そうしてレシートを受け取ったところで、自らの失態に気づく。


 こんなこともあろうかと、日ごろからバッグに折り畳み傘を入れてるんだった……。

 使うことがほとんどないので、すっかり失念していた。


 返品してしまおうかとも過ったが、レジには同じように傘を手にした人がたくさん並んでいたから、諦めることにした。


 自動ドアが開くとともに、ざあざあという雨音が、自動車が水しぶきをあげる音が、ぴちゃぴちゃと足早に歩く人々の足音が、次第に大きくなっていく。


 一歩外に出ると、軒先の傘立ての隣で、春霖に降られてしっぽりと濡れた若い女性が雨宿りしていた。

 スカートの裾からぽたぽたと水滴を垂らしながら、困ったようにトートバッグの中を探っている。


 もうすぐ春とはいえ、まだ肌寒い日が続いている。雨が降るような日はなおさらだ。

 加えてこの雨はしばらくやむこともなさそうだし……。


「あっ、あの……もしよかったらこれ使ってください」


 気づいた時には勝手に口が動いていた。右手首にかけていたビニール傘を女性に差し出す。


「……いえ、大丈夫です」


 俯いたままの女性に断られた。

 告白したわけでもないのに、かなり心にくる。せめてもの救いは、彼女の口調が、すべてを拒絶するような冷酷なものではなく、遠慮がちなものだったこと。

 ただ、遠慮しているだけなのだろう。


「俺のことは気にしないで使ってください。そのほうが、いらない荷物が減って楽なんです」

「本当に……いいんですか?」


 そういって初めて目を合わせてくれたのはいいのだが……。

 予想以上に整った顔立ちをしていて、直視できない。今度は俺が目をそらす番になった。


「俺はもう一本持ってるんで。それより、こんなところにずっといると風邪ひきますよ」


 俺が傘を二本持っていても仕方がない。

 一本は、また別に必要とされている人に使われるべきだ。

 何より、使いもしない傘を一本腕にかけて歩くのは少々煩わしい。

 さっき買ったばかりの傘を、女性に押し付けるようにして手渡す。


「あ……ありがとうございます。ありがたく使わせていただきま……す」

「ええ、使い終わったら適当に捨てちゃってください」


 一日一善、数か月ぶりに達成。これも一つのネタになりそうだ。

 そうして、折り畳み傘を手に、次なるネタ探しを再開した。


     ☆


 春休みの終わりまで、天があの男性のことを思い出さない日は一日としてなかった。


 名乗ることなく去ってしまった彼を思い出すたびに増幅されてゆく想いは、破裂しそうなほどに大きく膨らんでいた。


 暇のある日はほとんど毎日、傘を片手にあのコンビニへ足を運んだ。

 会えない日が重なるほど、会いたくなる。ほんとうの優しさを持った素敵な彼。


 天は今日も、枕元に傘を置いて眠りにつくのであった。


 ――一体いつになったら、お会いできるのでしょう。


     ☆






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