第3話 信じられると、ようやく思えたのに…… その9

「それは、何に対して?」

 頭上から、樹さんの、明らかに怒っていると分かる声が降ってくる。

 私の、この場所に至るまでの記憶の最後は、車内で樹さんにシートを倒されたところまで。その直前の状況を思い出せば、容易に分かる。

「樹さんの車に……その……汚物を……」

 しどろもどろに言いながら、私は弁償金額がいくらになるのか、頭の中で電卓を叩き始めていた。

「何言ってるの?」

「え?」

 慌てて顔を上げると、樹さんの表情は明らかに戸惑っていた。

「ち、違うのでしょう……か?」

 恐る恐る尋ねると、樹さんは数秒程固まった。それから、長いため息をついてから、私の手をぎゅっと掴んだ。

「樹さん!?」

「ちょっと、こっち来て」

そうして連れてこられた場所に、私は別の意味で目眩がした。

「乗って」

「嫌です」

 例え樹さんからの命令だとしても、これは断固拒否したい。

「どうして、体重計に乗らないといけないんですか?」

 何が悲しくて、好きな人に自分のコンプレックスを曝け出さなくてはならないのだ。

しかし、樹さんの鋭い眼差しは、私に無言の圧をかけてくるので、渋々乗った。

 吐いた分だろうか。朝体重を測った時より、200g程また減っていたので「やった」と小さく呟いたら、樹さんにギロリと睨まれてしまった。

 佐野さんに睨まれるのとは訳が違う。自分に好意があると、普段言ってくれてる人からの睨みだ。怯まない方がおかしい。私は、気持ちだけ、ハムスターにでもなったかのように縮こまってた。

「優花……聞いていい?」

「……どうぞ」

「……ちゃんと食事しろって……俺……言わなかったっけ?」

「……言いました」

「俺がこの間見せてもらった健康診断の結果から、10キロ近く体重が落ちている理由、説明してくれる?」

「それ……は……」

 どう返事すればいいのだろう?何で、樹さんはこんなにも、私が痩せることに反対するのだろう?

 だって、女が好きな人のために綺麗になりたいって感情は、普通のことではないだろうか。

 痩せることが綺麗になることだと、世間一般では思われているではないか。だから芸能人とかは、みんな細くて綺麗な人ばかりではないか。

 私は、10キロ近く痩せたから着れるようになった服があるというのに。

 外に出たいと、思えるようになったというのに。

 まだ自信を持って、樹さんの彼女とは言えないけれど、好きだと言ってくれる樹さんの気持ちに、素直に頷けるようになったのだ。

 どう言えば良い?どうすれば、樹さんにこの気持ちが伝わる?

 そんなことを、ぐるぐると考えていると、樹さんの指が私の目元に触れた。

 樹さんの指が濡れているのを見て、私は自分が涙を流したことに気づいた。

「どうして泣くの……?」

 樹さんの方がずっと泣きそうな表情をしていたので、私の涙腺は、一気に決壊してしまった。

 それから樹さんは、一向に泣き止まない私の手を引いて、2階へと連れて行った。

 扉は全部で4つ。そのうちの1つを樹さんが開けると、真っ白な医療の世界とはかけ離れた、茶色い木の壁と、大きなベッド、クローゼット、そして古くから使っているのが分かる机と椅子だけがそこにあった。机の上には、写真立てが置かれていたが、それは伏せられている。

「座らせるよ」

 樹さんは、私が頷くのを確認してから、私をベッドに座らせて、自分も横に座った。

 てっきり樹さんのようなハイスペックイケメンは、タワマンに住んでいるのではないか、と思っていた。

 でも、樹さんらしいなと、思ってしまった。

 樹さんは、私の肩を抱き寄せてから

「何を考えてるの?」

 と聞いてきた。

「ここが樹さんが生きてる部屋なんだなと、思いました」

「つまらない部屋だと思った?」

 私は、首を横に振った。

「そうか」

 樹さんは、より強く私の肩を抱きしめてくれてから

「ごめん、優花」

 と謝ってきた。


 勝手に泣いたのは、私だ。樹さんは、何も悪くはない。

 伝えなくては、と焦れば焦るほど、言葉が喉に突っかかってしまう。ただただ、息だけが苦しいと伝えるように、洩れ続ける。

 そんな私に樹さんは

「どうして、こんなことしたの?」

と、再び問いかけてくる。今度は、とても優しい声だった。

「言いたくなったらでいいから……」

 そう言いながら、樹さんは私の背中を撫でてもくれた。

 どう話せばいいのか。何から話せば良いのか。

 そもそも、こんなこと話すべきなのか。

 考えて、考えて、そして考えた。

 そうして、ようやく出てきたのが

「樹さんに嫌われたくなかったんです……」

 と、なんとも情けない、今どきドラマでもあまり使わないような陳腐すぎるセリフだった。

 今まで、見た目で散々排除されてきた。子供の頃から、職場選び、結婚相手探しに至るまで。だから、見た目以外のところで必要とされたいと、必死に足掻いた。その結果、仕事も趣味も順調にすることができた。

 万が一ダメになったとしても、リカバリーする方法も、自力で手に入れた。それだけのスキルを、しっかりと身に着けた。それが、私。

 でも、氷室樹という、私がかつて考えていた人生設計の中では到底考えられなかった奇跡とも言える存在に出会ってしまった。何故か、好きだと言われてしまった。付き合うことになってしまった。そんなことは、もう、とうの昔に諦めていたおとぎ話だと思っていた。

 常に失うことを想定して、生きてきた。そうすることで、自分の心を守ることができたから。

 だから、氷室樹という存在に対しても、そう思わなくてはいけなかった。いつ失っても良い存在だと、覚悟をしておかなくてはいけなかった。そうしないと、私の心を守れなかったはずなのに。

 それなのに、いつしか、私はこの人を失いたくないと、思い始めた。去ってしまうことを、恐れた。それほどまでに、氷室樹に恋してしまった。そんな自分がいるなんて、知らなかったし、知りたくもなかった。

 私は、氷室樹への恋心を自覚する度に、鏡の中の自分に絶望した。釣り合うわけないと気づかれた時、きっと氷室樹は目の前から消えてしまうだろうと、私は確信していた。皆、そうだったから。

 1人で生きることを楽しめる自分に戻れる自信がない。だから少しでも自分に絶望しなくて済むように、痩せたかった。

 見た目だけでも、釣り合うようになりたかった。だからこそ、頑張らせて欲しかった。気づかないでいて欲しかった。

 そんなことを、樹さんに伝わるか伝わらないかわからない、支離滅裂な言葉でぶちまけてしまった。

「せめて、気づかないフリをしていて欲しかった」

 と私が言ったところで、ようやく我に返った。しまった、と思った。終わった、と思った。

「ごめんなさい、帰ります」

 目眩は落ち着いていたけれど、この場所にいるのが耐えられなかった。私は、急いで立ち上がり、部屋から出ようとした。

 扉に手をかけた時、樹さんに背後から抱きしめられた。

「行くな」

「……離してください」

「嫌だ」

「離して!」

「ダメだ」

 樹さんの、私を抱く腕の力が強くなった。きっとそのせいだろう。胸が、とても苦しい。声も、出てこない。息が、止まりそう。

「優花………」

 樹さんの声と息が、耳から伝わって体内に入ってくる。少し前までは、聞くだけで幸せだと思った声。だけど今は、切なくて少し怖い。彼の口から何が出てくるか、分からないから。

それからすぐ、彼が放った言葉は、私を戸惑わせた。

「君だけが不安だと、思わないで」

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