第23話 磯際で船を破る

「ふわあ……。おはよう、お兄ちゃん」

「…………」

「……お兄ちゃん?」

「え? あ、ああ……おはよう」


 起きてきた小春の挨拶にも気づけないぐらい、俺は焦っていた。

 理由は明白。

 ゴールデンウィーク明けのあの日にもらった手紙。それが、なくなっていたのだ。

 自分で保管場所を動かしたり、どこかに持ち出した記憶はない。

 あまり考えたくはないのだが、やはり4人のうちの誰かが持ち去ったのだろうか。

 それが、非常に気がかりだった。


「そういえば小春……ちょっと聞きたいんだが」

「どうかしましたか?」


 きょとんとした顔で小首を傾げる小春。

 その仕草を見て、普段なら愛らしいという言葉が浮かんでもおかしくはなかった。

 でも、今の俺にそんな余裕はない。悲しいことに。


「ああ……いや……その」

「……言いにくいことですか?」

「いや、そういうわけじゃないよ。その……昨日、俺の部屋に入った人って誰かいるかなって思って……」

「お兄ちゃんの部屋ですか? そうですね……」


 小春は胸の前で腕を組んで、うーん、と小さく唸って考え込んだ。


「多分、4人とも入ったと思います。勝手にすみません」

「いや、大丈夫だよ。4人とも……そうか」

「ええ。アキはお兄ちゃんの部屋で寝ちゃってましたし、アキを起こしに行ったのは小春です。と言っても私が起こしに行ったときにはアキはもう起きてて、トイレに行ってましたけど」

「そうか……。夏音と千冬は?」

「夏音ちゃんはその後お布団を取りに。1人で大丈夫、と言ってたので任せちゃいました」

「そうだったのか。手伝うから動かす時には俺を呼んでくれって言ったはずなんだけどな」

「まあ、お布団を動かすだけですから。千冬ちゃんはその後夏音ちゃんが運び忘れた枕を取りに。そんな感じで、お兄ちゃんの部屋にはみんな入ったと思いますね」

「そうか……ありがとう」


 これは非常に困った。

 誰か1人だけ入ったと言うのであれば質問のしようもあるのだが、全員となると誰が持ち出したのかもわからない。

 まさか全員に手紙の話をバラすわけにもいかないし。

 それに、小春の話を聞く限り4人とも1人で俺の部屋に入ったタイミングがあるということになる。

 これでは到底特定はできないだろう。


「お兄ちゃん? もしかして……何かありました?」

「ああ、いや、そういうわけじゃなくて……」


 しまった、また顔に出てたか。そう思って、それだけじゃないなと自分の質問に呆れる。

 この質問じゃ何かありましたと自白しているようなものだ。

 なんとか誤魔化さねばと、脳をフル回転させる。


「……髪留め用のゴムが部屋に落ちてたんだよ。誰か入ったのかな、と思って」

「あら、本当ですか? 小春のかもしれませんし、見せてもらっても?」

「いや、落ちてたと言っても劣化して切れてたんだよ。だからモノはもうないんだ」

「……なるほど、そうなんですね。ふふっ、わかりました」


 それだけ言うと小春は「アキを叩き起こしてきますね」と告げて部屋に戻ってしまった。

 ……上手く誤魔化せただろうか。

 正直、そんな気は全くしなかった。

 裏に隠したものは、やはり見抜かれてしまっただろうか。

 最後の小春の意味深な笑みが、瞼の裏に焼きついて離れない。



☆☆☆★★★☆☆☆



「……ここは、ええと……だから、この公式が……」

「……ハル兄、答え違くないっスか?」

「え、あれ……本当だ……」


 時刻は11時の少し前。

 お母さんに謝ってくるねと言って帰路に着く秋華を見送り、昨日同様夏音に勉強を教える時間を作った。

 現在千冬と小春は食材などの買い出しに行っている。

 俺も手伝おうとしたのだが、「夏音ちゃんを1人にするつもりですか? あと、お兄ちゃんは今すごく疲れてそうなので家にいてくださいね」と圧をかけられてしまいお留守番になった。

 なので、その時間を使って夏音に勉強を教えているのだが……。


(全然ダメだな……)


 講師役である俺が、明らかに精彩を欠いていた。

 どうにも頭が回っていない。

 それはもちろん、勉強に割くべき思考回路が全く関係のない分野へと徴兵されてしまっているせいだ……というのは、自分でも分かりきっている。。


「うーむ……」


 ポリポリと頭を掻き、俺は大きくため息をつく。

 このままでは俺の勉強どころか、夏音の成績がとても怪しくなってしまう。

 夏樹の……何より、夏音本人たっての希望で教師役をしているのだ。

 ちょっと集中できなかったので何も教えられませんでした、では二人にあまりにも申し訳がない。

 なんとしても切り替えねば。


「問題、難しいんスか?」

「いや、難しくはないよ。たまたま俺が集中できてないだけだ」


 そう、俺が集中できてないだけだ。

 夏音は本当に関係が、ない。


 ……いや、本当にそうだろうか?

 手紙を持ち去った者がいるとすれば、小春、夏音、秋華、千冬の4人のうちの1人であろう。

 目の前にいる夏音が、持ち去った……あるいは、そもそも手紙を出した張本人かもしれない。

 疑っても、いいんだぞ?

 そんな、悪魔のような声が聞こえた気がした。


 俺はかぶりを振る。

 『妹』を疑うなんて、そんなの嫌だ。

 俺はそんなことしたくない。


「……ハル兄、あの」

「ん、どうした?」

「もしかして……その……ボク、何かご迷惑をかけましたか」

「え……」


 しまった、またやってしまった。

 おそらく、俺が悩んでいる様子がまた顔に出てたのだろう。

 それでなくともこれだけ集中力が散漫になっているのだ、夏音に気取られて……その上で、夏音が自分のせいだと思ってしまうことも十分想像できたはず。

 なのに……。


「いや、夏音のせいじゃないよ。ちょっと気が散ってた、ごめんな」

「でも、でも……ボクのせいじゃないなら……」


 夏音の声色が、一段暗くなる。


「なんで今、そんなに悲しそうな顔してるんスか……」

「え……」


 悲しそう? 俺は、ただ悩んでただけで。

 いや、違うのか。

 もしかして、俺は悲しかった?

 目の前の少女を疑わなければいけなかった状況が?

 あるいは。『妹』に疑いの目を向けるような自分がいることが悲しい?


 わからなかった。でも、今は何より……目の前にいる少女に、辛い表情をさせている事実が何より悲しい。

 そんなことを、つい思ってしまった。


「……違うよ、夏音は悪くない。たまたま悩みがあっただけで」

「それは」


 夏音の目──いつになく鋭くて、冷たい目だ──が、俺を射抜く。


「……ボクには話せないことですか」

「……そうだな、申し訳ないけど夏音には話せない」


 手紙の件自体、そもそも夏音には話せない。

 だから、そんな手紙がなくなったことなんて尚更話せるわけがないのだ。

 申し訳ないが、隠すより他はない。


「……わかりました」


 そう口にした夏音は、徐に広げていた勉強道具を片付け始めた。


「迷惑かけてごめんなさい。今日は体調が優れないので……帰ります」

「えっ、体調って……夏音」

「気づかなくてごめんなさい、ハル兄。嫌だったっスよね、ボクに教えるの」

「そんなこと」


 あるわけない。そう二の句を継ごうとして、俺はハッと息を呑んだ。

 夏音は、泣いていた。

 ポロ、ポロ、と目尻から大粒の涙が次々に溢れていく。

 未だ開かれたままの教科書に、シミがどんどん広がっていく。


「いいっスよ。無理させちゃって、ごめん、なさい」

「違う、無理なんか」

「いいんス。無理やり指名して、お兄からもお願いしてもらうように話して。ハル兄のこと、何にも考えてなかったっス」

「……夏音」

「いえ、いいんスよ。今までも、無理やり会いに行ったりしてごめんなさい。ハル兄……いや、も嫌でしたよね」

「夏音、それは……いや、あの、だから」

「いいんです! いいんです、もう……」


 違う。夏音は悪くない。

 俺はお前のことが嫌いなんかじゃない。迷惑だと思ってない。

 本当に、別に悩みがあるだけなんだ。

 そう、伝えたいのに。

 カラカラに乾いた喉は、まるで布が張り付いたように何かに邪魔をされていて、声を出すことが全くできなかった。

 いや、あるいは出さなかったのかもしれない。

 だって、夏音は無関係じゃないんだから。


 手紙を出した人間かもしれない。

 手紙を持ち去った人間かもしれない。

 俺の悩みと、本当に無関係だろうか?


 そう心のどこかで考えてしまう自分が何より嫌で、俺は何も口にすることができなかった。


「本当にご迷惑をかけてごめんなさい。勉強は一人で頑張るので、佐倉さんはご自分の勉強をがんばってくださいっス」


 そこから、夏音は一言も発さずに片付けをした。

 勉強道具を片付ける夏音の手も、物言わずに帰り支度をする夏音のことも、何も止めることはできなかった。


「……ごめんなさい。それじゃ……帰りますね」


 お世話になりましたと頭を下げながら────涙を流す夏音の顔を見て、俺はもう、何も言えなかった。


 玄関のドアが閉まるガチャンという音が、嫌に耳の奥に残って離れない。

 リビングを見渡しても、俺以外には誰も居なかった。

 空っぽのリビングには、椅子を引く音さえも虚しく響き渡る。

 机の上に置き去りにされた、自分の勉強道具に目を落としてみる。

 書いてる文字は1つも頭に入らなかった。

 公式も、数字も、意味のない何かの絵にしか見えなかった。


「……なんで、こうなったかな」


 喉から滑り出た声は、自分でも笑ってしまうぐらい掠れていた。

 まだ昼前だというのに、厚い雲に覆われた空はどんよりと暗くて、今にも雨が降り出しそうな気がした。

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