姫君の悦楽03

 地上に広がる大都市オルテガシティ。

 反政府組織の秘密基地がある下水道から地上までの道を開け、外へと出たナージャはその大都市の散策を早速始めた。貢物としてもらった、この不思議な服の謎を解明するために。

 とはいえ謎解きは、早速困難に直面する。

 何故なら地上には、服を着た人間達が大勢いたのだから。


「ガウゥー……」


 思っていなかった光景を前にして、ナージャは思わず弱気な声を漏らしてしまう。

 右を見ても左を見ても、歩道にいるのは人ばかり。流れの外から見れば人の壁が出来ているような錯覚を受けるほどだ。車道には蒸気自動車が幾つも走り、途切れる事を知らない。自動車など逆に撥ね返すほど強靭なナージャであるが、彼女が道路を横断する気がなくなるぐらい車の往来が激しかった。

 ナージャが初めてこの都市を訪れた時、ここまでの人気はなかった。何しろその時の時刻はほぼ夜中。人々の多くは仕事を終えて帰宅し、都市を行き交うのは夜店で余暇を楽しむ人々……言い換えれば余暇を楽しむだけの金銭的余裕があり、尚且つ遅くまで遊んでいても翌日の仕事に影響しない者達だけである。それは此処オルテガシティに暮らす人々の、ほんの一握りだけ。

 今は違う。太陽が燦々と輝く昼間であり、多くの人間が活動している時間帯。昼食を食べに行く者、買い物に行く者、遊びに行く者、営業に行く者。都市で生きる過半数の人間が動けば、主要な道路などあっという間に溢れ返ってしまう。

 それは数千年前には見られなかった光景。大型草食獣の群れなら兎も角、『毛のない猿』がこんなに群れるなどナージャには考えられない。


「ガウゥ、アウーッ!」


 あまりにも予想外だったものだから、思わずナージャは表通りから退却し、裏通りへと逃げ込んだ。人間を超越する自らが人の波に気圧されて退却など……等という高尚な考えをナージャは持たない。彼女は基本野生動物的な思考の持ち主であり、やだなぁと思えばすぐに撤退するのだ。それを悔しいとは思わない。

 かくして裏通りに入り込んだナージャは一息吐く。どうにか一難は去ったと安堵していた。


「ふ、ふひひ……お嬢ちゃん、可愛いねぇ」


 ただし次の難は、すぐにやってきたが。

 ナージャの前に現れたのは、見るからに薄汚い中年の男。服はボロボロで、垢や汗の痕跡か暗がりでも判別出来るほど黄ばんでいる。

 浮浪者だ。それも身分は下れども人に迷惑を掛けないよう誇り高く生きるタイプではなく、落ちぶれた事で開き直っているようなタイプの。風呂にも長らく入っていないようで体臭がかなりキツい。ナージャは基本獣の思考なので多少体臭が臭くとも気にしないが……この男のそれには顔を顰める。

 そして男はナージャに、下劣な視線を向けていた。

 それは無理のない話だ。角や尻尾はあれども、可愛らしい服で着飾った今のナージャは見た目だけで言えば可憐な美少女。元々ナージャは可愛い顔立ちをしていて、ジョシュアが魅了されたように、男達の関心を引き寄せるには十分な容姿をしている。犯罪に抵抗がない者ならば、尚更素直に惹き付けられるだろう。


「ちょ、ちょっとだけ、お話しようよ。ねぇ」


 故に男が下劣な笑みと共に近付いてくるのは、ある意味では仕方ない。

 そう、仕方ないのだが。今のナージャが感じたものは、人間で例えるならば――――不潔な虫が寄ってきたようなもので。


「ガゥ」


「ばぎゅっ!?」


 気持ち悪い、と思ったナージャは尻尾を振るい、男を近くの建物の壁に叩き付けた。

 コンクリートの壁が凹むほどの一撃により、男はコンクリートに埋もれる。死んではいないが、色々な骨が折れただろう。苦悶の声を上げて藻掻くばかりになり、もうナージャに迫る事はしない。

 嫌なモノを排除し、満足したナージャは路地裏をすたすたと歩く。凄まじい人間の荒波、それと気持ち悪い人間生き物で乱れた心を落ち着かせるように息を整え……そして大きく鼻で息を吸い込む。

 色々あって忘れるところだった。ナージャの目的は地上観光ではない。自分が今着ている服が、どうやって作られているのかを知る事だ。

 そのためには、まず服が何処で作られているかを知らねばならない。とはいえナージャには人間の言葉など分からないため訊く事は出来ず、服が作られている場所の調べ方など概念すら持ち合わせていない。

 ではどうやって調べるのか?

 それは、臭いだ。自分が着ている服から漂う独特の臭い……『素材』の香りを追えば、服を作っている場所に辿り着く事が出来る。ナージャはそう考えていた。

 とはいえただ臭いを追うだけでは不十分だ。何故ならこの都市にいる人間達は、その殆どがナージャと同じポリエステル繊維の服を着ている。つまり基本的には誰もが同じ臭いを漂わせている状態であり、漫然と臭いを追っても都市内をぐるぐると巡るだけ。ナージャもそれは理解している。

 重要なのは、鮮度と純度だ。

 匂いには新しいものと古いものがある。ナージャが着ている新しい服はぷんぷんと強い服の香りを漂わせるが、行き交う人々の着る服からはあまりそういった匂いはしない。また長年着ていれば汗や垢が染み込み、どれだけ念入りに洗おうとも体臭が混ざるようになる。洗濯には洗剤や柔軟剤が使われ、着ていない時は収納棚にしまわれるため、それらの匂いも少しずつ付着。時間が経つほど、純粋な服の匂いからはどんどん遠ざかっていく。

 つまり純粋で濃厚な服の匂いを追えば、作り立ての服がある筈なのだ。


「フンフンッ。フフンッ」


 ナージャの嗅覚は優秀だ。周囲を漂う多種多様な服の臭いを嗅ぎ分け、目当ての臭いだけを感じ取るなど造作もない。


「へへっ。嬢ちゃんいい格好してるじゃねぇか、俺達に少しは恵んでばらっ!?」


「兄貴ぃーっ!?」


 ついでに、路地裏を縄張りとするチンピラAを片手で何メートルとぶん投げる事も造作もない。

 障害は力で強引に排除し、やがてナージャは裏通りから出た。今度の表通りは、先程の道より人の姿が疎らな、落ち着いた町並みが広がっている。車通りも少ない。

 ナージャにそれなりの社会常識があれば、並ぶ店がいずれも小洒落たやや高級な店であると気付くだろう。どうやら比較的裕福な一般人向けの商店通りらしい。

 しかしナージャに常識なんてものはなく、また気にもしない。此処は人間の数が少なくて落ち着くーと思う程度だ。くんくんと周辺の臭いを嗅ぎ直し、また濃厚な服の臭いを辿る。

 表通りとなれば不埒者の姿などなく、ナージャの行く手を遮る者は皆無。むしろとことこと歩く可愛らしい彼女の姿に、微笑ましく暖かな視線を向けていた。尤も、ナージャにとってそんなものはどうでも良い。臭いを追う事に集中し、あちこち探し回る。

 これで手応えがなければ、そろそろナージャも飽きてくるのだが……彼女の鼻は極めて優秀だった。新品の服の放つ匂いをしかと捉えている。おまけに随分と濃密だ。


「フンフンフン……ンフゥ?」


 やがてナージャが辿り着いたのは、とある店。

 服飾店だった。静かな町並みに建つ姿は何処となく気品があり、高級品店を思わせる。安さを掲げる看板もなく、ショーウインドウに並べられたのは流行の可愛らしい服の数々。可愛らしくないのは、値札に書かれている数字ぐらいなものだろう。

 実際のところ、この店は高級品店という訳ではない。ちょっとお小遣いを多くもらっている女子達が通う、お洒落な量販店の一つ。値段の高さも一般人が買えないほどのものではなく(あくまで適当に買おうとすれば躊躇する程度だ)、此処の服で社交場に出ても笑い者になるだけである。

 そんな一般人向けのお店の服は、どれも材質はナイロン製。ごく一部に絹を用いた、成金お嬢様が買うかも知れない本物の高級品がある程度だ。ナージャの鼻が嗅ぎ付けたのは、この服屋から漂う新品の匂いだった。


「ガゥァー?」


 ぺたんと硝子に顔を付け、ショーウインドウ越しに店内を覗き見る。

 店内には無数の服が、所狭しと置かれていた。

 此処で服を作っているのだろうか。答えが分からないなら確かめるまで。硝子窓をぶち破る事に躊躇いなどないナージャは、早速この邪魔な壁を殴って壊そうとする。

 その手がぴたりと止まったのは、更に濃密な服の匂いが何処かから漂ってきたからだ。


「ングァ?」


 此処で服を作っている訳ではないのだろうか? 一旦硝子に拳を叩き込むのは止めて、ナージャは新たな匂いを追う事にする。

 匂いが来ているのは、服屋と隣の店の間にある僅かな隙間から。人が通れそうにない狭さであり、ナージャの力ならば強引に突破する事も出来るだろうが……それよりも『上』から通った方が楽だろう。

 ナージャは軽々と跳躍し、服屋の屋上へと到達。鼻を鳴らし、漂う服の匂いを追って店の裏側の方へと向かった。

 屋上から身を乗り出して見てみると、そこには大きな蒸気自動車があった。普通の個人が所有する自動車よりも何倍も大きく、車体の大部分を四角いコンテナが占めている。コンテナは微かにだが錆付き、そこそこ年季の入った代物のようだ。

 それはトラックと呼ばれる類の車だった。一度に大量の荷物を運べる物流の要であり、此処オルテガシティで何百万という人々が生活出来るのもこの車のお陰といっても過言ではない。

 服屋の裏に停まっていたトラックも、この服屋に並べられる商品を運んできていた。この都市の女子達がお洒落が出来るのも、服屋という仕事が成り立つのも、このトラックとその運転手がいてこそ。

 無論、ナージャはそんな事など知らないし、興味もないが。大事なのは、トラックから漂う服の匂い。


「フンフン……ガゥ!」


 注意深く嗅ぎ、トラックから濃密な服の匂いがする事を確信。ナージャは店の屋上から、ぴょんっと飛び降りる。

 ナージャは誰かに見られる事など露ほども気にしていないが、偶然にもその時はトラック周りに誰もいなかった。丁度服屋に荷物を運び込んでいる最中だったのである。そして荷物を取り出すため、トラックのコンテナは開きっぱなしの状態となっていた。

 コンテナの中は明かりも窓もなく、真っ暗だ。小さな子供であれば恐怖心の一つも感じるだろう。しかしナージャは無敵の肉体を持つ、人智を超えた生命体。自分がどれだけ強いかを自覚している彼女は、基本的に危険を恐れる必要はない。

 服の匂いを辿るナージャは、本能のままコンテナ内に入り込んだ。中はもう荷物が残っておらず空っぽで、奥まで進むのに支障はない。此処で服を作っているのかなー? と勘違いしながら、ぺたぺたとあちこちを触り回って調べていく。


「ふぅ、これでようやく終わりだな」


「ですねー」


 そうこうしていると、二人の男の声が聞こえてきた。

 トラックの運転手が戻ってきたのだ――――と人間ならば理解するところ。しかしナージャにそんな常識はない。慌てて外に出る、なんて事は考えもしなかった。


「ちゃんと閉めろよ」


「うぃーっす」


 ここで男達がコンテナの中を確認していれば、ナージャの存在に気付いただろう。荷降ろし後の確認作業はマニュアルにも記載されている、彼等がすべき『仕事』の一つだ。しかし運転手達はコンテナ内に目もくれず、余所見をしたまま扉を閉めてしまう。

 マニュアルに記載されている確認事項は、これまでに起きた様々な事故や事件を未然に防ぐためのものだ。しかしながら大きな事故というのは稀にしか起こらず、通常はただ手間なだけ。故にその手間を者というのは少なからず現れる。

 それを防ぐためにも教習や訓練があるのだが、無視する輩はそれでも無視する。防止策というのは『愚か者』が一人いるだけで呆気なく崩壊してしまうのだ。


「……ゥ?」


 尤も、ナージャがコンテナ内に閉じ込められた一番の要因は、ナージャ自身が現状を何も分かっていない事なのだろうが。

 閉じた扉からガチャンと音が鳴る。コンテナの扉がかんぬきにより施錠されたのだ。ナージャの力であれば簡単に開けられるが、何が起きたか分からないナージャはぼけっとコンテナ内で棒立ちするだけ。

 施錠を終えた運転手達は、トラックの座席へと戻る。エンジンを掛け、ブロロンッと力強い音と共に廃蒸気を噴出。

 中にナージャがいると気付かぬままに走り出す。

 ナージャが知りたがっていた、服の製造工場へと向けて……

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