第13話 西条緋雨


 二十歳の身からは、実感としてもうだいぶ昔の話だ。


 それは高校一年生、入学してすぐのときだった。

 俺が西条緋雨という二年の先輩に出会ったのは。


 俺の高校は進学校で、図書室はいつ行っても勉強する生徒たちで席が埋まっていた。

 本が読みたい者たちがなかなか席に座れず、書架のあいだに立ってページをめくっているという本末転倒な光景。

 その中で、ひときわ目を引く存在だったのは緋雨先輩だった。


 単純に容姿が圧倒的に秀でているだけではなかった。

 本を読む合間、手元の小さなノートを開いては何かを書き付け、また本に没頭する。常人が見たらやや奇癖といえなくもないその行動に、俺は気がつくと声をかけていた。


『もしかしてそれ、小説かなにかのネタ集めだったりします?』


 先輩はゆっくりと顔をあげた。

 驚愕の色がその麗貌をかすめ、わずかにこちらに興味をもった風に彼女は答えた。


『驚いた。声をかけてきた人たちはこれまでもいたけど、正解を言い当てられたのは初めて。

 どうしてわかったの?』


『俺も同じ習慣ありますから。メモ帳持ち歩いて、調べた蘊蓄うんちくや思いついたネタをその場で書き付けるやつ。

 あの……二年生ですよね』


『ええ。それがなにか?』


『俺、有馬十郎といいます。将来は作家志望なんです。やっぱり先輩もそうなんですか?

 でもそれにしては、先週体験入部に行った文学部に先輩の姿がなかったなって』


『文学部は、私の求める環境じゃなかったから。

 あそこにいる人たちは、本気でプロを狙っていないもの。小説同人誌すら年に一度作るかどうか。「読むだけの人」たちが集まって、浅いところで遊んでいるだけ。

 だから私は入らない。何も作らない人たちと馴れ合いたくはないの』


 今から思うと、先輩のそれは少々痛々しい思春期の尖りだったのだろう。

 己の理想にそぐわなければ人との交流ごと環境を切り捨てる潔癖さ。

 だが、その当時の俺には、冷厳だが真剣で格好良い態度に思えた。


『有馬くんと言ったわね。あなたが本気でプロ作家を目指すのなら私と同じね。

 でも、だからといってあなたとも馴れ合う気はないから。話しかけられるのは正直ご勘弁願いたいわね』


『たまにならいいですか?』


『え?』


『たまになら話しかけてもいいですか。ガチで執筆してる人と情報交換できたらなってずっと思ってたんで』


『…………はぁ。たまになら好きにしたら』


 ため息をついて制服のスカートをひるがえし、長い黒髪をなびかせて去っていく彼女の後ろ姿──初対面のあの時から、先輩は俺の心に焼き付いた。

 作家志望の同志を見つけて嬉しかったこともまた本当だった。

 だから話したいことは、いくらでもあった。


『あなたね、なにがたまによ! ほぼ毎日話しかけてくるじゃない!』


『すみません。でもまた紹介したいミステリ小説見つけたんですよ。先輩が好きそうなやつ』


『また早坂やぶさかの「○○○○○○○○殺人事件」みたいなの勧めたら本気でもう口きかないからね。私、真相を読んだときは思わずあの本をゴミ箱にダンクしかけたんだから』


『結局、早坂吝にハマって全巻読んだくせに……なんでもありません。

 「薬屋のひとりごと」どうです。面白いんですよこれ』


『とっくに読んでるわよ! ……主人公の血縁上の両親の話が好き』


 なんのことはない。

 潔癖な理想を追い求める孤高のお姫様も、本音では交流に飢えていたというだけの話。

 少しずつ、先輩に相手してもらえる時間が増えていった。


『有馬くん! あずま沙耶香さやか先生の最新作読んだ!?』


『え、えーと……発売日昨日でしたよね? 買いはしたんですけどまだ読了は』


『早く読みなさい! 今回のはいつにも増して傑作だから!』


『先輩……もしかしなくても大ファンですよね、東沙耶香の』


『……悪い!? 小学生のころから何度も読み返してるわよっ。

 RINE交換して!』


『ええ!?』


『読み終えたらすぐ感想送って! 先輩命令!』


 氷の麗人の、熱いんだかわがままなんだかわからない一面を見せてもらったりして、


『ネット小説投稿サイトがコンテストやるみたいですよ先輩。先輩はどうします?』


『私はしない。別にネット小説に含みはないけど、ネットに投稿はしないわ。新人賞をとってデビューしたいの』


『そうなんですか。俺はそのうち応募しようかなあ……この投稿サイトでスタリオン戦記ってのを書きはじめてるんですけど』


『読んだわ』


『マジで!? 読んでくれたんですか!?』


『……有馬くんって大口叩くけど作品読んだことなかったし、どんなの書いてるか確かめてやろうって。本名がペンネームってすごい度胸ね君』


『あのっ、か、感想は!? どうでした!?』


『減点方式でマイナス150点くらい』


『………………』


『こ、この世の終わりみたいな顔やめてよ。

 加点方式で1000点くらい。

 序盤とか退屈なところは退屈だけど面白いシーンになるとすごく面白かった。荒削りだけど……続き気になるからもっと書いて』


 一年経ったころには、先輩は俺のことを「有馬くん」ではなく「十郎くん」と呼ぶようになった。


『十郎くんが昨日話したアイデア、面白いと思う。でも調べたら先行して使っている作品がすでにあるみたい』


『マジですかー。残念だけど捨てるしかないかなあ』


『ネタかぶりで盗作だと決めつけられるなんて嫌だものね。私たちのあいだでも、あまりアイデアの共有はしないほうがいいんじゃないかしら』


『と言っても、ファンタジー戦記を書く俺とミステリを書く先輩だと、ネタのかぶりようがないんじゃないですか?』


『そんなことない。その……恋愛要素はお互い作品に入れるじゃない』


 先輩の書いた原稿を読ませてもらったのもその頃だった。

 「恋の附子矢ぶすやに傷つかば」というタイトルのそのミステリ小説は、控えめに言っても商業レベルだと思えた。

 舞台設定、トリック、キャラの立ち方。緻密に組まれたプロットを、流麗で繊細な描写がドラマチックに彩っている。


『すごく……面白かったです! これ新人賞に出しましょう、絶対賞取れますよ!』


『……やめてよ。持ち上げられると本気にしちゃうじゃない。当然のように一次選考あたりで落とされて、内輪の褒め合いレベルでしかなかったなって後から恥じ入りたくないんだから』


『本当ですって! 自信持ちましょうよ、この斬新な作品落としたら審査員の目がずっぽ抜けの節穴なだけですよ!』


『……もう。そこまで斬新じゃないわよ、文章のリズムもプロットの組み方も東沙耶香先生から学んで影響受けているんだから。ミステリとラブストーリーをからめる作風自体も』


 頬を染めながらそっぽを向いて、『影響受けてることは隠すつもりはないの』と先輩は言った。


『東先生は私にとって長年の憧れだもの。全作品を何度も何度も読み返した……

 彼女に憧れて作家を志した。できるなら夢を叶えたい。

 ……ただ、その』


 顔を伏せ、もじもじしながら先輩は、


『恋愛描写については……正直、自信がないの。

 そういう経験、私はないから』


『殺人事件出るミステリ書いてるのに何いってんすか。それとも人殺してから書いてますか? 恋愛だって想像で書けるでしょ』


『そういう茶々入れるの十郎くんの悪いところよ!

 超常現象や殺人は多くの人にとって未経験でしょう。だから私も想像だけで書くことにひるみはない。でも……恋愛関係は経験者が多いじゃない。作者の未経験を見抜かれるかもしれないじゃない。

 経験したほうがいいのかな、やっぱり……』


 キスさせてもらったのは、その直後だった。

 図書室には人が多いが、裏にある書庫はいつでも閑散として、逢引のようにして俺たちが語らうのにちょうどいい場所だったのだ。彼女も俺も図書委員だったので、職権乱用気味ではあったが。


 とはいえ、キス以上のことはしなかった。

 告白したり付き合ったりもしなかった。

 つかず離れずの状態が楽しかったのもあるが……たぶんなんとなく、お互い不純に感じたのだ。小説家を目指す同志のつながりなのに、夢を叶えもしないうちから色恋にうつつを抜かすなんて、と。


 関係をはっきりと踏み出さないまま、俺たちは一緒に小説についての研究を続けた。

 特に恋愛系のネタは、ノートを別に用意したほどに数が増えていった。「キスの先」を決してしなかったから、お互い妄想が膨らんだともいう。


 転機は、先輩の卒業前に訪れた。

 改稿を重ねて完成度を増した「恋の附子矢に傷つかば」が、新人賞の〈優秀作品賞〉を獲得することになったのだ。

 ライトミステリ専門をうたっている、とあるレーベル。

 絶対秘密よと前置きされつつも打ち明けられ、俺は歓声をあげて思わず先輩の手をにぎってしまった。


『やったじゃないですか! すごい、こんなに早く、夢をほんとに叶えるなんて』


 自分でも大げさなほどに喜び、ことほいだのは、心の奥の焦りに目を向けたくなかったからかもしれない。

 ──やばい。置いていかれた。

 その隠した焦りを見抜くように、先輩は俺に目を合わせて、


『……次は君だね。十郎くん』


『う……』


『スタリオン戦記なら、きっとデビューできる。ネットでのコンテストに出しているんでしょう?』


『出してますけど……どうなるかなんてわかりませんよ……』


『今回がだめでも、君なら書き続けていればきっとデビューする』それから先輩は、耳たぶまで赤くして、『ふたりとも作家になれたら……友達の先、行っちゃおうか』と囁いた。


『……俺、ぜったい作家になります』


『うん……待ってる』


 そして先輩は都内の大学へ進学した。あの才女は執筆と受験勉強を同時にこなしていたのである。


 そして直後の春、俺もデビューが決まった。

 応募していたネット小説コンテストで、スタリオン戦記が予想以上に審査員に評価されたのだ。

 最終的には賞をとれず落ちたものの、スタリオン戦記は拾い上げされることになった。

 出版が決まり、昔からの友人であるオイスター先生がイラストを担当してくれることになった。


 狂気の沙汰かもしれないが、俺は進学はせず、専業作家になる道を選んだ。

 先輩ほどの才能がないことは自分でわかっていた。才能というより要領というべきかもしれないが、いずれにせよ受験勉強と作家活動を双方こなして先輩に追いつけるとは思わなかったのだ。


 ──俺は器用じゃない。専業になって打ちこまないと成功できない。先輩にふさわしい男になれない。


 先輩からはスマホのチャットアプリを通じて祝福の言葉が届いた。

 俺は胸を高鳴らせながら、「これでお互い作家ですね。会える日を楽しみにしています」と返信した。


 だが、──先輩の「恋の附子矢に傷つかば」が出版されたのは、俺の「スタリオン戦記」の後になった。

 しかも先輩の本が出たのは、先輩にひそかに教えてもらっていたレーベルとは別のレーベルだった。というか……最初に教えてもらったレーベルは、いつのまにか消えてなくなっていた。出版社がMARUYAMAに買収され、既存のレーベルと統合されたのだ。

 そして、先輩が出した本は「恋の附子矢に傷つかば」一冊きりだった。話題にもならず……いや……悪い意味で、一部ですごく話題になったのをあとで知った。


 俺からの連絡をブロックし、音信不通となって、先輩は出版界からも俺の前からも姿を消した。


 歩道橋で再会するまでの、それが俺の知っている経緯。







「先輩。先輩。起きてください。部屋着きましたよ」


 MARUYAMAのパーティ会場から早退して、俺はタクシーで先輩を部屋に送ってきていた。

 泥酔している先輩から住所を聞き出したところ、オイスター先生と同じく山手線内側の都内のマンションに一人暮らししていた。進学を機にとのことだったが、お嬢様なんだなあ……


 タクシーから降りても先輩は千鳥足。見かねて肩を貸し、高級マンションのエントランスからエレベーターと移動し、部屋の前までたどり着く。


「カードキー、これ……」


 ふにゃふにゃの声。俺はつとめて平静に、受け取ったカードキーでエントランスと部屋を開けた。こんな立派なマンションなら部屋の前で先輩を放置してもおそらく危険はないだろうが、それでも廊下で寝させたりはできない。

 やましい気持ちはない、すぐ帰るし──などと思いつつも、先輩の部屋ということでどきどきはしていたのだが。


 部屋中に空の酒瓶や酒の缶が散らばっていた。

 荒廃して、どこか淫靡な、爛れた空気。

 あと、ベッドの上に電マがあった。


 こけしみたいな形の電動マッサージ器。肩こりとかに効く。もっとも本来の用途より別の使い方のほうが有名である。


 酔いが回ってぐったりしていたはずの先輩が俊敏に俺から離れた。

 ベッドの電マにシーツをかけて隠し、彼女は真っ赤になってわなわな震えつつふりむいた。

 超涙目になっている。


「お茶出すわね」と先輩はごまかすように冷蔵庫を開ける。


「お茶……お茶……っれー、おかしいな……あれ? お茶買ってなかったかしら」


 先輩ののぞきこむ先、冷蔵庫の中には、ストロングゼロやらドライビールやらの缶がぎっしり詰まっている。

 ……なんていうか、こう。こんなときなんていうんだろう。

 だ、駄目だ……「あこがれた人の現在の姿」が痛々しすぎて言葉が出てこねえ……


「あの、おかまいなく……俺帰るんで……水をしっかり飲んでください」


「う……うう……」恥ずか死寸前で顔を覆って床でうなだれている彼女に、声をかけた。


「あの、先輩……また今度会いましょう。うちにも、いつでも来てくれれば……」


 うん、とかすかな答えがあったのだけは救いだった。


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