第2話 殺人事件

 アパートの外には、運転手のいない四人乗りの真っ白なセダンが停まっていた。


 ぶら下げていた眼鏡をかければ、白と黒で塗装されている。つまりはパトカーなわけだ。当たり前だけど。


 頭の上に赤色灯はなく、全体がほんのりと赤く点滅していた。


 押し込まれるようにして後部座席に座ると、パトカーは音もなく走り始めた。


 周りの車がオートでよけていく中、どんどん抜き去っていく。


 それらの車は全て車体が真っ白で、眼鏡をかければ各色の塗装が施されていたり、動く広告が表示されているのだった。


 俺には刺激が強すぎて、すぐに眼鏡を外した。動く車の上の動く広告を見ていられるなんて、動体視力がどうかしている。


 女がちらりとこちらを見たが、奇異の目には散々さらされて慣れていた。なにせ眼鏡なんて前時代的な代物、ブラインドじゃなきゃ掛けないからな。


 しばらく経ってパトカーが停まったのは、繁華街の裏にある寂れた地区の、寂れたビルの前だった。


 眼鏡をかけても看板は白いままで、空きビルである事がうかがえる。


「早く来て」


 ぐいぐいと腕を引っ張られ、窓を通して遠くのネオンでうっすらと照らされた階段を上っていく。


「ちょ、待って下さいよ」


 女は三階の一室のドアを開けた。鍵が開いた様子はなく、始めから施錠されていなかったようだ。


 パチリと電気がつけられる。


 中は意外にもごちゃごちゃとしていた。


 パイプベッド、机、椅子、テーブルの上には食事をした形跡がある。アイボリーの壁には絵画が掛けられており、家具の雰囲気にそぐわない。


 そして、スーツ姿の男が頭をこちら側にして茶色の絨毯の床に倒れていた。


 その胸にはナイフが――。


 ようやく俺は自分がいる場所がどこなのかを察した。


 ――昨夜十一時頃、新宿区の空きビルで死体が発見されました。


 反射的に後ろを向いて眼鏡を外す。


「ちゃんと視なさい」


 女が俺の両腕をつかみ、死体の方へと振り向かせた。


「ちょ、ちょっと待ってくれって。なんで俺が」


 吐き気が込み上げてくる。


 視界が闇で閉ざされて嗅覚が敏感になったのか、血の匂いがしているように思えた。


「何か妙な形跡がないか探して」

「妙なってどんな」

「あなたにしか視えない物がないか」

「俺にしか視えない物って言ったって……」


 死体にちらりと視線を向ける。


 かっと開いた目に生気はなく、肌は乾いていた。目と口が薄く開いている。


「眼鏡で見比べて」

「何も変わりませんよ」


 言いながら、俺は眼鏡をかけた。


 掛けたり外したりしながら、嫌々男を観察する。


「ワイシャツの胸ぐらとスーツの腕の辺りにシワがある。失禁した跡もあるな」


 女は目を見開いた。


「もっとちゃんと視て」

「これ以上は何も」


 近づかないと見えない。


 俺は一歩もここを動く気はなかった。死体に近づくなんて冗談じゃない。


 だが、女がどん、と俺の背中を押した。


「入りなさい」

「わぁっ!」


 よろけて血痕を踏みそうになる。


「何すんだよ!」

「近くで視なさい」

「はぁ!?」


 俺は振り返って女に抗議した。


 急に連れて来られて命令されて、さすがに横暴じゃないか? こちとら善良な市民だぞ!?


「なんで俺がこんなこと――」


 だが、出てきた声は尻すぼみになった。


 腕を組んでいる女の目がマジだったからだ。逆らえば本気で俺はこの死体と口づけする羽目になるという予感がした。


 ちっ。


 腹いせのように舌打ちをして、俺は死体に向き合った。


 血痕を踏まないようにして近づく。


 よく見ようと屈むと、鉄さびのような血の匂いが濃くなった。


「首元に、あざのような内出血のようなものがある。三つ……いや四つか。目が充血している。剃り残しのひげがある。襟に少し血がついている。――これで全部です」


 俺は少しでも死体から離れようと後ずさった。


「周りも視て」


 人使いの荒い。


「シーツにシワ。テーブルの上に……砂糖みたいな細かい粉。あとそれから……」


 俺は絵画の消えた壁を指差した。


「たぶんあそこに何か貼ってありました。そこだけ日に焼けていない」


 女は壁ではなく、俺をじっと見つめていた。


 最後に、一番奥にある机へと歩み寄る。


「机の上の書類が濡れたのか滲んでいる。後は特に――ああ、メモ帳に何か書いた跡があるな」

「何ですって!?」


 女がハイヒールで死体を跨ぎ越して近づいて来て、細い指先でメモ帳の表面をなでた。


「何て書いてあるの!?」

「ちょっと待って下さい。こういうのは――」


 俺は机の上に転がっていた鉛筆を手に取った。


 芯を斜めに傾けるように持ち、メモ帳を塗り潰していくと、「モード 23時」という文字が浮き上がってきた。


 推理小説なんかでよくある手法だ。


 出てきた文字は見えたのか、女ははっと息をのみ、まばたきしながら目線を激しく動かした。


「歌舞伎町のバーね」


 そして、がしっと俺の腕をつかむ。


「行くわよ!」

「どこに!?」

「モードに決まってるでしょ!」


 女は俺の腕をつかんだまま階段を駆け下り、パトカーへと乗り込んだ。


「これはテストのつもりだったのよ。あなたが役に立つかどうかの」

「それってどういう――」

「あの部屋は鑑識が調べた後だったの。死体を司法解剖に回す前だけれど、もう全て調べ終わっていたはずなのよ。なのに、あんな見逃しがあったなんて……!」


 悔しそうに唇を噛む。


 やがてパトカーは止まった。


「こっちよ!」


 女はまた俺の腕をつかんで走り出した。

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