シアワセサガシ

藤野 悠人

前編 空色の瞳のトト

 幸せになりたいなぁ。黒猫は、青空に浮かぶ雲を眺めながら、そんなことを考えていました。黒猫の目は、空の色を映したような、透き通った青色をしていました。体と同じくらい長い尻尾を、時折ぱたぱたと動かしています。


 黒猫は大家族でした。両親と、兄と姉が5匹と、妹と弟が6匹いました。みんな色々な模様をしているけれど、全身真っ黒なのは自分だけでした。家族だけでなく、ご近所に住むたくさんの猫たちの中でも、自分ばかり真っ黒なのでした。そのせいで、仔猫の時にはいじめられたこともありました。


 ここではない別の場所に行ったら、幸せになれるかな。ある日、黒猫はそんなことを考えました。その思いは日に日に強くなって、とうとう居ても立ってもいられなくなりました。


 ぽかぽかと陽射しの気持ち良い、ある日の昼下がり。黒猫は、家族みんながぐっすりと昼寝をしている間を見計らって、そっと棲み家を抜け出しました。黒猫の足音は全くしません。いじめられていた仔猫の時は、音を立てないようにいつでも気を付けていました。そして、とても静かに動く名人になっていたのです。黒猫は一度だけ家族を振り返りました。母親のトラ猫を見て、ほんのちょっぴり胸が苦しくなりました。


「ごめんね」


 誰にも聴こえない小さな声でそう呟きました。


 こうして黒猫は旅に出ました。一世一代の大冒険です。なんて言ったって、自分の幸せを見つける旅なのです。


 はじめに、黒猫は一匹のリスに会いました。


「あれ、こんな所に黒猫なんて、珍しいこともあるもんだ」


 リスはキーキー声で言いました。


「こんにちは。実は僕、幸せを探す旅をしているんだ」


 黒猫がそう言うと、リスは目を丸くしました。


「幸せってなんだい?」

「え? 幸せは幸せだよ」


 黒猫も首を傾げました。


「幸せって、おいしいもの?」


 リスが再び聞きました。


「食べ物じゃないと思うけど」

「じゃあ、どこに行ったら見つかるの?」

「……どこだろうね?」


 黒猫も困ってしまって、なんと答えれば良いか分からなくなってしまいました。リスは「変な猫」と言って、どこかへ行ってしまいました。


 黒猫は困ってしまいました。一体、幸せとはどんなものかしら。そういえば、幸せがどんなものなのか、よくよく考えていなかったことに気付きました。


 黒猫は再び歩き出しました。考えながら歩いていたせいで、地面からぱっと顔を出したもぐらのおじさんの頭に、つまずいてしまいました。


「あいたっ」


 もぐらのおじさんが悲鳴を上げました。


「おいおい、頭をいきなり蹴るなんて、失礼な猫だな」

「ごめんなさい」


 猫は慌てて謝りました。


「まったく注意散漫な猫だね。一体なにを考えていたんだい?」

「僕、幸せってどんなものなんだろうって考えてたんです」


 猫の言葉に、もぐらも首を傾げました。黒猫はもぐらに訊いてみました。


「もぐらさん、幸せがどんなものか知りませんか?」

「はて? 幸せがどんなものか。うーむ、これは難しい問題だぞ」


 もぐらのおじさんはハッと思いついたように顔を上げました。


「そうだ、次のもぐら学会で発表するテーマに悩んでいたんだ。幸せとは何か。うんうん、これは実にいいテーマだぞ」


 もぐらのおじさんは、何やら嬉しそうに手を叩いたり、ぶつぶつと独り言を言ったりしています。このもぐらのおじさんは、森の地下にあるもぐら達の大学で、哲学を教える教授だったのです。


「あの、もぐらさん……」


 猫が遠慮がちに話しかけると、もぐらはうるさそうに手を振ります。


「あー、いま考えることに忙しいんだ。すまないけど君、あっちへ行ってくれないか」


 もぐらの教授は、ぶつぶつ言いながら穴を掘って行ってしまいました。もぐらの通った後は、ぼこぼこと土が盛り上がっています。もぐらの進む先にあるものに気付いた黒猫は、慌ててもぐらを止めました。


「もぐらさん、前見て、前!」


 しかし、黒猫の叫びもむなしく、もぐらは木の根っこにしたたかに頭を打ってしまいました。あいたっ、という悲鳴が、地面の中からもごもごと聞こえました。


「もぐらさんだって注意散漫じゃないか……」


 猫は呆れたように呟くと、再び歩き出しました。


 今度は鹿のお嬢さんに出会いました。


「あら、黒猫なんて珍しい。こんにちは」


 鹿のお嬢さんは目を輝かせて、黒猫に挨拶をしました。


「こんにちは、鹿さん。初めて近くで見たけど、大きいんですね」

「あら、レディに対して失礼じゃないの。私が大きいんじゃなくて、あなたが小さいのよ」


 鹿のお嬢さんはおかしそうに笑いました。続けて黒猫に訊きました。


「こんな山の中で一匹なんて珍しいわね。一体なにをしているの?」


 今日は色々な動物に珍しがられるなぁ、と思いながら、黒猫は答えました。


「僕、幸せを探す旅をしているんです」

「あら、あなたは不幸な黒猫なの?」


 鹿のお嬢さんは、大きな目をくるくるさせて言いました。


「ずっとそう思っていました。でも今は、ちょっと分からなくなってきました」

「分からないものを探すなんて、また途方もない話ね」

「鹿さんは幸せがどこにあるか、知ってますか?」


 黒猫の質問に、鹿のお嬢さんは目をキラキラさせて、とても嬉しそうに答えました。


「私、いまとっても幸せよ。今日はね、私の結婚式なの。私たちの群れの中で、一番素敵な牡鹿おじかと結婚するのよ」

「はぁ。おめでとうございます」


 結婚式がどういうものか黒猫は知らなかったけれど、なんとなくそう言いました。鹿のお嬢さんは飛び上がって「ありがとう!」と言いました。


「そうだ、せっかくだし私の結婚式を見て行きなさいな。行き先が分からないのなら、急ぐ旅でもないでしょう?」


 そう言われて、黒猫も鹿の結婚式に参列することにしました。


 だんだんと日が暮れていく頃、森中の鹿たちが、森の中の大きな広場に集まってきました。立派な木が周りを囲んだ、大きな大きな結婚式場です。黒猫は、木の上によじ登って、高い所から結婚式を見物しました。黒猫の他にも、猿やリス、狐に狸、鳥や猪など、森中の動物達が見物に来ていました。


 立派な角を持った牡鹿と、黒猫が出会った鹿のお嬢さんが、みんなの前に出てきました。神父を務めるのは、森の長老である、ふくろうのじいさんでした。


 たくさんの動物達にお祝いされて、二頭の鹿は笑顔を浮かべました。黒猫も祝福しました。でも、肝心な幸せの正体が、やっぱり黒猫には分かりません。


 結婚式が終わると、黒猫はふくろうに尋ねてみました。森の長老である彼なら、何か知っているかもしれません。


 幸せってどこにあるんだろう。黒猫の質問に、ふくろうはゆっくりと頷き、自分の羽を撫でながら答えました。


「ふむふむ。幸せはどこにあるとな。これはこれは、その若さで難しいことを考えなさる。それは、この森で長老を務める私にも、未だはっきりとは分からなんだ」


 ふくろうの答えに、黒猫はがっかりしました。長老である彼が知らないというなら、誰に聞けばよいのでしょう。しかし、ふくろうは更に続けました。


「じゃが、この森の中で見つからないのなら、そなたは全く違う世界に飛び込む必要があるのかも知れぬ」


 ふくろうはそう言って、自分の羽根を一本だけ、ピンと引き抜きました。その羽根は、月明かりにぼんやりと輝く金色でした。


「ここから朝日が昇る方へ歩いて行くと、人間たちが住む街がある。そこでは、街の中で暮らす猫や、人間と一緒に暮らす猫もいるそうじゃ。しかし、街は危険も多い。じゃが、そなたに勇気があるのなら、そこへ行ってみるのも良いだろう」


 そして、引き抜いた羽根を黒猫に差し出して言いました。


「朝がくれば、新鮮な風が吹く。この幸運の金の羽根を、風に乗せてみなさい。羽根が示した方へ歩いて行くといい」

「ありがとう、ふくろうさん」


 黒猫はお礼を言って、金色の羽根を受け取りました。


「幸運を祈っておるよ、黒猫の若者よ」


 ふくろうの長老はにっこり笑うと、ほっほーと一声鳴いて、夜の森の中へ消えていきました。


 夜明け前の、まだ森中が寝ている時間。黒猫は微かな風の匂いで目を覚ましました。少しだけ葉っぱの匂いのする風に、ふくろうの長老がくれた羽根を、そっと乗せました。


 羽根はくるくると踊って、風の中で遊びます。山から顔を覗かせたお日様に照らされて、暗い森の中でキラキラと光りました。やがて、ふわりと地面に落ちた羽根は、人間たちの住む街の、東側を向いていました。黒猫はその方を目指して、静かな森の中を音もなく歩き出しました。


―――


 人間の住む街は、お世辞にもいい所とは言えませんでした。川は臭くて、土もありません。食べ物を探すのも大変でした。食べ物がよく取れる場所は、乱暴な野良猫の群れが独占していて、とても近づけません。道路では大きな車がひっきりなしに走っています。危なくて、向こうの道へ行くのだって一苦労でした。


 森にいた頃は、つやつやと綺麗だった毛並みも、すすと泥ですっかり汚れてしまいました。


 黒猫は安全な場所を求めてあっちへ行き、こっちへ行き、色々な場所を探しました。そしてようやく、いくつかの家と、箱のような形をした建物のそばに、落ち着ける寝床を見つけました。


 箱のような建物には、色々な人間が住んでいました。若い人も、ちょっと年を取った人もいました。男も女もいました。それは、人間たちがアパートと呼ぶ建物だったのです。


 ある日のことです。アパートの中から、ひとりの若い女性が出てきました。どこか寂しい匂いがして、いつも何かを探しているような顔をしていました。迷子の子どもが、ずっと迷子のまま大人になってしまったような、不思議な女性でした。


 そんな彼女は黒猫を見つけると、いつもほんのり表情が明るくなって、黒猫を撫でてくれました。彼女は色々な食べ物も持ってきてくれました。


 いつしか彼女と黒猫は、しょっちゅう並んでお喋りをするようになりました。でも、黒猫は彼女と同じ言葉が話せません。だから、喉を鳴らしたり、長い尻尾を振ったり、精一杯の声で鳴いたりして、彼女の声に答えました。


 彼女は色々なことを話してくれました。


 このアパートで一人暮らしをしていること。


 普段は『かいしゃ』という所で働いていること。


 家族とあまり仲が良くなくて、家を飛び出したこと。


 近所にある『きっさてん』がお気に入りだということ。


 雨の日が嫌いなこと。


 幸せになりたいと思っていること。


 ずっと家族の元にいてはいけないと思って、この街に来たこと。


 でも、幸せになる方法が分からなくて悩んでいること。


 自分の名前がチトセだということ。


 黒猫はある日、チトセも自分も同じなのだと気付きました。


 幸せになりたい。ずっと同じ場所にいてはいけない。だから飛び出した。だけど、新しい場所に行ってみても、やっぱり幸せは見つからない。ここにいる一人と一匹は、ずっと迷子なのでした。


「ねぇ、あんたに名前を付けてもいい?」


 ある日、チトセは黒猫にそう言いました。


「トトって名前。私の好きな本に出てくる名前なんだ。本当は犬の名前なんだけどね」


 名前。


 それは不思議な感じでした。黒猫は物心ついた時から、ずっと黒猫です。人間のような名前はありません。でも、嫌な気持ちはしませんでした。チトセと同じように、自分にも名前が付く。それが、黒猫にはとても特別に思えて、理由もなく嬉しい気持ちになりました。返事は簡単でした。ただ一声、精一杯に鳴けばいいのです。そして、その日からただの黒猫は、「トト」という特別な黒猫になりました。


 黒猫に――、トトにとっても、チトセは特別な人間になりました。食べ物をくれるのもあったし、チトセは毎日トトに会いに来てくれました。雨の強い日や、大きな台風が来た時も、必ず様子を見に来てくれました。


「トトは凄いよね」


 ある日、チトセはトトの頭を撫でながら言いました。


「ひとりで暮らして、いつだって自由だもん。私もあんたみたいに生きられたら、幸せなのかなぁ」


 トトは、その言葉を聞いて耳をピンと立てました。


 あぁ、これほど人間と同じ言葉を喋りたいと思ったことがあったでしょうか。


「違うよ、チトセ。君にはそう見えるかも知れないけど、全然違うんだよ。僕ね、幸せってなんだか、ちょっと分かったんだ。ここに来るまで分からなかったけれど、チトセに会って分かったんだよ。チトセが一緒にいてくれるのが、すごく嬉しいんだ」


 でも、どんなに頑張ってもトトは黒猫です。声は人間には伝わりません。だから精一杯、チトセの足や手に頭を擦りつけて、気持ちを伝えました。チトセは優しく、トトの頭を撫でてくれました。チトセの手の温もりが嬉しくて、トトはゴロゴロと喉を鳴らしました。

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