client.3‐2

「――よし、乾いた!」

 温泉から帰ってきたあとりは、事務所の二階に干した洗濯物を回収していた。窓の外はすっかり日が暮れて、春霞の中を少し欠けた月が昇ろうとしていた。

 乾いたばかりの薄手のトレンチコートを広げる。雨と泥で汚れていたコートは、シミひとつなく綺麗になっていた。

「明日返そう」

 返す相手は、今日は疲れていそうにソファーに掛けていた。返すのは明日にしよう。本当はあの日に返す約束だったけど、と彼女は大吊橋での事を思い出していた。

 この探偵事務所に来てから、あっという間の一週間だった。ストーカーを捕まえるために転がり込んだ探偵の元で、依頼人の夫を撒く手伝いをしたり。張り込みなんて初めてやったなあ、とコートを腕に抱えて考える。バレバレの追跡をしていた夫の様子を思い出し、思わず笑ってしまう。そしてこのコートを貸してもらって、雨の中登山したり。色々あって吊橋から落ちて、奇跡的に助かったり。

「落ちた時、秋月さんめちゃくちゃ心配してたなあ」

 顔には出さないけど悪い人ではないよね、と呟く。

 そして昨日と今日、巻き込まれた温泉での事件。京介の手によって隠しカメラが発見された時から、あとりは非日常感にワクワクしていた。男性が亡くなったのには心底驚いたが、現場検証で事実を積み重ね、数々の嘘を看破し、真相を明らかにすることができた。その後の混乱は大変だったけれど。

 一緒に探偵をやっていたこの一週間は楽しくて、刺激的だった。

「ここに居たいって、言ってもいいのかな……迷惑かな」

 京介の様子を見るに、彼は仕事に関してあまり他人の手を必要としていなさそうだった。降って湧いたような事件に巻き込まれることはあったものの、事務所自体はそこまで忙しそうではない。

 そもそもストーカー問題が解決したのだから、彼女がここにいる理由はない。空き巣が怖いのは本当だったが、いつ出て行くも自由なのも確かだ。何だかんだ彼の前では駄々をねてみたものの、明日が終わればここを去るのはほぼ暗黙の了解だった。それでもあとりは、まだここで働いていたかった。

 うんうん悩みながら乾いたコートを畳んでいると、内ポケットの辺りが小さく膨らんでいることに気が付いた。

「……わ、一緒に洗濯しちゃった! 何だろ……?」

 慌ててポケットを漁る。出て来たのは、古いオイルライターだった。四角い金属製のライターには開閉式の蓋が付いており、外観は少々くすんでいる。目立った傷はなく持ち主の物持ちの良さが伺える。蓋を開けると、カシャン、という金属音とともに点火部が露わになった。試しに点けてみると、シボッ、と音を立てて赤い炎が揺らめく。

「良かった……」

 壊したかと思った……とあとりは大きく息を吐いた。蓋を閉めて内ポケットに戻しながら、この一週間に行動を共にした京介の様子を思い出す。煙草を吸う様子は見なかった。

 まあ壊れてなかったから良いか、とあとりは何も言わずに返そうと決めた。

「明日の最後に返そう……うん」

 少し寂しさを感じながら、柔らかいコートの感触を確かめるように胸に抱いた。



 試用期間最終日の朝。

 早い時間にも関わらず、けたたましく電話の呼び鈴が鳴る。いつからうちはこんなに忙しい探偵事務所になったのだろう、と新聞を畳みながら、眠い頭を黒い手でわしゃわしゃと掻き受話器を取る。

「はい、古小烏ふるこがらすたんて――」

「ああ、今日は出たわ! もしもし!?」

 言い終わらないうちに、女性の声が被せて来た。急を要しているのか、落ち着かない様子だ。

「昨日も掛けたの! 急いで来てちょうだい!」

「あの、どちら様――」

「桃木よ! 大分前に庭の草取りに来たでしょう! 止木とまりぎ三丁目の!」

 女性は凄い勢いだった。断る選択肢とタイミングを与えない圧を、受話器越しに感じる。京介は頭をフル回転させながら、電話の主の事を思い出そうとした。三丁目の草むしり。いつのどれだっただろうか。

 せめて何があったのかを事前に教えて欲しいと聞くと、彼女はごうを煮やしたように答えた。

「猫! うちのレオンくんが! いなくなったのよ!」

 すぐ来てよ! 絶対よ! とだけ言って、電話はすぐに切れた。こんなモーニングコールがあっても良いのだろうか、と京介が受話器を見つめて棒立ちになっていると、

「ふわ、おはようございまーす……あら、また朝からお電話ですか?」

 どたどたと足音をさせて、屋根裏部屋からあとりが降りてきた。本当に、彼女が来てからというものの毎日が忙しい。

「……お前の客寄せ運、何とか止めることは出来ないのか」

 受話器を置きながら、探偵はぐったりして言う。当の本人は、何の事かと小首を傾げた。

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