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 それから数分前のこと。谷底の枯れ沢に、大吊橋の様子を伺うフードの男が潜んでいた。何かを探しているかのように、きょろきょろと忙しなく周囲を見渡している。

「……何してる」

 男が振り向くと、茂みの中から京介が現れた。木々の間を潜り抜けて追ってきたのか、シャツとスラックスのあちこちは泥と草の汁で汚れていた。

「い、いや、僕は何も――」

「嘘を吐くな」

 黒手袋が男の襟元を掴むと、フードがはだけて表情が露わになった。十代後半程か、そばかすが目立つその顔にはまだ幼さが残る。視線は泳ぎ、おどおどと落ち着かない。

「やはり……お前、ここ最近あの子を付け回していたろ」

 びくりとして、フードの男は固まった。図星のようだ。動揺して震える足が砂利を踏む。

「あっ……あなたはあとりちゃんの何なんですか……!? も、もしや彼氏……?」

 上ずった声で問う男。自分で発した言葉に、あああ聞きたくない! と耳を塞いでしまう。その様子を見た京介は嘆息した。

「……あいつはただの職業体験生インターンだ」

 どういうこと?と訝しむ男。それは京介も聞きたかった。

「偶然街で見かけてから、可愛くて可憐で、遠くから見てるだけで良かったんです……でも数日前から姿が見えなくなって……やっと見つけたと思ったら何故か男と一緒にいるし」

「俺は探偵だ。あの子はお前の存在に怯えてうちに駆け込んできたんだ」

 黒い瞳が男を真っ直ぐに射貫き、ストーカーは黙り込んだ。黒手袋が掴むフードの中身は、意識消沈して萎れるように肩を窄めた。京介は頭を振り、畳みかけるように言葉を連ねる。

「……いくら何でも、家にまで押しかけて荒らすことはないだろう」

 二人の間に、谷あいのぬるい風が吹いた。数拍ののち男は両手をブンブンと振り、

「いやいやいや! さすがに家にまで押しかけないですよ! せいぜいあの子の職場に見に行くくらいで」

「……は?」

 関与を全否定した。京介は眉根を寄せる。その言葉は嘘ではなかったからだ。どういうことだ、と問い詰めようとしたが、

「あ、あれは……!」

 男は突然何かに気が付き、はるか上空の吊橋を指差した。はったりではない言葉に、京介も指の先を振り向いた。そこには、橋桁に掴まる白いワンピースの女性と、それを引き上げる少女の姿があった。

「あいつ――!」

 無理な体勢で橋にぶら下がるあとりを見付け、言葉を失う京介。ストーカーも一瞬にして顔が青ざめ、その場に固まる。

「え」

 二人が見つめる先で、少女は夕空に投げ出された。



 バランスを崩したあとりは、傘を掴んだまま重力に逆らうことなく背中から落下していく。咄嗟に伸ばした夫の手は空を掠めた。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ」

 雨を吸ったコートが激しくはためき、茜さす空が遠ざかっていく。夫が橋の上から落としたのだろうか、白い花束が花弁を散らしながら一緒に落ちてくるのが見えた。地上から、何か叫ぶ声が細切れに聞こえる。

 このまま死んじゃうのかな、と頭の片隅に一点の染みが落ちるように怖気が走る。

 しかし少女は風圧で息ができず涙しながらも、谷底に向かって必死に目を見開いた。

 何でだろう、諦めちゃ駄目な気がする。


 その時、一陣の風が吹いた。



「あとり――!!」

 目の前の光景に絶叫する京介。背筋が凍り付き、身体が動かなくなる。

 また、間に合わない……。脳裏に失ってきた大切なものの記憶がフラッシュバックした。だから隣には誰もいらないと、そう決めていたはずなのに。

 京介は少女の悲鳴を聞きながら、立ち尽くすことしか出来なかった。


 その時、谷底から一際強い突風が吹き上がった。



 あとりは突然吹いた強烈な谷風に目を瞑り、思わず掴んでいた傘を引き寄せ、その指が偶然にも折れた取っ手のボタンに触れた。バサッと跳ねるような音がして、八本の傘骨が開いた。骨の一本一本がおののきながら強風を受け止め、落下していた少女の身体が浮き上がる。彼女は必死に離すまいと、折れ残った取っ手を両手で握りしめた。

「え……!?」

 ストーカーの男は驚きをもって目の前で起こった奇跡を見つめ、咄嗟にスマートフォンを構えた。あとりは上昇気流に支えられながら、ゆっくりと枯れ沢へ降りていく。京介はストーカーの襟を放り出し、駆け出した。

「――――――――」

 夕陽に照らされた雨のかけらと、どこからか降ってきた白い花弁がきらきらと宙を舞う。その景色の中心にいる少女は驚きに満ちた表情で榛色の瞳を目一杯に開き、ビニール傘で降下していた。借り物のトレンチコートは、翼のように舞い上がっていた。

 一切の音が消え、すべてがスローモーションの世界になったかのような現実離れしたその様子を、京介は不思議な気持ちで見上げていた。それはもはや奇跡とも呼ぶべき光景だった。

 もう、失う苦しみに苛まれる必要はないと、全てにゆるしを与えるような光だった。嘘のようにあたたかい雨が、胸の奥底に仕舞い込んでいた冷たいわだかまりにそっと触れる。

 この光を、少女を受け入れても、赦されても良いのだろうか。

 目の前の光を慈しむように、京介は無意識に手を伸ばした。その時、

「きゃっ」

「うぉっ!?」

 地上まであと二・三メートルというところであとりの手から傘の柄がすり抜け、彼に向かって墜落した。

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