第50話:Storm flag flying


◆◆◆◆


「これが――竜嵐!」


 私はエンタープライズの手綱を握り締め、前を見据える。弾丸のような雨粒は竜の加護で弾かれるけれども、その圧力が生身の私にまで伝わってくる。初めての体験だった。雷鳴。豪雨。暴風。本来竜はどんな悪天候でも飛べる。けれども、この竜嵐だけは別だ。大気そのものが荒れ狂っている。地上で竜嵐に向かって離陸した時とは全然違う。私は今まさに、竜嵐のただ中にいるのだった。

 けれども、私は恐ろしさを感じつつも手綱を握る手はぶれなかった。なぜなら、これはジャックとの訓練で想定したことのある空だからだ。彼の言葉が耳元でよみがえる。どこに目を向けるか、乱気流のどこを縫って飛ぶか。


「――怖くない。私は、教わったから」


 自分に言い聞かせるようにして私はつぶやく。

 私はずっと――飛んできた。

 ずっと――求めていた。

 自由な空。清浄な空。本当の空を。

 ギャロッピングレディと揶揄されても、竜症に骨まで侵されても、悔しくても苦しくても、空を目指し続けてきた。その集大成は、聖杯記念じゃなかったみたいだ。私の目指してきた空は、この竜嵐の中に在った。


「エミリア――聞こえるか?」


 竜炎の共鳴作用で、私の耳元にジャックの声が聞こえる。たった一人でこの嵐の中にいるわけじゃない。私がエンタープライズをどこに導けばいいのか、それを教えてくれる人がいる。ただそれだけで、私の心は信じられないくらいに落ち着いてくれる。


「ええ、良好よ」


 内心の嬉しさを押し殺して私は平静を装って応える。

 あなたは――私と一緒にここまで来てくれたのね。

 ジャック・グッドフェロー。

 こんな危険で無鉄砲で向こう見ずなフライトに、あなただけは共に挑んでくれる。

 あなたこそ、私の最高のコーチよ。ジャック。


「よし。これはレースじゃない。人を救うためのフライトだ。分かってるな」

「もちろんよ。指示をお願いするわ、ジャック。あなたの言うとおりに飛ぶから」

「OK。了解した。俺たちは本当の救命ライダーが来るまでの即席の救援チームだ。わきまえろ。できることだけをするんだ」


 ジャックの経験に基づいたアドバイスが本当にありがたい。私だけだったら、きっとはやる気持ちを抑えきれずにやみくもに突っ走っていたから。

 けれども、次の瞬間、竜炎の伝えるジャックの声に軽薄な調子が混じった。きっとこれこそが、救命ライダーだったころのジャックの声だったんだろう。


「だが、本命が来るまでおとなしくする理由はないぜ、お嬢さん。元救命ライダーの腕前と、先導者を目指すライダーの意地ってものを見せてやる。捜すぞ!」


 監獄出身の救命ライダー。命知らずの荒くれ者たちの一人。私は彼が現役の頃のことを知らない。でも、その一端が確かにここにあった。


「はい!」


 私はいつものドラゴンライディングの練習の時のように答える。彼が言葉少なに告げる忠告を耳に刻み、意識を集中する。


「この竜嵐の規模は?」

「俺が落ちたあの時に比べれば、子犬とライオンの差だ。だが甘く見るな。俺はブランクがありすぎるし、君は病み上がりで、救助ライダーとしては新米同然だ」


 ジャックがそう答えたのと同時に、周囲の空気が変わった。前方から物理的な圧力を伴った強烈な大気の渦がいくつも迫ってくる。こんなものは普通の嵐では考えられない。


「気塊が迫ってきた! 大きく軌道を変えて避けろ! 遠回りになるが仕方ない!」

「いいえ! 突っ込むわ! アーサーのアームがある!」


 私は竜炎の中から、アーサーに借りた彼のアームを引き抜く。周囲の竜因に呼応して、ストームフラッグが吠えた。まるで歌うかのような不思議な音色が響く。不協和音を組み合わせたような、背筋が寒くなるような音だけど、同時に魂が震えるような躍動だ。

 私たちの年代のライダーなら、誰でも知っている。アーサーが使うあのストームフラッグは、正真正銘の「聖剣」なのだと。竜と共に空を駆け、竜と共に生きた無数のライダーの手を渡ってきたそれは、もはやただの剣ではない。極東の刀剣が鍛冶の魂を食らって鋭さを増すように、竜が乗り手の魂を食らって飛ぶように、彼の剣は竜因を暴食して神秘を顕彰する。


「後ろに続くぜ! やってみせろよギャロッピングレディ!」


 すぐに私の言葉を理解してくれたのか、ジャックがそう言ってくれた。確かに、私のこの行為はまさにギャロッピングレディそのものだ。小規模とはいえ、竜嵐の作り出す気塊に人の身で挑むのだから。


(私たちは――折れるし曲がるし砕ける。立ち上がれないことだってあるし、くじけて投げ出すことだってある)


 ストームフラッグは、使い手が異なるにもかかわらず吠えた。アーサー以外を絶対に認めないル・ファンタスクとは大違いだ。仕方なく応えてくれたのか、それとも獲物がいるのならば誰が振るおうとどうでもいいのか。


(でも――それなら私はできることをする。できることをしたい! 私を輝かせてくれた人がいるように。私が誰かの力になるために!)


 私は万感の思いを込めて、剣を振り上げる。地上のレースでは不可能の神秘の解放。それはこの竜嵐の中でならば可能になるはずだ。ライダーの記録。騎士の伝説。私が読んできたものに、今だけ私はくつわを並べる。


「アーサー! あなたの翼を、あなたの剣を私に貸して! 今だけはあなたと翼で語るために!」


 飛行船さえ叩き落す気塊に向けて振るわれた剣は、あたかも竜の放つ咆哮のごとき破壊の奔流となって大気を切り裂いた。

 「竜雲」。

 それは地上からでも観測できる、英雄の証だった。


◆◆◆◆


「竜雲をこの目で見るとはな……」


 俺は息を呑んだ。目の前で気塊が吹き散らされて消し飛び、俺たちの通るべき道が空にはっきりとできるのを見ればそうなるのも無理はない。

 人知を超えた神秘だ。エミリアの放った一撃は、アーサーのストームフラッグが放った一閃は、惑星の作り出す脅威を一瞬とはいえ制したのだ。


「まるで――空が真っ二つに割れたみたいだ」


 俺たちが今飛んでいるのは、比較的小さな竜嵐の中だ。リチャードを失った竜嵐とは比べるべくもない。それでも命がけのフライトだ。気を抜けば落ちて死ぬ。下に風圧のネットはない。エミリアの勇敢さには本当に驚かされる。

 インディペンデンスがその時鳴いた。首を曲げて飛ぶ方向を自分から変える。


「いい子だ、よくやった」


 俺はインディペンデンスの首筋を撫でる。こいつは本当に優秀な竜だ。我慢強く頑丈で耐久力が高く、それでいて非常に観察力が高い。元救命ライダーの俺が乗る竜として、もったいないくらいの能力だ。


「エミリア、熱水機関の排気の痕跡をインディペンデンスが見つけた。これをたどるぞ」

「はい! お願いします!」


 エミリアが気塊を吹き飛ばしてくれたおかげで痕跡がかなり残っている。遠回りをしないで済んだ。

 それにしてもなんなんだ、あのストームフラッグというアームは。正真正銘神秘に片脚を突っ込んでいる代物だ。聖剣はあだ名じゃなくて本物だったらしい。レースであんなものを振るわれたらおしまいだ。いや、この竜嵐の中だからこそ可能な神秘の再現か。

 これは竜の嵐。星の記憶である竜と源泉を同じくするもの。この現実に滲み出してきた幻想だ。


「見つけた――!」


 その時、激しい風雨の中、あおられてふらつく飛行船アルバトロス号の姿が雷光に照らされた。


「気を付けて接近しろ! 焦るな! ここが正念場だぞルーキー!」


 俺は竜炎を用いてエミリアに呼びかけ、彼女のはやる気持ちを抑えさせる。まだだ。まだ喜ぶ時じゃない。落ち着いて、竜嵐から飛行船を安全な場所まで誘導させるんだ。

 ルーキーはここからが危ない。人を助けたいという高潔な意思を持つライダーならなおさらだ。早く助けたいという気持ちだけが先走って、我が身の安全がおろそかになるからだ。だから俺は、怒鳴ってでもエミリアを抑える。

 ――それでも。


「はは……おい、リチャード、見てるか。あのお嬢さん、本当にやりやがったぜ」


 アルバトロス号へと向かうエミリアを見て、俺はついつぶやいてしまう。エミリアよりも、きっと今の俺は高揚しているに違いない。そうだろう? こんな俺の目の前で、一度空から落ちて地べたを這いずり回っていた俺の視線の先で、俺の教えた子が多くの人を助けようとしている。我が身と自分の栄光を犠牲にして。それを悔やむことも、鼻にかけることもなく、エミリアはただ竜の如く空を駆ける。本当に、本当に彼女は自由じゃないか。

 そしてこの俺はどうだ? 片手を失ってどん底にまで真っ逆さまに落ちた俺が、どういう運命のいたずらか、ずっと背を向けていた竜にまたがって竜嵐の中にいる。俺はナビゲートをしただけだ。アルバトロス号の救助を選んだのはエミリアだ。でも、彼女に竜嵐の中を飛ぶ方法を教えたのは、俺なんだ。俺はあの時とは違って、今度こそ人を救えたんだろうか。



「ああ――俺も見ているぜ、ジャック」



 その瞬間、俺ははっきりと知覚した。

 懐かしい、二度と味わうはずのない、失った親友の気配を。

 強烈な風が押し寄せ、俺は雷雲に飲み込まれた。


◆◆◆◆


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