第27話:幻影来たる


◆◆◆◆


 夜の廃工場。そこに設けられたドラゴンライディングの練習コース。申し訳程度のフェザーやラインが設置されているけれども、どれも劣化してぼろぼろだ。未だにそれらがここに置かれたままなのは、単に誰も盗むほどの価値を見出していないからだ。アイルトンカップが開催されたワイアットレース場とは規模も金のかけ方も大違いだ。けれども、俺にとっては慣れ親しんだ場所でもある。


「一朝一夕にはいかないな。呆れるくらい勘が鈍ってる」


 俺は量産型の竜のサドルから降りながらため息をついた。ライダーの降りた竜は、まるでゼンマイの切れたおもちゃのようにぴたりと動きを停止した。本当に、ただライダーが乗るためだけに形作られた竜だ。それ以外が何もない。確かに騎乗して空を飛ぶには十分だが、およそ乗っていて心が躍ることがない。

 俺はエンタープライズに乗るエミリアを思い出した。エンタープライズは狂暴ではないが非常に神経質だ。臆病とさえ言っていい。そのくせ、ひとたび飛べば勇猛果敢という言葉さえ無粋に感じるほどの暴風のような勢いで空を駆ける。あれはまさに、エミリアのために用意されたかのような竜だ。俺の黄金の竜、我慢強く辛抱強く、どっしりとした体躯のインディペンデンス。いつかきっと俺も……あいつを呼びたい。

 でも、それにまず、自堕落な生活で腐りきった体を再びライダーとして鍛えなおさないといけない。こんななまった体では、インディペンデンスを乗りこなすことは不可能だ。俺自身がレースに出ることはないが、もっとエミリアに付き添ってトレーニングをする必要がある。本格的に空を飛ばないといけない。


「俺がしっかりしないとな……」


 まったく、今頃になってようやくやる気を出したのか、俺は。自嘲の笑みが口元に浮かぶ。あんなにエミリアが輝くような情熱を見せ、自由への渇望に焦がれ、竜症でもがき苦しんでいたのに。もっと早く奮起すべきだったのに、遅すぎるよなあ。

 正直に言えば、空を飛ぶのは今でも怖い。骨の髄まで染み込んだ恐怖は、一日や二日で拭えるものじゃない。悔しくてたまらないが、あれだけエミリアに励まされてもなお、俺は空に対する恐怖を消し去ることができないでいた。ライダーとしては当たり前の急上昇によって視界が一気に開けると、それだけで身がすくんでしまう。

 エミリアに頭を下げられて、おっかなびっくり空を飛んだ時を思い出す。あの時はすぐ前にエミリアがいた。けれども今はいない。一人で夜の空を飛ぶなど、今までは絶対に無理だった。でも、今夜俺は飛ぶことができた。エミリアの言葉が今でも耳元に聞こえる。


『あなたが百回自分を責めるなら、私が千回かばうわ。あなたが千回自分を責めるなら、一万回叫ぶから。堂々と『あなたは正しい』って』


 赤の他人の俺なんかのために、身を削ってそう言ってくれたエミリアに、俺は信じられないくらいに力づけられていた。俺は量産型の竜の感覚器である角をチェックしながらつぶやく。


「もう一度だ。もう一度、せめて体が離陸の勘を取り戻すくらいには……」


 集中していたからこそ――気づかなかった。いや、たとえ集中していなくても気づかなかっただろう。

 あまりにもかすかな風圧。ほぼ無音だ。まるで、闇夜で獲物に舞い降りるフクロウのようだった。俺は振り返る。

 ばい煙で曇った空から差し込む月光に照らされて、一匹の竜が着地していた。異様なほどやせ細った、骸骨のようなシルエットだ。翼の皮膜が極限まで薄いせいで、まるで骨組みだけのようだ。おとぎ話に出てくる、悪い魔法使いが操るドラゴンの死骸を思わせる異形のデザイン。不吉なその姿にふさわしく、あまりにも存在感が薄い。目を凝らさないと、そのまま闇の中に溶け込んでしまいそうだった。


「月下のフライトは楽しめたかな? ジャック・グッドフェロー」


 その竜の背に設けられたサドルに、一人のライダーが乗っていた。まったく特徴のないくぐもった声。性別さえ定かではないが、外見から察するに男のようだ。明らかに時代錯誤なユニフォームを着ている。シルクハットを模した帽子なんて、今時かぶっているライダーなんて見たことがない。彼が着ているのは、競技用のユニフォームではなくて式典や儀式の際にライダーが着る礼服のユニフォームのようだ。

 月光に照らされて分かった。男の顔は、のっぺりとした白い仮面に覆われていて、両目以外こちらからは見えない。


「誰だ、お前は」


 俺の不愛想な問いかけに、男はサドルから降りて地面に立ち、滑稽かつ気取った仕草で一礼した。


「私の名は――ファントム、とでも名乗っておこう」


 月夜に現れた不気味な竜と、それにまたがった仮面のライダー。そして名乗ったのは「ファントム」という明らかな偽名。なんだこいつは。仮装パーティーから抜け出した酔っぱらいか?


「おかしいな。俺はわけあって酒を止めたんだが、どうやら知らないうちに飲んでいたらしい。変な竜と変なライダーの幻覚が見えるんだが」


 俺の皮肉にも、ファントムは怒ることなくこう言った。


「私が幻影(ファントム)であろうとなかろうと、それは些細な事さ。今夜は君に、耳寄りな話を持ってきていてね」


◆◆◆◆


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