第18話:竜の病03


◆◆◆◆


 エミリアの自室を後にし、俺はエリザベスと一緒に一階に降りた。充分にエミリアの部屋と距離を取ってから、ようやく俺は足を止めた。


「エリザベス・スターリング」

「何かしら」


 さっきから毛ほども動揺していないオールドレディは、俺の改まった態度に何かを感じたのか、静かに足を止めて向き直る。


「本当に申し訳ありません。エミリアのライダーとしての経歴に、どうしようもないくらいの泥を塗ってしまいました」


 俺は腰を曲げて深々と頭を下げる。できることなら手をついて床に頭を擦り付けたかったが、そんなことをしてもエリザベスは困惑するだろうから、俺のできる限りの真剣さで謝ることしかできない。


「頭を下げたくらいで済むとは思っていませんが、今の俺はこれしかできません。許してくださいと言う資格さえ、俺にはありません」


 そうだろう? そもそも謝るということは、情状酌量の余地があるからできる行為だ。この三流以下のコーチの俺に情状酌量なんて甘ったれたものがあるわけがない。

 どうやってエミリアの竜症に対して償えるか。どんなに考えても思いつかない。どれだけエリザベスが俺に失望しているのか、それも見当がつかない。さっきから、エリザベスは一度も俺をなじったり責任を追及したりしない。それが逆に恐ろしくて仕方がない。


「今までもらった給料は全額返します。当然慰謝料も払います。どんな額でも構いません。一生かけて払います。それ以外、俺にできることならなんでもしますから」


 なんでもしますから、なんだというんだ? そんなことは言うまでもなく当たり前なのに。それに、こんなクズの俺に何かができるなんて到底思えない。でも、情けないことに俺はこれくらいしか言うことが思いつかなかった。断頭台に引きずりだされた死刑囚の気持ちで、俺は床を見つめたままエリザベスの判決を待つ。


「なんでも、なんておいそれと口にするものじゃないわ。坊や、頭を上げなさい」

「しかし……」

「いいから上げなさい」


 俺はおずおずとみっともなく頭を上げた。エリザベスはどこまでも平静だった。以前、テーブルを挟んで俺とティータイムを楽しんでいた時とまったく同じ視線が、俺を見ている。


「私が今、過去も執着も捨ててライダーとして再び空を飛べ、と命じたらあなたはそうするのかしら?」


 俺は思わず生唾を飲み込んだ。背筋に冷や汗がにじむ。


「……それが、少しでも償いになるのならば」


 けれども、できないとは言えない。言うことは許されてない。俺の苦しみなんて、エミリアの今味わっている焦燥感に比べれば、マッチの火と山火事くらいの違いがある。俺にとって最大の苦しみが、罪悪感を抱えたまま飛ぶことならば、エリザベスは罰としてそれを科してくるのだろうか?


「あえて言うならば――下らないわね」


 耳を疑うような言葉が、エリザベスの口から発せられた。


「……え?」


 エリザベス・スターリング。いや――オールドレディ。


「あの子の竜症に対する責任が、あなただけにあるとでも思っているのかしら?」


 老練な元冒険家の女性が、凄味さえたたえて俺の前に立っていた。まるで、壮絶な歴戦に耐えてきた軍艦のような恐ろしくさえある重みが、彼女から発せられている。


「この世界の悲劇や理不尽が、自分の意志だけで回避できるとでも? 率直に言えば、ずっとあの子のそばにいて竜症の兆候を見落としていた私にも責任があるし、それにずっと目をつぶって練習に専念していたあの子にも責任があるわ」

「でも、そうしなければアイルトンカップには勝てなかった」


 俺は言う。竜症はすべてのライダーがかかるといってもいい。どんなライダーも、リスクを考えながら竜に乗り続ける。竜症を避けてライダーとして大成することや、レースに勝つことは不可能だ。だから、エミリアが竜症を患うことそれ自体は必然だ。ただ、あまりにもタイミングが悪く、あまりにもそれは重症だった。


「ええ、そうよ。だから、これが必然。私はこの程度の苦痛なんて、飽きるほど味わってきたわ」


 オールドレディが俺を見据える。初めて竜に近づいた時のように、俺は脚が震えた。


「フンボルト半島の大行進で寄生虫に腸を食い荒らされて、野外で開腹手術をしたこともあるし、エキドナ海で竜嵐に巻き込まれて乗っている船が沈没した時は、ボートから投げ出されて一枚の舟板を多くの遭難者と取り合ったわ。誰も死ななかったのが奇跡的なくらいよ。アルコーン実験場の廃棄地区に入ったことはある? 二千人の人間のなれの果てを見たことは? 今でもあれだけは夢に見るわ」


 それは、初めて聞くオールドレディの冒険家としての遍歴だった。新聞や伝記作家が描く、華々しくて華麗で栄光に満ちた人生ではない。死と隣り合わせで、恐怖と苦痛が容赦なく襲い掛かる、壮絶すぎる彼女の歩んできた本当の道のりだ。何度泣き叫び、何度挫折し、何度それでも歯を食いしばって前に進んできたんだろうか。


「私はね、ジャック・グッドフェロー。老いたのよ。もう執着もないわ。たとえ孫娘でも、その苦痛がただの額縁の中の絵のように見えてしまう」


 しかし、彼女はそう言って自嘲気味に笑った。あたかも風と砂が長い年月をかけて巨岩をすり減らしていくかのように、いつの間にかエリザベスはオールドレディとなり、摩耗しきっていたのかもしれない。


「……あなたは俺よりいかれている。だけど、俺よりは高潔だ」


 少なくとも、俺はエミリアが今味わっている苦痛を「額縁の中の絵」のようには感じなかった。彼女の痛みは、俺自身の痛みでもあるのだ。


「高潔などなんの意味もないことは、あなたもよく知っているでしょう?」


 普段さんざん高潔な生き方をあざ笑っているのに、いざ他人にそう言われるととたんに俺はおじけづく。つくづく情けない。


「あなたは……エミリアがこうなることを知っていたのか?」

「愚問ね、ジャック。ライダーである以上、誰もが竜症になるわ。それがいつ発症するのかまでは、私にも分からないけれども。誰が悪いのか、誰のせいなのか、犯人捜しはやめなさい。同時に、自分を責めることもやめなさい」


 他人事のようなエリザベスの態度に、俺は呆れたことにかっとなった。


「あの子は! 自由を求めているんだ!」


 たとえオールドレディであっても、エミリアの心からの渇望を、自由を求めて空を駆ける気高さを無視してほしくはなかった。エミリアはもがいている。生きようと、生きたいともがいている。どんなことあっても、空を飛ぼうともがいている。


「誰よりも速く、高く、このばい煙で汚れきったクソみたいな空のもっと向こうまで羽ばたこうとしている! あなたはそれさえも何も感じないのか!」


 俺は息を切らして叫ぶ。無作法極まる醜態を見ても、オールドレディはわずかに怒ることさえなかった。


「あら、そうなの。面白いことを言うわね。てっきりあの『グレイゴースト』に追いつきたかったのかと思っていたわ」


 グレイゴースト。

 無名の英雄。

 知られざる亡霊。

 ライダーならば誰もが知っている、いや、ライダーを目指す子供たちが誰もが寝物語で聞くその名を、エリザベスの口から聞くとは思わなかった。


「いい顔をしてきたわ、ジャック。オールドレディのスカートの後ろに隠れる弱虫坊やの時間はもう終わり。さあ、自分の足で立って歩くのよ」


 エリザベスが一歩近づき、逆に俺は一歩下がった。


「なんでもするとあなたは言ったわね。ならば私の言うことに従いなさい」


 すっかり年取った一人の老婦人に、俺は完全に気迫で負けていた。


「給料は返さなくていいし、慰謝料なんていらないわ。そして、これからもあの子のコーチを続けなさい。あの子が再び空を飛べるようになるまで、どんなことがあってもそばにいなさい」


 俺はへたり込んだ。情けをかけられたのだろうか。少なくとも、エリザベスはエミリアのことを大切にしていることは確かだ。そうでなければ、彼女にコーチをつけさせることはない。でも、こんな俺が本当にエミリアのコーチを続ける資格があるのだろうか。


「俺なんかが、務まるのか?」


 床を見つめたままつぶやく俺に、頭の上からエリザベスの声がかけられた。


「務まるのよ」


 俺は目を上げる。エリザベスは俺を見下ろしてこう言った。


「片腕を失ったコーチと、壊れかけた翼――隻翼のドラゴンライダー。二人で一人と言ったところかしら?」


 隻翼のドラゴンライダー。

 それは後に――どん底まで落ちたエミリアが、再び羽ばたく姿を言い表す名前となるのだった。


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