第41話 恋の誘惑

 愛菜は真一郎と共に彼の馴染みのスナック・バーにいた。ゆったりとして洒落ている空間は愛菜の気分を高揚させている。店に始めて入ったとき店のママが挨拶をしたのを思い出す。


「いらっしゃいませ。浦島様」

「やあ、今晩は、ママ」

 ママの花園江梨花えりかは愛菜に声を掛けた。

「ごゆっくりして下さいね。お嬢様」

「はい。有り難うございます」


 ここでも真一郎は馴染みだった。彼の行動範囲は広い。江梨花は心得たもので、真一郎のキープボトルを取り出して言った。


「真一郎様は、いつものハイボールでよろしいですか?」

「そうだね。よろしく」

「かしこまりました。お嬢様はどうしましょう?」

 愛菜は、お嬢様と言われ、恥ずかしかったが嬉しかった。

「そうですね。どうしましょうか? 何かお勧めがありますか?」


「では若い女性に人気のあるカクテルで、カシス・オレンジなど如何でしょう?」

「はい。どんなものですか?」

「ジュースみたいに甘くて飲みやすく、口当たりが良くて女性の人気で一番です」

「そうですか、ではそれをお願い致します」

「かしこまりました」

 運ばれた美しいカクテルは愛菜の喉を通っていった。

(美味しい……素敵な夜だわ)カクテルと雰囲気で愛菜は心から酔いしれていた。


 はからずも、

「今夜は帰りたくないの」と真一郎に告白してしまった自分……告白したその言葉はもう取り消すことができない。


 今までの自分なら、このような大胆なことはしなかっただろう。自分でも驚くような思い切った言葉だったが、それは愛菜の正直な気持ちだった。


(今夜は帰りたくない)という言葉を女が口にしたその時、その言葉の意味は、肉体を含む自分の全てを男性に預けることでもある。


 それは当然、貞操を含むということを意味していた。愛菜はそれを酔った頭でしっかりと自覚していた。

 その相手が、母の元恋人だったと言うことも運命的である。しかし、愛菜の気持ちにこだわりが無いと言えば嘘になる。


 真一郎と母とのこと、しかし、それは過ぎ去ったことであり、自分は今を生きている。母とは違い自分は若い女なのだ、と開きなおっている愛菜がいた。


 真一郎は愛菜の中に、愛し合った恋人の房江をどうしても思い出さずにはいられない。激しく愛し合った熱い愛の日々……それを思い出させるきっかけを作ったのが、房江の娘だと言うことも皮肉である。


「では、帰らなくても良いんだね」

「はい」


 愛菜は真一郎の顔を見つめて言った、その目は潤んでいる。彼女の真剣な目を見て真一郎は彼女の並々ならない決意を感じた。

(そろそろ、ころあいになってきたかな……)


 真一郎はママにタクシーを呼んでもらった。

「さて、そろそろ退散しようかな。ママ」

「そうですか。またのお越しを……お嬢様、またいらしてくださいね。これをどうぞ」

 豊満なママの江梨花は、二人を見つめながら微笑み、愛菜に何かを手渡した。愛菜がそれを手にとって見ると、江梨花の洒落た名詞だったがその裏に綺麗な字で書いてあった。


 それには(いっぱい可愛がってもらってね……江梨花より)と書いてある。

「はい。有り難うございます。楽しかったです。江梨花さん」


 江梨花はこの後のことをすでに分かっているのだろう。夜の女の勘というものである。愛菜は思わず顔が赤くなった。


 二人はタクシーに乗り込んでホテルへ向かった。後ろの座席では二人は手を握り愛菜は肩を真一郎に抱かれていた。真一郎は愛菜のスカートの中に手を滑らせ、若い女の太股に触れていた、プチプチとした感触がこれからのことを想像させる。


 愛菜は、声を出すまいとしてこらえていた。もう官能の火は燃え始めているようで、彼の手が下着に掛かりそうになったとき、手で優しくそれを制止した。


 そうでないと、車の中で思わず声を出してしまいそうになるからだ。

(ダメ…)とだけ小さく言った。


 真一郎はまるで子供のように肩をすくめたが、相変わらず太股の手は止めなかった。車の中から見える景色は薄暗くなっており、きらめくネオンがオレンジ色に妖しく光り、絵の具のように流れていった。


 愛菜は、これからのことを想像しながら、心のなかで葛藤していた。少し母のことを思ったが目をつぶり雑念を振り払った。

「ごめんね。お母さん」


 愛菜は普段は遅くなる時に、母には必ず電話をするのだが、その夜はしなかった。と言うよりも、できなかったというのが本当の彼女の気持ちだった。


 それが新たな娘と母との激しいバトルなるとはその時、愛菜も母も知らなかった。真一郎自身も、彼女との激しい愛欲の中に溺れていく危うさにまだ気づいていなかった。

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