第38話 愛の短歌を詠む

(さっきまでの喫茶店では多分、わたしに気を遣ってくれたのでしょう)

 愛菜はそう思うと嬉しく少し誇らしげな気持ちになってくる。


「では、ごゆっくりしてくださいませ」


 そう言って、女将は微笑み、軽く会釈をして下がっていった。いつもは何でも真一郎に話しかける女将も、今日は余計なことを言わない。

(無理して気を遣わなくても良いのに、女将)

 真一郎は心の中で、部屋を出て行った女将を目で追いながら思っていた。


 日本料理店で、喫茶店の時とは違った落ち着いた雰囲気のなかで、愛菜は真一郎との時間を楽しんでいた。あらかじめ予約をしてあったその部屋の窓からは、日本庭園をあしらった小さな庭が見える。


 どこからか流れてくるちょろちょろとした水が、竹の節をくり抜いたかけいの中を伝い、ぽとりとしずくとなって落ちた。それが磨かれた黒い石の上に流れ落ちて濡らし、風流をかもし出している。


「ほら、みてごらん愛菜さん。あの庭先、すこし出てみよう」

「はい? あっ……ほんとうです。綺麗ですね」

 手入れがされ、こぢんまりとした庭に出ると、月が美しく輝いている。

「私はこの庭を見るのが好きでね。ちょっとんでみようかな」

「えっ、なにをです?」

「短歌を一首」

「まあ……」

 しばらく真一郎は考えていたが、それを詠んだ。


「しずかなる 苔むす庭に いでみれば 夜空に浮かぶ 月のさやけさ」

「わぁ、素敵です。私も詠んでみようかしら」

「おや、君もやるの?」

「はい。前に母から少し教わりましたから」

「なるほど。房江さんがねえ……」


 愛菜も少し考えていたが、どうやら一首が浮かんだらしい。

「月のさやけき 空みあげ きみとかたりし 至福のひととき」

「なかなかいいじゃないですか、わたしへの返歌ですね」

 愛菜は、真一郎が褒めてくれて嬉しかった。


「はい。ありがとうございます」

「なにか、わたしたち気が合いそうですね」

「はい。あの……真一郎さん。一つお願いがあります」

「おや、なんでしょう」


「わたしには普段通りに話しかけて下さい。くすぐったいです」

「なるほど。ではわたしたち気が合いそうだね。これで良いかな」

「はい、とっても……」


 月を眺めている愛菜の後ろから、さり気なく真一郎は彼女の肩を抱いた。その手に愛菜は手を重ねた。愛菜の手はなぜか熱い。そのとき、二人の心の中に何かを予感するものが芽生えたようである。しかし、今はそれに触れなかった。


 愛菜はそれ以上の言葉を言うのが怖かった……。


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