第26話 誘われて

 愛菜は数日間、悩んでいた。あの真一郎のことである。アルバイトをしていても、そのことが頭から離れなかった。


 自分に合って詫びたいという。彼のその本当の気持ちがわからないのだ。

 おそらく、あの不正事件の犠牲となった自分のことに気がつき、部長と課長の申し合わせで、犠牲になったことが後の調査でわかったのだろう。


 そのことは容易に想像できる。しかし、経営者である彼がなぜ、自分のような一人の人間に合ってまで謝罪する必要があるのだろう?


 社会に報道されている中で、もう自分に口封じのために会う必要はないのでは、経営者としての罪滅ぼしか、又は私個人に興味があるのでは? と思えば思うほど愛菜はわからなくなってきた。

 それを確かめる為についに愛菜は真一郎に会う決心をした。


「もしもし、東堂愛菜です」

「おや、愛菜さんですね。浦島です。よく電話してくれましたね」

「はい」

「会ってくれる決心がつきましたか」

「はい。そのつもりで、お電話しました」


「では、今週末の夕方にでも空いていますか?」

「はい。夕方なら大丈夫です。アルバイトも終わっていますから」

「わかりました。では場所を決めましょうか」

「はい。よろしくお願いします」

「では、あなたの好きなところがありますか?」


「いえ、お任せします」

「では、落ち着いた日本料理店にしましょうか。時々私が利用していますので」

「はい。そこで結構です」

「では、そこに行く前に、駅前の喫茶店で少しお話ししてからにしましょう」

「わかりました」

「もし何かあればこの携帯電話に」

「はい。ありがとうございます」


 こうして電話は切れた。愛菜の胸はドキドキしていた。まだ経験した事はないが、始めてのお見合いのような気持ちである。

 家に帰ってから愛菜は母親の房江に言った。


「お母さん。この間お話しした、私が勤めていた会社の上司の方に、週末会うことにしたの」


「そう。たしか浦島さんと言ったわよね」

「そうよ」


 母は愛菜にそれ以上話をしなかった。彼女はちょっと意外だった。 自分に何でも話しかけるいつも明るい母親が少し違って見えた。


「どうだったの愛菜、愛菜が会社にいたころのその人の感じ?」

「そうね。とても優しい人よ。お母さん」

「そう。それは良かったわね」

「そうね。お母さん」


 そんな会話をする母娘なのだが、なぜかその話にはあまり興味がないのか、それ以上には乗ってこない。娘を心配する親心なのだろうか。それならば、もっと聞いてくるはずなのに。しかし、それは後に愛菜と真一郎が会うことで明らかになる。


 前日の夜、愛菜はそわそわしていた。

(明日、何を着て行こうかしら? このワンピース、それと靴はどうしよう?)


 愛菜が駅前の喫茶店で待っていると、真一郎が入ってきた。相変わらず彼はいつも決まっている。彼女が合った男性の中で一番センスが良いと思った。なぜか、心がときめいている。


 真一郎は若くはないが、それが逆に中年男性のダンディズムを引き出しているようである。幼いときに父親を亡くした愛菜は年上の男性が気になるファーザー・コンプレックスなのかもしれない。




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