五話 上位者

 保健室へ行くと教室を逃げ出した蓮太だったが、実際に足を向けたのは屋上だった。基本的に屋上は施錠せじょうされているのでその周辺にはあまり生徒が近づかない…………今はとりあえず誰かの視線から逃れたい気分だった。


 蓮太は入り口前の階段で落ち着くつもりだったが、何の幸運か扉は施錠されてなかったのでそのまま屋上へと出る…………全く人気のない広々としたその空間を見て、ようやく彼の気持ちは落ち着いてきた。


「おい、ニグラト」


 振り返り、そこに立つ少女の名前を呼ぶ。


「くふっ」


 それになぜだか彼女は笑みを深めるが、いつものことだと蓮太は気にもしなかった…………自分が初めて彼女のことを名前で呼んだなどと意識すらしていない。


「やっぱりお前が何かしたんだろ」


 祀のあの変貌へんぼうはそれ以外に考えられない。先週最後に会った時はまともだったのだから外的要因もなしにあんな風になるはずがないだろう。


「何もしておらぬとずっと言うておろうに」

「…………信じられない」


 目の前には確固たる異常があり、その原因はニグラト以外に考えられない。


「お前が何かしない限りあんな変化はありえないだろ」

「変わったのは周りではなく旦那様の方じゃぞ?」

「は?」


 蓮太は首を傾げる。自分に普段と変わったことがないのは確認済みだ。


「お前が俺に何かしたってことか?」

「くふふ、何かしたというのならむしろ旦那様の方ではないか」


 蓮太に人の認識まで堕とされたからこそニグラトはここにいるのだから。


「それとこれとは関係…………」

「あるぞ」


 言葉の途中でニグラトに断言される。


「やっぱりその報復ってことか…………?」

「まるで見当違いじゃ」


 無知な子供を嗜めるように柔らかな声でニグラトは告げる。


「わしにしたことで旦那様が変わった、そう言っておるのじゃ」

「いや、でも…………」

「のう、旦那様」


 否定しようとする蓮太にニグラトは続ける。


「本来人に認識すらできない存在であったわしを旦那様は理解し、人の認識出来るレベルの存在にまで堕とした…………それだけの異形を成した旦那様が元の人間のままなのだと本当に思っておるのか?」


 いくら蓮太があの存在を理解したことを思い出せなくても成したことは事実なのだ。


 ニグラトという邪神の存在を蓮太が引きずり堕としたのと同時に、彼自身もただの人間という存在からは引きずり上げられていたのだから。


「でも、俺は何も変わってない」

「それは旦那様が変わっていないと思い込みたがっているからじゃろう」


 ただの人間でいたいから無意識に抑えているのだとニグラトは指摘する。


「しかしいくら抑えていても旦那様が自分達と違うことを普通の人間は本能的に気づく、そしてそうなれば何が違うのだろうと観察するものじゃ」


 それがつまり蓮太へのあの注目だ。


「じゃ、じゃあ…………祀の、あの変化は?」

「気づいたのじゃろうな、旦那様が自分とどう違ったのかを」


 つまりはその存在が普通の人間と比べて遥か高見にいることを。


「自分よりも遥か高見の存在に出会った時に人間のとる行動など二つしかない…………崇め奉るか敵視するかじゃ」


 つまるところ高位の存在に対して自分達を導く存在と取るか、果てしなく大きな脅威と取るかの話だ。前者であれば取り入るために崇めるだろうし、後者であれば排除しなくては安心など出来ないだろう。


「あの娘は旦那様を崇めるべき存在と認識したのじゃろう…………ただの人間にしては中々目端が効く娘じゃの」


 蓮太以外の人間をゴミとしか思っていないはずのニグラトが珍しく他者を褒めた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ」


 だがそんなことよりも嫌な現実が蓮太には見えていた。


「それがもし本当なら戻す手段は無いってことにならないか?」


 ニグラトの話が事実であるなら祀も他の生徒も別におかしくなったわけではないのだ。

 あくまで変化したのは蓮太の方でありそれぞれが相応の反応を見せただけに過ぎない。


 祀の例だって言うなればアイドルに熱狂するファンのようなもの…………おかしくなったわけではなく単にその情熱をぶつけられる対象を見つけたというだけのこと。


 それを元に戻そうとするならその対象に失望するか、その対象を消してしまうしかない。


「別にできぬことは無い」

「本当か!」


 思わず期待に声が上ずる。


「本当じゃとも。まず記憶消し、人格を矯正し、わしらに反応せぬように本能を捻じ曲げればよい……………それで元と同じようにはなる」

「それは、元に戻ったと言っていいのか…………?」


 歪んだものを無理矢理元の形に整えただけのような気がする。


「結果が同じであれば過程は問題なかろう?」

「…………」


 結果が同じに見えるだけでは意味がないように蓮太には思えた。


「旦那様の気持ちもわからぬではないがの…………おかしいものを直すのではなく正常なものを望む形に変えようというのだから歪んでも見えよう」

「それは…………」


 その通りだ。何かをされて祀たちはおかしくなったわけではないのだから。


「それでも構わぬのならばわしは旦那様の望みを叶えよう」


 くふふ、とニグラトは蓮太を見る。それに頷くだけでこのおかしな現状から彼は解放されて元の学校生活を送れる…………少しばかりの気持ち悪さを我慢しさえすれば。


「…………今はやめておく」


 屋上に上がるまでは混乱していたが、状況を理解したことで蓮太も落ち着いた。原因が自分にあるのなら最悪彼らの前から姿を消せばそれで問題は無くなる…………元の日常からは遠ざかるがこれ以上友人たちをおかしくするよりはマシだろう。


「旦那様、それはちと安易あんいじゃよ」


 彼のその決断をニグラトは否定する。


「今の旦那様をもうあの娘らは見てしまっておる……………で、あれば姿を隠したところで見つけようと躍起になるだけ話じゃ」


 もちろんニグラトが手を貸せば見つかることなど永遠にない。しかしそれはつまり永遠に彼らは蓮太を探し続けることになるということだ…………彼がいなくなったからと冷めるような生易しいものではないのだと彼女は告げる。


 ガチャ


 その言葉を証明するように屋上の扉が開く。


「見つけた!」


 振り返れば、そこには歓喜の表情を浮かべた祀が立っていた。


                ◇


「な、なんでここに…………」


 息を切らしながら屋上へ入って来た祀へと蓮太は驚きの目を向ける。教室を出る時は保健室へ行くと言い残したし、すぐに追いかけられたような気配は無かった。


 保健室に行けばそこにいないことはすぐにわかるが、旧校舎も含めれば彼を探す範囲は広くそう簡単に見つかるはずがないのだ。


「こちらの方からとうとき気配がしました!」

「とうときけはい」

 思わず棒読みで繰り返してしまう…………気になるクラスメイトだったはずの彼女は一体何の境地に辿り着いてしまったのか。


「ふむ、その娘はやはり目端めはしが利くようじゃな」


 改めてニグラトが評価する。


「そこにも尊い気配がする」


 まるでその声が聞こえたように祀が視線をニグラトへと向ける。


「ほう」


 それにニグラトが笑みを深める。


「普通の人間に認識されぬ程度のレベルのものとはいえわしに気づくか…………くふふ、旦那様という見本があるとはいえ面白い」


 楽し気に目を細めると同時にニグラトがその右手を軽く振る。蓮太からすればなんの変化も無かったが恐らくは認識阻害を解除したのだろう…………その証拠に神速ともいえる反応を見見せて祀が平伏した。


「ま、祀?」


 突然の土下座に蓮太は困惑するしかない。


「わしと旦那様では多少の格の違いがあるからの、その差じゃ」


 蓮太の場合はしばらく見つめて仕える相手だと確信した程度だったが、ニグラトの場合は即座に平伏すべき存在だと祀の本能が理解したという事らしい。


「さて娘、面を上げることを許す」


 命令することになれた口調でニグラトが告げる。祀はそれに一瞬だけ躊躇した後にすぐさまその顔を上げた…………畏れ多いが、それ以上にその慈悲を拒否する方が不敬であると判断したからだろう。


「わしはニグラト、敬称であれば名を呼ぶことを特別に許そう」

「ありがとうございます、ニグラト様!」


 その声が上ずっていたのは喜びと共に恐怖も感じていたからだろう。祀にとって蓮太は遥か高見の存在であっても元は同じ種という繋がりがある…………けれど目の前の存在がその姿を真似ていても人と繋がりの無い存在であることが彼女にはわかっていた。


 もちろん尊き存在として敬うが、それと同じ位に恐怖を抱くのは抑えられない。


「よい」


 だがそれすらも許容するようにニグラトは頷いて見せる。すると蓮太が傍から見ていてもわかるくらいに祀が安堵した。いかに敬意を持って接しようと心掛けても本能的な恐怖は感じてしまう、それを不快と取られたらどうしようもなかったのだ。


「あの、一つよろしいですか?」


 そのおかげで気持ちの余裕ができたのか祀が主体的に口を開く。


「なんじゃ?」


 それをニグラトも咎めはしなかった。


「お二人はどのような関係なのでしょうか?」


 もちろん祀はニグラトの蓮太に対する呼称を理解している。しかし彼女に対する蓮太の態度はそれを肯定してはおらず、その関係性をはっきりさせておく必要があった…………高位の存在の機嫌を損ねればそれはそのまま自らの命の危機へ直結しかねない。


「夫婦じゃ」


 蓮太が口を挟む前にニグラトはそう答えた。僅かに頬が赤く染まったその表情はとろけるようであり、その容貌も相まって同性の祀も見惚れてしまうほど煽情的せんじょうてきですらあった。


「とてもお似合いですね!」


 それでもすぐさま祀は賛同の言葉を紡いだ。実際祭りから見ても高位の存在同士である二人の釣り合いはとれている。今日再会するまで自身が蓮太へと抱いていた感情を祀は忘れていないが…………あっさりと気持ちの整理は出来ていた。


 自分と彼の釣り合いが取れないことなど見るからに明らかなのだから、むしろ諦めない方がおかしいとすら祀には思える。


「くふふ、そうか」

「…………」


 祀の言葉に満足そうな笑みを浮かべるニグラトとは対照的に、蓮太は両手と膝を屋上の床へと付いてうなだれていた。教室での反応で半ばわかっていたとはいえ、はっきりと自分が祀の恋愛対象から外れたことを口にされるとダメージは大きい。


「旦那様」

「…………なんだよ」


 返す声が恨みがましくなる。この件に本当にニグラトの関与がなかったにしてもそもそもの原因は彼女に出会ったことにある…………あの日ニグラトが地球にやって来ることをえらばなければ蓮太の平穏な日常は続いていたのだから。


「わしは心の広い女じゃからの、わしをちゃんと第一に扱うのであれば妾の一人や二人は許容するぞ?」

「なっ!?」


 それは一応蓮太にとっては朗報ではあった。彼にとっての懸念の一つは自身が好意を抱く祀に対してニグラトがどんな反応を見せるかだったからだ。現状ではニグラトを第一と扱うのは正直無理ではあるが、逆に言えば祀を正妻として扱わなければ彼女の安全は保障されたとも言える。


 問題は、その肝心の祀がもはや蓮太への恋愛感情を持っていないということだ…………それでも一縷の望みをかけて蓮太は祀の反応を伺う。


「…………だよな」


 そして蓮太は深く溜息を吐いた。


 畏れ多い、明らかにその表情はそう語っていた。

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