ジャンクムービーサバイバー

いど

流転の土

「坊主よ、名前はなんていうんだ」

「……三波」

「なるほど下の名はないのか?それなら野良犬みたいに好きな名で呼ぶことになるが」

「僕、自分の名前のひびき苦手だから紙に書いてきました」

差し出したレシートを若頭がひっくり返して、目線が上から下へゆっくり流れていく。

「解ったよ三波。名前は出来る限りは呼ばない。それにしても永い月の明滅、か。風流で美しいと俺は思うがな……組長がお呼びだ」

綺麗な装飾をされたふすまが開くと、まだかすかにい草の香りがする豪華な和室があった。

「ほう、なかなか綺麗な犬じゃないか」

組長が組んだ指を動かしながら笑った。いくつもの金のリングは高そうなのだけど、僕には下品な輝きしか印象に残らなかった。

「三波よ、お前は今から盃を交わす。こうすれば貴様はわしらの家族で兄弟で飼い犬になる。初めてここの門を叩いた時のは3年は前だったか……本当に立派になったな。しかしそれでもお前はまだ若い。これからもっと立派になるだろう。なにも知らない少年として生きていくのもまた自由だ。腹が据わるまでここで待ってやろう」

これほど人間がいるのに、衣擦れの音もしない沈黙が流れる。

僕はポケットに手を突っ込んで鈍く光る銃を取り出した。その瞬間空気が凍りついてヒビが入っていくように緊張するのを感じた。横目で見た男たちは刀を抜こうとしていた。

なにも言わず静かに自分のこめかみへ押し付ける。

「弾は入っています。信じられないというのなら、シリンダーを確認してくださって構いません」

「なるほどこれは面白いガキがきたもんだねえ」

「私のような人間はここで死ぬのもこの先で死ぬのも同じことですから」

組長は僕を見据えると笑って手を叩いた。

「それが答えでいいんだな」

「覚悟なら出来ております」

「それは結構、お前自身の覚悟は見届けたよ。さあ、次は他人への覚悟も見せてもらおう」

組長が僕を連れて細い道を進んでいく。その後ろを何人ものやくざが殺気立った様子で歩いてくる。

地下室の扉は古く錆びついて、ドアノブをひねると金属の擦れる啜り泣きのような音がした。

頭では解っていたのに、声が出なかった。

裸同然の男がパイプ椅子に括り付けられている。もう何度も殴られたのだろう、顔や胴体は紫色の痣がひしめいているし、太ももは赤く腫れていた。腕は浅いものや深いものから切り傷と煙草の痕だらけだ。

「こいつを虫の息にしてやれ、自分の頭をあんな銃で吹っ飛ばすつもりだったなら出来るだろう……それとも全てがはったりだったか?」

「この男は、やくざですか」

「残念ながらカタギだね。ただひとつ、お前の迷いを薄める言葉をやろう……こいつは連続強姦の罪から逃れたくてうちの金庫から金を盗み出そうとした悪人さ」

得体の知れない興奮で身体が震える。自分を奮いたたせる為にあげた声は締まる喉のせいで潰れた。床に転がっていた長い釘を掴んで、太ももを3回続けざまに刺した。自分の荒い息が耳元で聞こえるようだった。

男の口を割り開いて鋭い金属をねじ込む。夢中で手を動かして引っ掻いていると勢い余って頬の表面から切っ先が覗いた。

「おっさん、いくら盗んだ?あんたはいくらで逃げるつもりだった?言えよ、穴が増えちまうぜ」

男は数回赤いあぶく混じりに呻いた。

「へえ、400万か。そんなはした金の為にここに来たのか?虫みてえな脳みそしてんのな。そこらのリーマンの家でも狙えばよかったのによ。それとも今更犯した相手に罪悪感でも覚えたのか?」

手が見えるように腕を移動させて、置いてあったペンチで指を横から挟みこんで軽く動かす。こうすると爪が肉から剥がれながらたわんで面白いのだ。

「見ろよおっさん、あんたの指だ」

目が限界まで見開かれて引き連れた苦悶の声があがる。ミシミシと拒む手応えは脳に甘くて、だからもっと欲しい。

「潰れちゃったあ……もう使えねえなこの指」

壁に立てかけてあった剪定狭を数回刃こぼれしそうなほど強く鳴らす。

「先っぽは潰しちまったからなあ、こっちは綺麗に切ってやるよ。大丈夫だって、見たところいい鋏だからそこまで痛くはしねえよ」

指を見せつけるように持ち上げて刃をそっと当てていく。力を入れると男のながい叫びに混じって肉がコンクリートを打つ音がした。

「三波、もういいぞ」

後ろから声がかかった。僕は認めてもらいたくて頑張っているのに、なんでそんなことを言うんだろうと思って、悲しくなったから振り返らずに握っていた鋏の刃を閉じて持ち替えた。

「おい三波……」

刺さった刃物を取ると待っていたように飛沫が音をあげて吹き出した。それをぼんやり浴びていると、視界の片方が真っ赤になってしまって、なんだか、世界は変容したふうに見えた。

「よくやったな、よく頑張った」

近寄ってきた若頭が労るように汚れた背中をさすりながら言った。

「しかし血塗れだな、奥に洗い場があるから顔だけでも洗ってきなさい」

流水に手をかざすと、あっという間に真っ赤になった。顔を上げると、片目が赤く染まっていて、落ちるのか少し心配になった。地下道の変な暗がりも相まって血に汚れた僕はスラムでもこの場所でも相応しくあれる気がした。


これを吸ったら出ようかな、といったところで見知らぬ男が喫煙所に駆け込んできた。ここにいたのは僕一人だけで、プラスチックの簡素な仕切り板の周りはというと電球が明るいものに変えられた街灯が申し訳程度に生えているくらいだ。

よほど走ったのか男は肩で息をしている。わたわたとスーツの上着に手を這わせて、ちょっと迷ってスラックスの尻ポケットからようやく取り出した煙草を咥えるも今度はライターがなにをしても点かないようで、悪態をついてそれを投げ捨てると男が急に僕のほうを向いた。差し出すように煙草の先をこっちに向けて。知らない奴にそんなことをする義理なんかなかったけれど、いい加減可哀想な気も少ししたから自分のライターで火を点けた。そして、すまんだかありがとうだか言おうと口を動かしはじめたその顔に、僕はたっぷりと吸い込んだ煙を吹きかけてやった。

そのまま吸い殻を捨てて立ち去ろうとしたところで、ようやく飛び掛かってきた男に血流が速くなる。このために生きている気さえした。壁に押し付けられたまま男を観察すると、体格はいいのだが案外背は同じくらいないことが解った。剃りあげられた頭皮は磨かれているのか照明を鈍く返している。大きく開く目は角膜自体が小さい瞳と相まって凶暴な、それでいて頭のいい獣を思わせた。迷いなく手を伸ばして目潰しでもしてやろうとすると頭を振って呆気なく避けられてしまった。すかさず足払いを仕掛けると、地面に倒れた男は呆然と宙を仰いでいた。身体を跨いで中腰になって視界を埋め尽くすように目を合わせる。まだ掴み掛かろうとしている掌が震えているのを時間をかけて見やってから、もう一度視線を合わせてとびきり屈辱を投げかけ笑ってみせた。

「舐めやがってこのガキ……売女の真似事か?それならちんこも捥いで金玉とケツの間に穴でもぶち抜いてみっともねえ形の女にしてやろうか?可愛らしいお顔は男にはもったいねえからな……ああそんなもんがなくても具合がいいって人かい?」

「ふうん、その穴にてめえの銃弾みたいなもん詰めてよがれってか?さっきのは意味なんてねえよ、あったとしても意趣返し……あぁそういえば昔人売りの男にも似たようなこと言われたなあ」

「おい人の話聞いてんのか!」

「聞いてるよぉ。僕のこと変な意味込めて女っつったら次はねぇけどさ、まあ仲良くしようぜ」

倒れている男に手を差し出したら、まず俺からどけ、と苦笑いされてしまった。名前を聞いたらニイヤマと言ったのでニイカタヤマノボレじゃん、と呟くと、なんなんだ?と聞き返された。さっきの煙の意味は解ったのに、教養はそんなにないらしい。

「三に波でミナミ、組には長いこと世話になってる、だけど番犬みたいなもんだからあんたの好きに呼んでいいよ。あ、でも女っつったら……そうだなぁ、殺してやるよ。構わねえだろ?新山」


柱にもたれる黒帽子の男は紙巻き煙草を咥え、火をつけた。深く吸い込み、たいして美味くもなさそうに煙を吐き出すと、うすい唇を引き上げて酷薄そうな笑みを浮かべる。

男はやくざにもマル暴にも、不法滞在の外国人にも顔がきく男は、そのツテを使ってまともな暮らしなど取り上げてしまい、自分の所で扱うと言っているのだ。

「ちょうどあんなふうな、外国の血が入ったようなのが欲しいんです。手足が長くて顔立ちも綺麗でしょう?ま、それを言うならあんただって上出来ですが……さすがは双子の兄弟といったところでしょうか、しかしあの目の色だけはねえお兄さん特有のもののようだ。弟のあんたじゃあ代わりは務められない」

その意図に気がつき、男を睨めつけてみてもお構いなしに言葉が続けられた。

「私らから見りゃあ、日本人離れしてるって思いますがね、よそから見ればあれでもちゃんと日本人なんだそうですよ。しかも特上のね。ただでさえ普通の日本人じゃ小さすぎる、目が細い、肌が黄色いと言って買い手の連中は文句が多いんだ。だからあの手の、日本人のくせに他の国の血が混ざったような容姿の子は、本当に引くてあまたなんです。そのうえ日本人は若く見えるってんで、まだほんの子どもなんだといえば、上増しして好事家から金が取れる。あんたもお兄さんもまだ若いから顔付きがあどけないし、おまけにそんな三波さん手ずからの仕込みときたら、言うことがない」

「兄貴に妙な言い方ばっかしやがって……いったい、どこに売りとばすつもりだ?」

男は笑って答えなかったが、外国相手であることは解り切っている。

この先に必ずある抗争に勝とうが負けようが、そんなことはどうだっていいらしく、男にとって親のない子など元手のいらぬ商品に過ぎず、仕入れて売り飛ばすには絶好の機会なのだろう。

これ以上話す気もなく、男を置いて立ち去ろうとした時だ。

「ねぇあんた、もし似た子を見かけたら、やくざのノータリンどもなんかじゃなくて、うちに一番にお願いしますよ……手付けと言っちゃなんですが、可愛い三波さんのあの子にどうぞ」

男の懐からとり出されたのは緑色の小さな瓶で、中には錠剤の影が覗く。それが何であるのかはすぐに見当がつき、ぐっと眉をひそめた。

「おやおや、あのあんたがずいぶんと怖い顔をなさるもんだ。モヒに比べりゃ可愛いもんでしょう?」

「必要ねえよ、そんなのがなくても十分だ」

「そりゃあまあ、お若いのはなによりだ……そうか、飼ってるのは山犬でしたね。せっかく純度が高いもんなのに、勿体ない」

薬は猫目錠とも呼ばれ、神経が昂って眠気がなくなり夜目が効くようになるというので、かつての戦時中には軍でも民間の工場でも重宝されていた。

それがこの今でも現実からの逃避や性交時の興奮、売春や荷役の疲労を誤魔化すために専ら使用されており、たとえ混ぜ物入りの偽物であったとしても売れ筋には間違いなかった。きっと抗争がはじまればまた相当な数が捌かれるだろう。

薬でもあるが中毒性が高く、それなしでは生きられなくなり廃人になる数のほうがずっと多かった。モルヒネと比べたとしても、どちらが健全という話ではない。

「あぁこれはしまった、順番を間違えましたね。まだ兄弟で出てきていた頃に、お兄さんへの本をあんたに預けたでしょう、その時に攫いでもして試しときゃよかったのか」

可笑しそうに男が言う。その顔を鋭く睨みつけると、今度こそ男は雑踏の中へと立ち去った。

「クソが……」

もっと強ければ、年を取っていれば、身体が大きければ……金があれば。

羨望は強く焦がれるほどに絶望へと色を変えてしまう。

此処ら一帯は寺にいた頃見せられていた仏教の六道絵巻を簡単に上回るような地獄だった。


「俺が死んだら殯を行ってほしい。あの寺でまだガキだった俺が九相図ばっか見てたのお前も知ってるだろ?覚えてるかなあ、俺が見てる絵を見て泣いてたんだよお前。それでも俺の背中から離れなくてなあ……大丈夫だ、俺がお前のこと見ててやるから、だからお前も俺を見ていてくれ。俺はお前のことを兄弟で家族で親友だと思ってる……それに俺たちはきっと地獄に行く、それならまた会えるから寂しいわけないさ」

横隔膜を破れそうなくらい震わせて、金さえあれば治る咳に蝕まれるようにして兄貴は死んでいった。その光景は最後の発作から時間にして60分ほどのものだけど、いつだって克明に思い出すことが出来る。その間も、泣き叫ぶガキの声や女の悲鳴がひっきりなしになっていた。薄雲に隠れて卑怯な朝が再び来ようとしていた。

殯のやり方も調べた。部屋に風呂があればまだ出来たかもしれないけれど、スラムのボロアパートは換気なんてクソの役にも立たないようなものしかなくて3つ隣の部屋の臭いが流れてくることだってあったし、風呂は共用だった。

双子で、軽く見たくらいでは気が付けないほど瓜ふたつだった兄貴の死はすなわち僕の死でもあった。

結果として、兄貴が願った形の葬式には出来なかったけれど、ささやかなものを開いた。その場所にはガキの自分を相手にしてくれた組の人もいたし、地べたを這っていた時の仲間もいた。病気勝ちで床に伏していることのほうが多かった兄貴の死を悼んでくれる人がたくさんいることがただ嬉しかった。しかしどこから聞きつけたのか黒帽子までいて、奴に対して終始警戒しっぱなしだった僕を指してあいつは番犬だなとあとになってからよくからかわれたものだった。

「お兄さんとのお別れにこれを」

渡されたのはやはり文庫本だった。

鞄の底に寝かせていたものを探って、男の胸に突き出した。

「あんたにこれ渡せって兄貴に言われてたんだ。もちろん中身は見てない。しかし葬式にまで乗り込んできちまうとはな、驚いたぜ。よく顔出せたもんだな。とっとと失せちまえ」

「谷崎の麒麟に乱歩の二癈人か……やはりいいな、あんたのお兄さんは……私もご遺体へ別れを告げても?」

静かに頷くと、男はいつまでも頬に手を当てて小さな声で名前のようななにかを繰り返していた。


墓地をどうしようか兄貴が亡くなってからずっと悩んでいた。共用墓地に埋められるようなツテなんてあるはずがなくて、だから時間を見つけては手頃な場所を探して歩いたけれど、結局穴を掘って山の崩れたような場所に埋めた。

昔本で見たように開いた傘を地面に突き刺して、鎌も同じようにした。これは骨に雨が染みないようにするのと、山犬……狼が墓を掘り返さないようにするためだった。記憶を辿りながらの作業の中、最後まで迷ったのが鎌の有無だった。狼が集まるならそれは兄貴にとっていいことだと思った。けれど日本に狼なんていないのは僕でも解っていた。僕と同じ野良犬なんかに荒らされるのはそれだけは嫌だった。

ジメジメと湿っぽい風が笑って、それを決して離さないように噛み付いた。二度と僕のこの顔を忘れないように。狼に寄り添ってきた野良犬に出来るのは狼の真似事くらいだ。


「あのチンピラのクソガキども……!」

自動ドアをくぐると、新山がきれいに剃られた坊主頭のてっぺんまで真っ赤にして憤っていた。足早に車へ向かうと、停めていた時より車高が下がっていて、視線を下げるとご丁寧にパンクさせられたタイヤがあった。4つ。

「こりゃあお前、日頃の行いが表れてんだ」

「言ってくれる……俺らくらい潔白な奴そうそういやしねぇよ」

困惑している様子が目に浮かぶディーラーに交換の電話をしながら、そそくさと移動した灰皿の前でまだ怒っている新山を眺めてから僕はさっきの彼の言葉を反芻して、バカじゃねえの、とこぼした。

「いいだろ。どうせ道にも迷ってたんだ。こんな事めったにねえんだからのんびり待とう」

「待つっていってもなあ……」

「なんでだよ、どう考えたっておあつらえ向きだろ?」

ほら、とコンビニを指差してやれば新山はあからさまにうんざりとした。失礼な奴め。ダメ押しにウインクをしてやればさらにげっそりとする厳つい男が、なにも知らなかった僕にはとても面白かった。

「冷たいもん食いてえな」

「無駄遣いするな」

「ちまくせえな貧乏人」

「お前よりは蓄えはあるさ」

などとのたまったとおり結局アイスは買ったし、その新山はレジ横でアイスコーヒーを淹れていた。こいつはちゃっかりしたところがある。

いつもより沈む車内で水色の包装をペリペリと剥した。味の濃いアイスもうまいけれど、照り付けるような夏の日はこういうもののほうが性に合った。

「僕15までアイスって食べたことなかったんだよね」

「嘘だろ……どうやって夏を乗りきってきたんだお前は」

「つうかコンビニもよく解ってなくてさ、自動ドアも意味解かんなくて慣れるまでずっと威嚇してたよ」

しばらく黙っていた新山はこらえきれない笑いをくつくつとこぼしながら、やっぱ野良犬だわ、と嫌に晴れやかな顔をした。

替えたばかりのタイヤがすり減るくらいかなりの距離を走った分、やはりというべきか立派な庭に目を取られながら先方の門をくぐった。

名刺を交換する時になんとなく盗み見た新山の名前はシンプルな形をしていて、ふうんとため息が出そうになった。自分の名前は字がごちゃごちゃしている上に音の響きも悪いから出来るだけ呼ばれたくなかった。渡した名刺をちらと見て、指先でなぞりながら先方は口を開いた。

「この名前……変わった宛て方だね。きみ、親は?」

「物心ついた時には、兄と寺で過ごしておりました」

「そうかそうか、ということはこれがどういう意味なのかを知る人はいないわけだ」

「……そんな深い意味はないと思います。漢字自体はありふれたものですから」

謙遜と本音が入り交じって変なマーブルになりながら胸に落ちてくる。

「へえ、三波お前けっこう爽やかな名前してたんだな」

俺の名刺見るか?やるよ、と押し付けるように渡された紙は厚みがあって、ざらりとした手触りはあるが上質なものだった。活版印刷された字は指でなぞると独特な感触だった。貰った紙切れをスーツの内にしまいながら、さっき見た意味なかったな、とひとり思った。

その後も話は順調に進んで、最終的にはちょっと歪な丸くらいに収まった。犬のおつかいにしては上出来だろう、と少し誇らしくもあった。


雑踏で呼び止められて振り向くと、そこに立っていたのはひょろりとしてすべてが細長く出来た黒帽子の男だった。

ずいぶんと趣向が変わったのか、山高帽は相変わらずだったが黒い鳶コートを引っ掛けた格好から長い腕が動く度に、灰色に薄いチェックのあしらわれたクラシカルなスーツの生地が見えた。細いスラックスは縦にクリースがあるだけで皺は見当たらなかった。程よく脂を吸った革靴は重厚そうに光っている。昭和の文筆家のような身なりは上背もあってどことなく紳士を思わせた。

連れられて入った団子屋は幕末から続くという老舗で、そんな店に自分みたいな人間がこの上等だけどカタギとの判別が難しい男と一緒にいるのはとても居心地が悪くて、逃げ出してしまいたかった。

「ところであんたは大丈夫なんですか、あんなにご執心だったお兄さんも死んで、正式にやくざの門までくぐって」

「兄貴がいなくなったから今度は僕のこと心配してんのか?気色悪いな、とっとと失せろ」

「まさか、どれほど似ていたって私が焦がれていたのはお兄さんという人ひとりですよ。見間違えようもない。聡明な子だったなあ、ちょっと本を与えればたちまちに私好みの気品も身につけてしまった、そしてあの苛烈に輝いていたうつくしい目……まさに手負いの狼だった。どうして火葬なんてしてしまったんです。取り出してしまえば、どうにかなったかもしれないのに」

悔しげな口調で語って、無表情のままぽろぽろと涙をこぼす男は強情な子供のようでもあった。

「ではさようなら、三波さん。もうすぐ争いがあるでしょう。私はあと少ししたら最低でも3年は国外へ出ますので、もう無闇にあんたを苛立たせることもないでしょう」

「苛立たせてる自覚あったんならもう少しましな態度取れなかったのか?」

「あなたのお兄さん……夕生さんにならきっと取れていたでしょうな、いやあの目を前にするのか、じゃあどうだろう」

男はぶつぶつと何事かを、ひと通り唸って一人で納得したように人好きのしない笑顔を浮かべた。

「三波さん、私のこの帽子を覚えておいてください。絶対に、ですよ。またお目見えする時には必ずやあなたを驚かせてみせましょう」

「どこに行く気だ」

「さあ……どこが似合いますか?とってもきれいな石の採れるところですよ、この国は美しくないものが多すぎるし、あんたのお兄さんの目に見合う宝石なんてどこにあるのやら……ま、私はほっつき歩きますよ。せっかく自分に時間を使えるのでね」

言い終えると男はすっきりとした表情で人目もはばからず机に緑色の小瓶を置いて、伝票を掻っさらって行ってしまった。


その日もまたお使いだった。ただ前とはちがい話をしている内に盛り上がり、あれよあれよという間に酒の席となった。

「おいヘバんってんなよ新山ぁ」

視界がぐらぐらする。変な薬でも混ぜられたに違いない。ただでさえ色んな薬をちゃんぽんさせられて何がなんだか解らなくなっているというのに。

席を立った新山に絡むふりをして耳打ちをした。逃げるぞの合図だ。

山間の夜更けの車道は車の気配はひとつもなかった。ガードレールぎりぎりに停車した新山は少し虚ろな目を泳がせてシートベルトを外した。お前も降りろと言うように顎を動かして、いつもより荒っぽくドアを閉めた。伝うように車を降りて、よろけそうになる脚で必死に近づくと、男はいきなりこちらを振り返った。

ひどく獰猛な瞳が僕を射抜こうとしていた。

新山の拳が顔面ど真ん中に入った。視界にはちらちらと光が散って受け身を取る余裕もなく倒れた。息を荒くさせた新山は僕に馬乗りになると顔から喉から殴って、肘をみぞおちに決められた瞬間胃が収縮してそのまま中身を吐いた。食道にまで落ちた鼻血と混ざった吐瀉物は例えようのない味で、あらかた吐き終わるまで新山はなにが楽しいのか手を加えずずっと見ていた。

「新山、てめえも吐け……ちょっとは楽に、なる……」

「すまん三波、この先どんな頼みでも聞いてやるから……もう少しだけ我慢してくれるか?」

言い切ると同時に鼻先が湿って、硬いものが肉に食い込む激痛がした。一回身体の角度を変えて歯を当て直して、噛まれるのはそのままに今度は首も締められた。的確に、出来るだけすぐ落とすような手つきは馬鹿力と合わさって生理的な涙が浮かんだ。くるりと目が上を向いて、反射で舌を前に突き出してしまう。

きっと、思うつぼだ。

頸動脈を抑える指先がいたずらのように押したり引いたりを繰り返す。弛緩した脳が再び動こうともがくのは微弱な快感に等しかった。鼻を塞ぐように噛みつかれて、そのままぢゅうと吸われる。血としょっぱい粘液を無理やり引き出されるのは単純に気持ちが悪かった。舌が何度も穴に捩じ入ろうとしてくるからろくに呼吸が出来ない。こんなところでも補整はされている車道の奥、おそらく自分たちが寝ている側の方向へ走ってくるのだろう車の音が確実に鳴っていた。

動きが鈍い腕に力を入れて胸を押し返してみれば、案外素直に身体が剥がれた。

「おい車来てるから離れるぞ」

「まあ待てって、車線が違うかもだろ。それにこれだけ空いてるし、大丈夫だ、避けてくれるから轢かれたりはしない」

「てめえふざけてんのか!カタギに迷惑かける気か!」

震える手で上体を起こしながらそう浴びせると新山はぴくりと動いてから固まった。

「それもそうだな、だがな三波……」

「なんだよ」

「俺に迷惑かけるのはいいのか?」

じっとりとした視線があって、負けじと睨み返せば鼻で笑われる。もしかするとこいつはとんでもない量を飲んでしまったのかもしれない。いや、それにしたって。

「これはな、いわば仕返しだよ。笑っていいぜ、俺自身ガキくせえと思ってる。でもな、やられっぱなしってのは俺の性には合わないのさ」

「おい新山……?お前、なんの話して」

「はじめましての時はまあずいぶんと一方的にかわいがってくれたじゃねえかよ、忘れたのか……お前を殺すまで俺は地獄には行けやしねえなくらいはてめえのこと認めてやってるってことさ……このガキ」

言葉の端々に滲む怒気が舐めるみたいに脊髄を伝い落ちて行き場をなくしたそれが興奮に置き換わっていく感覚は何度味わっても格別だ。その快楽を生み出してくれているのがこの獣の目を持った相棒のような男だなんて、これはなんという喜びだろう!

溶け落ちるようにゆらりと身を低くしていった次に僕が見たのは新山とその頭越しの月で、タックルされたのかと理解するのは背中と腰に走った痛みからだった。

「またこれかよぉ……知らねえのか、マンネリはどんな奴にでも飽きられるぞ?」

こんな軽口に簡単に苛立った新山は黙れ、と唸った。

「見下される気分はどうだ?」

「買ったオネーチャンをどうこうするのは性に合わねえからなあ……ご無沙汰なわけよ。女じゃなくても勃っちまいそうだ、てめえが相手で助かったが……しかしこいつは絶景だねえ」

へらへらと軽薄に下衆た笑みを向けて、煽れば当てられる男がただ面白い。無様を晒しているのも別に構わないような気がして、広げた手で轡を嵌めるように口を塞がれたまま拳を沈められると、湿った声が出口をなくして重く彷徨う。口の中が切れて血で詰まった喉を開くように動かして、溜め込んだ鉄臭いものを引き寄せた顔面にぶちまけて笑った。

「天然ものの赤ずきんじゃねえか、かわいいぜ新山」

いくらか動けるようになった身体を起こしてみると、無骨な手が胸ぐらに食らいつき綺麗な頭部がゆらいだ。頭突きでもされるのかと身構えていると、新山は長く息をついたあと、もう大丈夫だ、と絞り出した。

「あはっ上出来だねえ」

「すまんな三波、もっといたぶってやりたかったが時間切れだ」


汚れを落とすために、近場の沢で身体を洗うことにした。

「なんでこんなことになっちまったかなあ……」

嫌味をたっぷり込めて吐き出せば新山が目を逸らすように動いた。

「いや、あれはすまないと思ってるが、ただその、薬が」

「てめえなんつう面してやがんだよ。それに当てられちまってたのは僕もだしな」

軽口を叩きながら脱いだ服を濡れないように置いた。水を浴びる様子もなく、新山は僕のほうを見ていた。

「さらしなんて巻いてたのか」

「ゲン担ぎは嫌いじゃないってだけだ」

「ずいぶんと長いなそれ、お前の腸より長いんじゃねえか?」

「距離を詰められると弱いからね、その腹を守るためだ」

まあそれは確かにそうなのか、と続けようとするのを無視して手を掴むとそのまま沢へ飛び込んだ。

新山が冷てえ!と声をあげる。

「夏なんだからいいじゃねえか」

顔を浸けると顔に固まっていた血やまだ流れている鼻血がもやになって溶け出した。

「おい場合によったら環境汚染になるぞそれ」

真面目くさった声が背中にかかり顔をあげれば新山は神妙な面持ちだった。

「え……そうなの?でもこれは血だし」

「嘘、嘘、あるわけねえよバーカ」

ばしゃりと水を引っ掛けながら新山は快活に笑ってこちらに背を向けた。シャツが透けて、その奥へ浮かび上がるように刺青が見えた。

「ずいぶんと様になってんのな、いつ入れたんだ」

「なにが」

「背中、シャツ濡れて張り付いてる」

そこには菩薩像が刻まれており、印の結び方や半分だけ胡座をかいたような座り方などから難しい名前のついた弥勒菩薩と思われた。そして背中一面を埋めるように文字がびっしりと入れられているのも目を引いた。漢字ばかりだから経か漢文だろうか。

「その字はどんな意味なんだ?」

問い掛けると新山はこちらを振り向いて不穏に目を細めた。

「意味ねえ……俺が仏様を信じるようなやつに見えるか?」

「それもそうだなあ、よくて破戒僧ってとこだ」

僕はもう一度顔を洗った。脱いだ時に落ちたのか新山の名刺が上着のそばに落ちている。

「新山さあ、あの名刺どこで刷ったんだよ」

「ん?名刺?」

「刷り方が変わってたし、紙も違ったから印象に残ってんだ。僕も今のなくなったらあれにしてえんだよ、渋いから」

新山がひとつ頷いてから、あれなあ、と呟いた。

「走り込みをしてた時にな、ちょっとルートを変えてみたら小さい工房を見つけて、日を改めて入ったんだよ。大正生まれのじいさんとその孫がやってる印刷所でね、深いインクの匂いがしていた。特にじいさんはすごくてなあ、身体の動きは流石に鈍っちまってたが指の感覚だけで活字版の素材まで解るんだからすごかったよ。組版から印字はお孫さんの作業みたいだ。明治の頃の手フートを動かしているのはちょっと感動したな」

嬉しそうに喋る新山はぱしゃ、と水面を蹴って表情を曇らせた。

「でもな、俺みたいな客がいくら頼んだところでたかが知れてる。いや、もしかするとそれよりも酷いことをしているかもしれない。自分からしたくせに迷ってるんだ、情けねえよな。俺たちは顔を覚えてもらうのが商売だ、名刺だってばら撒いたって足りねえくらいだ……そいつらの何人が俺なんかの名刺を持ってるかは解らねえ」

「広告塔になろうってか、傲慢なとこあるんだな」

仕返しではないが弱気なところを見せる男を突いてみれば殊勝に笑った。

「そいつらはお前のもんじゃねえだろうが、気楽にやろうぜ。脇見してる暇なんかなくなるくらいにな」

「……俺は自分に守れるものを守れる人間でありたいんだよ、こんな身空でもな。それは変わらない」

「はいはい解ったよ……ならお前はお前を守れるようになれ」

守りたいって言う奴は身の程知らずが多くてな、だいたいすぐくたばるんだ。

言いながら、僕は脳裏に兄貴の最後を浮かべていた。

「全部捨てられるようになったら僕が手を打ってやるさ。それより、さらし巻くの手伝ってくれよ」

「はあ?自分でも巻けるだろ」

「こういうのは信用出来る仲間に巻いてもらうのがいいんだとさ、丁度水で濡らしておいたから斬られたって平気だぜ」

「解ったよ、時が来たら俺が斬って試してやるさ」

きつく巻くには自分一人では限度があった。どうしても緩むところが出てきてしまうのだ。力加減もそうだった。他人に頼むと、内臓が変形するんじゃないかというぐらいに締められる。だがそれくらい強く巻かないと意味がないのだ。

「ところでよぉ、あんな古い銃どうしたんだ?組の支給なわけねえだろ」

「……ガキの頃にどっかの組同士で抗争あっただろ。その時に着れる服と金目のもんがねえか死体漁ってたら拾った。でも壊れてたから兄貴に直してもらったんだ」

「ガキの頃からほんとに野良犬だったんだなあ、三波っておもしれえよ」


車体の揺れで仮眠から目覚めた。遠くの山から朝日が昇ろうとしている。法定速度を20キロ上回る速さで通り過ぎていく風景の中には靄のような街灯と、それから自販機がいくつかあったけれど、こんな山道で立ち止まって買う人がどれだけいるのだろうと思った。

まだ路上にいた頃の話だ。僕よりずっと小さいガキがサラリーマンが自販機から落とした小銭を拾おうとして、勘違いした酔っ払いはそいつを死ぬまで踏み付けた。肉がこびりつきでもしたのか、今でもそこからはそいつのにおいがする。

まだ元気だった兄貴と仲間で花束を添えた。金を出し合って買った花と、その他は積んだ花だからちぐはぐだったのを覚えている。煙草の吸い殻にすら人が群がるこの場所では、すぐに荒らされるのは目に見えていたからその場で燃やした。遠い記憶に兄貴の葬式の風景が重なって揺れる。赤い花の香りと濃い紫の線香の匂い。それは疑いようもないほど真っ直ぐな死の匂いだから僕は目を細めて幻を受け入れた。

事の始まりから死の瞬間まで、僕は息を殺して見ていた。目を離せなかったというほうが近いのかもしれない。湧き上がる情景を目を閉じて振り切る。背中を汗がひどく伝っていく。つけっぱなしのステレオからは相変わらず知らない音楽が流れている。ホルダーにさしたまま放置されたアイスコーヒーを奪う。ぬるいというよりもはや熱かったけどないよりはましだ。DJの軽口が耳元で空回っている。

「新山」

「なんだ」

「次自販機見つけたら止まってくれ」

新山は、ああ、と言っていた。窓の外を眺めていた僕にはその表情なんて知れるはずもなかった。

明かりのそばに車が停められる。新山が降りたあとに一息ついてから僕も降りる。通り抜ける風が涼しい。

「変なもん多いな、メーカーのせいか?あーこれ、関西のやつか。こんなとこにもあったんだな。ナタデココドリンクとかあるぞ」

「僕それ買おうかな」

まだ寺にいた頃、爺さんが気まぐれで買い与えてくれたものだった。水か緑茶ばかりだった僕らにはとても珍しかったことを覚えている。

「買ってこいよ」

新山は煙草に火を点けながら言った。

小銭を入れてボタンを押すとガタガタと音を立てて受取口に落ちてきた缶は変わらず冷たかったけれど、成長した身にはとても小さく見えた。よく振ってプルタブを起こす。懐かしい匂いがして、導かれるままに口にすると、特にうまくもない味が広がった。

「水っぽいなこれ」

「お前が買うっていったんだろ」

「うるせえな。思い出に騙されたんだよ」

もう一口飲んでも、やっぱり水臭く薄い味のままだった。

路上にいた頃なんだけどさ、と僕が口を開くと新山がこちらを向く気配がした。

「5歳くらいのガキが自販機の前で殺されたんだよ。僕、それずっと見ててさ、なんか自販機見るたびにあいつがそこで潰れてるような気になるんだ」

「繊細なんだな」

「お前も人のこと言えねえだろ」

地面にしゃがみこんで、煙草を取り出して火を点ける。メンソールの飛んだそれを吸い込みながら地面を漁る。

「なにやってんだ」

頭上から新山の声が降ってくる。やっと見つけた小さな花を僕は千切った。

「情に厚い奴は死ぬぜ」

「僕が優しくするのは認めてる奴らくらいさ」

すみれを置く。煙草が風に燃える。

「お前こそ仏を信じなさそうなのにな」

「だって仏は信じるよりも思ったりするものだろ?」

行こうぜ、ありがとな。

中身の残った缶を置いて、二人で車に戻った。


袖の余ったシャツに袖を通し、ぶかぶかのスラックスを履く。試しに軽く走ってみると裾を踏んで転びそうになったので安全ピンで詰めた。

兄貴が咳込みながら、なかなか様になってるな、と言った。

「お前がそんなことする必要ないんだぞ」

「そんなこと言ってられないだろ」

「悪いな、俺がするべきなのに」

「大丈夫だって、無理だったら奴ら殺してきて、兄さんと一緒にくたばってやるよ」

やくざの組の門を叩いたのは、とにかく金がほしいからだった。それから辺りで僕のような汚いガキを雇ってくれるような店はなかったからだ。はたして相手にしてもらえるのか、懸念はあったがせいぜい無視されるか可愛がられるか、どちらも五分五分ってとこだった。

「おうガキ、大人の真似してなんの用だ」

見張り役のひょろりと痩せた男がポケットに手を突っ込んだまま屈んだ。

「金がいるんです、働かせてください」

言い切らない内に首根っこを捕まえられ身体が宙に浮いた。暴れて心象を悪くしてもいいことはないと考えたから、だらりと手足から力を抜いた。

「ここは小遣い稼ぎの場所じゃねえぞ?解ってんのか」

「他に稼げる場所は全て回りました」

後ろから人の気配がして、振り返るよりも早く声が掛かったら。

「おい、なにしてる」

「兄貴すみません、このガキが前うろついてたんで」

「うろついてただけでそんな風に持つのか貴様は」

男は不服そうに謝りながら僕をおろした。

「お前、スラムのガキだろう。服はどうした?サイズはでかいがそこそこ綺麗じゃねえか」

ゆっくりとしゃがまれ爬虫類のような目が合わさる。気圧されたら負けだ。

「これは、4年前の抗争の時にやくざの死体から剥ぎました」

「なるほど面白えな……しかし俺の一存でどうこうなるもんじゃねえ、お偉方にも合わせてやるよ。ついてこい」

門をくぐると、大きい掛け軸の前に刀が置いてあった。なにもかもが物珍しくて見ていると、あまりきょろきょろするな、とたしなめられた。

「おいそんなガキつれてどうした?お前の隠し子かなにかか?」

ダブルのスーツを着たガタイのいい男が豪快に笑った。

「まさか、相手がおりませんよ。こいつはね、さっき拾ったんです」

「拾ったあ?なんか芸でも持ってんのかその犬は」

暗に野良犬と呼ばれたことに無意識に奥歯を噛みしめる。肩に入りそうになった力をなんとか沈めた。

「4年前にうちと日高で揉め事があったでしょう……このシャツ、あなたならなにか思い出しませんか?」

暫く怪訝な顔をしていたスーツが、急に僕の胸ぐらを思い切り掴むとまじまじとシャツに見入りだした。

「フジのシャツだ……間違いねえ、出来上がった時に一番に俺に見せてくれた」

「こいつはねえ、働き口を探すために死んだやくざから服を剥いでそれを持ってたんですよ。ま、少々大きいですが」

男が最後のひと押しとばかりに、どうしますか、兄さん、と耳打ちした。

「責任は俺が取る。組への立ち入りを許可しよう。しかし、罪になる働きはさせられねえから、お前の取り分も少なくなる」

スーツは電卓を叩いて僕に差し出した。

「はじめのうちはこれくらいだ。それでもいいのか?」

見たこともない数字に、僕は二つ返事で頷いた。

この犬は返事がいいな、それに愛嬌もあるみたいだ、と二人は笑った。


暴力が僕をジィッと見下ろしていた。

腫れ上がった気道を粘性の高い、熱い血が塞ごうとする。振り下ろされた拳の反動で、どうにか通るようになった新鮮な酸素は肺を蹂躙するかのようでその感覚にひどく噎せた。

「おい舌出せ犬っころ」

言われたことへ従う前に手を突っ込まれ引き出される。

「マッチはこうすりゃ消えるらしいからな……これからは灰皿役でもするか?」

煙草が3本舌へと押し付けられ、叫ぼうにも声が出せない反動で弓なりに身体が反った。そのまま少し痙攣していると、足元のほうで銃を向けてくる奴がいたけど、他の奴らに抑え込まれていた。きっとそれで撃つくらいなら硬いもので殴ったほうがマシなような粗悪品なんだろう。どうでもいいからはやく終われ。久方ぶりの狂宴に上も下も関係なく騒いでいて、歯止めなどとうにきかないのだろう。

「三波い、目開いてよく見とけよ」

小気味いい音でもするのかと思っていた部位から鈍い音がして、僕は唾を飛ばして呻いた。

ご機嫌ななめの上の連中に水をひっくり返しただけこの盛り上がりなんだから、つくづくおめでたい連中だと思う。僕がここで働いているのはなにも崇高な理念があるわけじゃなくて、ただ兄貴の分まで食わせてもらったその恩返しをしているだけだ。

動かないのに感覚だけがしぶとく生きて、痺れている先に針がめり込んでくる。本能が昂って脂汗が吹き出す。ぬちぬちと尖端が動くたびに触られた神経がびくりと飛び上がる。長く息を吐いている時を狙って一気に底まで埋められて、奥歯の隙間から潰した声で喘ぐ度に唾液が顎を伝った。内側から撫であげるように抜かれて、掠れて上擦った声が糸を引く。

「さすがの綺麗なお顔も台無しだなあ、可愛い三波ちゃんに免じて指一本で勘弁してやるよ」

根本まで刺さった針をテコの要領で動かされ背骨が軋む獣じみた呻きが漏れてコンクリートの色を濃くさせた。

この宴がお遊びなのは解りきっていて、ということはいくら犬とはいえこの身体が物理的に欠けることはない。つまり僕はちょうどいいダシに使われたのだ。

余韻が抜けず肩で息をする僕の視界にまた一足革靴が並んだ。

「使えん犬を拾った覚えはないんだがな。おれが躾直してやろうか、三波」

「……それはそれはどうもご冗談を」

「冗談じゃないさ、本当にまた一から躾てやろうかと言ってるんだよ……てめえみたいな野良犬に再教育の機会を作ってやろうってそう言ってるんだ。泣いて感謝されてもいいくらいだ、そう思わないか?」

じりじりと角度を変え、身体をずらし、一気に蹴りを入れる。見事に当たってしまったようで靴越しからも柔らかい肉塊の感触がした。これで一応は形勢逆転といったところだ。

「野良犬を前に急所を晒すからでしょう……私のような犬畜生に見下される気分はどうですか?」

口を動かすのはやめず執拗にいたぶってやれば泣き言を吐いてくるのだから面白い。もう少し強く踏みこんでやろうと靴先に体重を乗せた時、喉を半端に潰した声がして音の先に目をやろうとする前に朱の赤が遠く散っていた。


奇妙な抗争の幕開けは唐突だった。


外に出ると駐車場のあたりは火の海で、そこここから爆発音が聞こえてくる。大事をとって外れに停めている車に中途半端に乗り込んで、忌々しい小瓶からころりと出てきた錠剤を紙に包んでグリップで何度も殴る。硬い感触がなくなった頃に包みを揺らすとさらさらと粉末の擦れる音がした。紙を開いてシリンジに入れる。興奮からくる震えではらはらとこぼれ落ちてスラックスについた。

シリンジを唾で満たして、軽く振って溶かそうとしたけど分量が合わなかったからか小片がぽつぽつと中に沈んでいた。さっきまでのいたぶりで血も混じってしまったけど、もともとあった場所に押し戻すだけだから、きっと大丈夫だ。

深く息をついていると車体が揺れて、横を向くと新山がいた。

「邪魔すんな、今……気合い入れてんだよ」

「これは、猫目錠か……残りもう俺が貰うぜ」

「新山、最後かもしれねえからお前にある言葉を送ってやる……ニイタカヤマノボレ」

「だからどういう意味だよ」

薄いガラスで出来た注射器が手から滑り落ちて軽い音を立ててアスファルトに斑を作る。新山が助手席で伸びをした。サイドミラーには濡れた髪を乱した男が、底冷えする目で写っていた。

「……また会おうぜってことさ」


車を飛び出すと、夕立ちを灼いたアスファルトから立ち昇る空気が蒸れていて不快だった。キャバレーの厚い扉を蹴破って標的に銃を向けて打ち込む。顔に命中させて、脅しに腹にもう一発入れてやろうとして手が震えて胸に当たった。声帯が磨り減る勢いで威嚇する。後先を考えたやつから死んでいくのがこの世界の殺り合いだ。

「長橋のふぬけの飼い犬めが!締め殺したろうか!」

「日高の猿が抜かしやがる、てめえら犬囲う庭もねえんだからな!」

抜き身の日本刀がピンクの照明を受けているのは滑稽だった。距離は開いている、だが油断は出来ない、殺気の匂いがして手近な椅子を振り返る動きに合わせて振ればヒトに当たる手応えがした。

「まじで犬に近づいてんのかなあ」

横に倒れている男のみぞおちに革靴の先端をめり込ませて体力を削ってやった。頭を踏みつけてしゃがんで覗きこむ。意識はまだ残っている。

「てめえは緩いのとキツいのどっちが好きだ?」

少し年上に見える若い男は質問に答えず、僕の顔に血の混じった唾を吐きかけた。

「答えねえなら勝手に決めちまうぞ」

目の周りをくるくるとマッサージをするように指を動かして、眼球へと触れる。湿り気の奥に確かな弾力と手応えが荒れた指先にあたたかく鮮やかだ。

「あんたは入り口がキツくて、奥は緩くて柔らかいのが好みだ、そうだろ?」

指を奥に進めていく。はぜる感覚が顔を歪めていく。指に絡み付く生ぬるい感触が気持ちいい。くちゃ、と音を立てて派手にかき混ぜれば、男は喉の奥から変な音を漏らしていた。

「ビンゴ、入り口はキツいのに奥は緩いし柔らけえや」

そのまま数分遊んでから指を引き抜くとぬったりと粘ついた糸が引かれた。まとわりついた組織を舌でしゃぶりながら立ち上がると、刀の切っ先が視界の隅に入った。

「きゃんきゃんよう吠えてかわいらしい犬っころじゃなあ、なますにして出てきたモツに突っ込んだろうかクソガキ」

「クソガキは勘弁しろよ、これでももうアラサーだぜ?」

「わしから見りゃまだまだクソガキだよ」

「それならじじいはもうおねむの時間だな」

角度と立ち方、手元を盗み見てから、宥めるように刀身を撫でた。隙がないのだ。

「野良犬が触っていい代物じゃないぞ」

「悪いがちゃんばらしか経験がないもんでね……満足させてやれる自信はねえがいいなぁ!?」

「吠える犬はなんとやらだな」

丁度ドアノブを捻るような手つきで刀身が回転しながら引かれていく。

心の中で冷や汗を噴き出しながら、身をよじって二撃目に備えた。銃のない片手を伸ばして手先に当たったものを引き寄せた。かなり分厚いが角瓶は確か耐えられたか……

「ゴミを離せ坊主、刀に無駄なものを斬らせるな」

「……あくまで狙いは僕か」

「楽しいだろう?命を差し出すというのは」

測るように刀を水平にして、男は一歩下がった。

来る、と怯んだ瞬間に胸とさらしが傷付いて痛みはないのにシャツに浮いた染みがどんどん大きくなっていった。

「じいさん、あんたいつ生まれ?今は幕末でもねえしここも京都じゃねえっての、成仏してくれよ亡霊が」

「教養のあるガキもいるんだな」

「……本が好きなだけさ」

「次はないぞ坊主、知らぬ内に天へ送ってやる。しかしこんなところでは貴様も動けないだろう、広い場所へ移るぞ」

ホールへ歩いて間合いを作って向かい合う。今度こそ気圧されてはいけない。二度目はないのだ。右手で高く掲げるように持たれた日本刀に自分の血が伝っている。落下するような寒気と、死の匂いがした。自分の匂いを知ってしまった。

「坊主、生きておればやり直せる。もちろんこれもな。この先再び会ったのならそれが運命なのだろう。それにお前を殺す理由はわし個人にない」

「そうだな」

だらりと腕が下がる。冷たい泥濘へ沈んでいくようだった。兄貴の最期が浮かぶ。最初は水を飲むといって噎せて、それからだ。それからはじまったんだった。何度も咳き込んでいく内に咳の音が変わった。覆った手指の隙間から血が出てきて、僕は役立たずだから叫ぶしか出来なかった。口の中に溜まる血を出すために、兄貴の身体を横にした。喘鳴の音がだんだん変になってしまって、僕は少しでも吸い出そうと頑張ったけれど、叶わなかった。血の赤は暗い部屋の中でも明るくて鮮やかで、だから忘れられない。

兄貴に会いたいな、ああ、でも、それなら。

「悪いが天国には行けない……僕は地獄に待たせてる人がいるから」

ゆらあ、と力の抜けた腕をあげてもう一度構える。きっともう、迷いはない。

「だからじいさんの一番を出してくれ」

「言うな坊主……待ち人とは会えぬよう天へ送ってあげるさ」

再び剣が高く上がる。すーっと細く息を吸う音がして止まる。

「避けろよ坊主」

異様な気迫が身体を包んで、鼓膜を揺さぶる叫びはどんなやくざの怒号とも違う凄まじい声は離れているはずの顔にまで唾を散らした。

これがあのニの太刀を捨てた型ならば……避けるべきだろうか。

全ての動きが1拍止まる。刹那圧しつける空気の流れを感じて後方に跳んだ。浮力で遅れた腕から血が吹き出すよりも速く斜め下にある切っ先がくるりと上を向く。おい、待て、まさか。

「本に二撃目のことは書いてあったか?」

真新しい切り口を焼かれているような激痛に息を詰める。少し下がると丸くなった背中が壁に当たってそのままずるりと座り込んだ。

「おかしいな、なぜ死なないんだ坊主」

荒い呼吸が止まらない。肺が大きく膨らんで肋骨が広がるたびに傷口が波打って声が漏れる。きれいに裂けたスーツの内側から、銃を抜き取る。

「これのおかげだ。こんな古いやつ一丁で殺り合うほどバカじゃないんでね……それからこのゴミも守ってくれたぜ」

念には念をって言うだろ、僕はなかなかゴミを捨てられないたちでね。

シャツに手を入れて角瓶を取り出すとそれは軌道通りに切れていた。

「なんだ、こいつはしてやられたな」

「しかしあんたさっきのは示現流ってやつだろ?幕末志士か壬生狼かどっちかにしてくれよ」

「習ったものではない、すべて我流だ」

「じいさん、また会ったら剣術教えてくれ。相当な業物に空き瓶を切らせちまったんだ……これでも羽振りはいいほうだからな、その時までくたばってくれるなよ。じゃあ僕はもう行くよ」


車のあった場所を念のために見に行くと、形はなく、もうどこかへ行ってしまったあとだった。

さあどうしようと歩き出した時だ。

「おい!あいつ三波だ!長橋んとこの飼い犬だ!」

「僕は野良犬だっつうの……ゴミ処理だ!まとめて殺してやらあポリ公のクソったれどもが!」

「ゴミはてめえじゃボンクラぁ!」

取り囲もうとしているが数は三人……切り抜けられると判断して裏道へ続く道路を全力で走った。

奴らが追い付いた頃には体制が変えられ二人が発砲などの攻撃をしかけ、その隙をついて残った一人が抑えるというものになっていた。定石もいいとこだ。完全に舐められている状況に一番面白い覆し方を考えながら、僕は威嚇するように怒号をあげてそのまま踵を返し植込みへ突っ込んだ。発砲音も構わずに走る。右に回って、小高い丘を登る。この方角の丁度反対側は、度重なる土砂崩れと雨に削られて頂上から切り立った斜面になっている。条件が違うとはいえ。駆け下りるのはいつ振りだろうか。

警察の背中がちらちらと見えたが、おりないと弾は当たらないだろう。

僕は身を低くした。

「おい!後ろっ!三波だ!」

一番ののろまへと飛び掛ってヘッドロックで抑えて撃ち、腕が下がるのをそのままに腿から脛に入れる。

「よお、よく出来てんだろ野良犬は脚を噛むのが得意なのさ。解ったら邪魔すんなクソ野郎」

男二人の呻き声が畜生の賛美歌を作った。

「これで動けねえなあマル暴んとこのおまわりさんよ。手も撃ち抜いて標本にしてやろうか」

鈍い動きで掴もうとしている拳銃を藪へ蹴り飛ばして、僕は高いところを探した。


背の低い廃ビルの屋上へ続く階段を登り切ると、見えた満月は膨張しているように大きくて縁が泣いて擦りすぎたあとの目尻のように赤みがかっている。それの端は欠けていて、笑いが浮かぶのをもう抑えきれない。下の世界ではたくさんのサイレンと、怒号と泣き声が混ざり合ってそれはもう狂乱のハーモニーを奏でていた。

「よう、会いたかったぜ新山」

「俺もさ……どこほっつき歩いてやがったんだ、三波い」

「悪いなちょっと首輪が取れちまってはしゃいでたんだ、久々の自由だ、楽しいなあ」

「こうなっちまったからには心置きなく野良同士で殺り合えるじゃねえか、最高の気分だ……お前もそうだろ三波」

懐に手を入れて、右手に持ったもう撃ち尽くした銃を宙に投げ捨て、ゆっくりと持ち替える。

新山の瞳がきゅっと引き締められるのが月の光を受けて、まるでなにか綺麗な宝石のようだった。

「これから死ぬのが怖いか?あ?」

「三波、俺が言ったこと覚えてるか……てめえを殺すまで俺は地獄には行けないのさ」

「例え野良犬あがりの元番犬でもな、新山よお、僕は狼のそばにずっといたんだぜ」

「最後にそんな殺し文句をくれるとはね、嬉しいぜ三波……」

呻くようにそう言うと新山は両手を広げながら狂ったように歩いた。

「俺らの仲だろ、介錯はいらねえよなあ!?」

「そいつは聞くのが野暮ってもんだぜ……やり合うのもこれで最後だなあ!新山正ぃ!!ぶっ殺してやるから動くんじゃねえぞ!」

「追っかけてやるから大人しく地獄に行って尻尾振って待ってな三波永月明ぇ!!」

新山が雄叫びとともにドスを抜いて斬りかかろうとするのを構えた銃で受ける。ギチギチと金属の擦れる耳障りな高音がする。

「そんななまくらで僕は殺せねえぜ?おい、殺してみろよ!」

ドスはそのままに振り上げられた左腕の先には白木で出来た鞘が握られていた。

「お望み通り殺してやるさ、野良犬のままで死ね」

頭めがけて迷いなく落ちてくる質量を身体をよじって避ける。木がコンクリートに馬鹿力で叩きつけられて、があんと異質な音を上げた。背中に回していた手を重量ごと引き寄せ、新山のこめかみを抉るように当てた。顔にさえ出ていないが、新山の気配は確かに匂いを変えていた。

「ガキの頃は左利きでねえ、寺のじじいに矯正される内に両方使えるようになっちまったのさ、言ってなかったっけか」

「初耳だ、だがな、こんな老いぼれのポリ公で俺は殺せねえさ」

こめかみに当てた銃身を指で弾いてから、新山はひらりと後方へ跳んだ。

「にしてもお前が両手に銃とは少し厄介だな……カタワになる覚悟は出来てるか?腕が残るのはみっともねえから肩から落としてやるとしよう」

跳躍して剣道のように叩き込まれるのを寸前で避ける。翻ったスーツが少しほつれながら切れていて、僕はほくそ笑んだ。

ドスの切っ先目掛けて一発だけ撃って貯水槽に向かって走った。ハシゴに上って、地を這うみたいに追ってくる影へ針を打つように銃弾を飛ばす。引き金を引く度に手は軽くなり埋めるかのように不安が落ちてくる。疑いようもないほどに命を差し出している、そのことへの興奮が頂点に達して僕は摩耗した喉を鳴らして狂った声で叫んだ。

上ってきた姿をみとめて、僕は引き金を引いた。

新山のあげる声に、ガラガラに割れたカラスの声を連想する。ハシゴを蹴って僕は新山の上に落下した。

「いい眺めだったぜ新山あ」

左手を貫いた銃を捨てるついでに横っ面を殴り付けて、もつれ合いに持ち込んだ。相手より身体が軽い分マウントを取れさえすれば僕のほうが多分有利だ。新山が背中をつける瞬間に一気に畳み掛けた。

「お前のそんな姿ははじめて会った時以来だ」

「すぐにひっくり返してやるさ三波永月明くん」

「僕の鼻血飲んでる奴が言ってくれるねえ……ただこの状況で引き金を引くのは美的センスに欠けるってもんだ。泣き顔拝んでやるよ新山」

振り切るとグリップが薄皮を隔てた骨を叩く派手な音がした。

「カッコつけてんじゃねえぞ三波……さっさと撃ってみろ」

「そうだなぁ」

言いながらさっき風穴を空けた左手をぐりぐりと銃口で傷口を肉を潰すみたいにして執拗にいたぶった。新山が苦悶の声をあげていて、下界の狂騒と混じって楽しい残虐なパレードのようだった。

もう片方の銃を涎を垂らしている口に擦り付ける。

「心配すんな、弾は入ってねえさ。さて、可愛い正ちゃんのお口は上手かなぁ」

飽きるまで弄って引き抜く頃には新山の顔とその周りのコンクリートは唾液と吐瀉物で濡れそぼっていた。

「遊びはこれでおしまい、戦闘再会といこうぜ」

離れようと歩き出した時、後頭部に衝撃が走った。脳が揺れて、反射的にでろでろと胃液が落ちる。ぶれる視界で見えた新山は折れた白木の鞘を手放すところだった。

「じゃあ今度は俺の番だな」

どこか危ない喜色をにじませてそう言ったその姿を、僕は獲物を仕留める狼だと思った。


躊躇いなく投げられたドスが肩スレスレを通った。少し後ろに落ちたドスを拾い上げようとした時、聞き慣れた音とともに衝撃が背と脚を襲った。

「借りたぜ三波、俺も弾くらいは持ってるのさ」

「クソッタレが!!」

幸い脚は肉が軽く抉れただけで遅くはなるが歩いたり走ったりは出来そうだ。地面に伏せたままの僕に新山は言葉を浴びせる。

「どうした三波……いつから狂っちまった?てめえはそんなんじゃねえよ……気高い野良犬のはずだろ」

ドスを手にして立ち上がると、僕は右手を身体の真ん中に寄せて、高く掲げた。その姿勢のままでにじり寄る。目はそらさない。ただ殺気を放ち続ける。

しびれを切らした新山の足先がこちらへ一歩踏み込んだ。終わりだ。

「楽しかったぜ新山正ぃ!!」

日本刀と違ってドスは元々の刃が荒いのだ。だから肉を切り裂く感覚をありありと手指に伝えて、罪悪感を背負わせようとする。

新山は仰向けに倒れ込んだ。鎖骨から脇腹へ走る刀傷を確認しながら、僕はブラックアウトした。

当たりどころとさらしのおかげで、出血は未だに酷いが手足の感覚は少しずつ戻ってきた。倒れている新山に向かって冷めたコンクリートを這った。

「なんだ三波、殺してはやれねえぞ」

「うるせえ……動け」

胸に頭を乗せて荒い息を整える。

「ドスもない、銃だって壊れたし他のもどっかいっちまった、どうやって殺れってんだ」

「手は二つしかねえがな、銃は4丁は持ち歩いてるのさ、弾が切れてもなんとかなるように……」

「でもお前、もう全部使っただろ」

その言葉を待っていた僕は表情筋をゆるめて新山に笑いかけた。小さい目がより絞られる。

「ああ、だからとっておきをくれてやるよ……5本目はな、正真正銘の自爆用だ」

「三波、お前っ!」

「この銃はな、弾を6発分こめたまま撃つと暴発しちまうから、最初から5発しか弾を入れねえんだ、そしてこいつは全部埋まってる……死のうぜ新山、これで最後だ」

古い火薬の匂いが鼻先に散った。


あの日、組の瓦解と共に僕は一般人になった。

清潔なシーツと布団に包まれて、1週間眠り続けて、何もかもが白い部屋で寝起きをするようになった。仲良くなった看護師のお兄さんは「一体なにやったらこんな傷つくんですか」と笑いながら手当をしてくれて、最近は2週間に1本身体に繋がれた管が取れた。

最後の管が取れたから外泊が出来るようになったけど、ずっと組にいたから帰る場所がないというのが本音だった。

病室で剣道の本をめくっていると、お客さまがお見えですよ、と声がかかって内心混乱したが、顔を見て納得した。

「てめえ、どうやって入ってきやがった……」

「善良な一般市民なので正面玄関から、堂々と」

新山はビニール袋に入った色々を引き出しにしまうと、花束を押し付けた。

「おいおいそりゃあ供花のつもりか?それとももっかいお空が見てえのか?見せてやるからその花どっかやれ」

「いきなり吠えるな野良犬」

ばさり、と花束が僕の顔めがけてやわらかに振り下ろされる。濃い花粉のにおいが鼻をついてくしゃみをした。

「ふざけてんのかてめえ……」

シーツを強く握り締めると手の中に寄せられた布がサラサラとくすぐったい。

「はいはい三波さんそこまでですよ。お連れの方もそんなことしないでくださいね。殴り合いたかったらこちらにサインをお願いします」

手渡されたのは外出申請書だった。

「せっかく動けるようになったからってまた怪我したらどうするんですか。病院にお金は落ちても僕達には回ってこないんですよ。それから三波さん、どれだけあなたを看てきたと思ってるんです?傷なら全部見分けがつきますよ。新しいのを作って帰ってきたら、また管入れてあげますからね」

看護師のお兄さんがゴム手袋をはめ直しながら恐ろしく笑った。

「で、なんで来たんだよてめえは、ほんとに死んだかの確認か?」

精一杯嫌味ったらしく笑ってやったのに、返ってきたのは意外な言葉だった。

「お前外には出れるんだろ?三波のお兄さんの墓参りしてやろうぜ、この騒ぎで長いこと行けてないんじゃないのか」

僕は頷くほかなかった。


「あ、あれ!?」

遠目に見ても兄貴の墓は形が違っていて、駆け寄れば寄るほどに記憶との相違に気持ちが悪くなる。突き立てておいた傘が消え去り何年も持ち主を見ていない山高帽が墓標代わりの石の先に引っ掛けられていた。土山がなくなりくぼんだそこはきれいに穴が掘られていて、中はというと空っぽだった。土ごと持っていったのかもしれない。手を伸ばそうとすると、新山が驚いた声をあげた。

「今なんか光ったぞ」

「はあ?光るようなもんなんか」

指先が拾ったのは、さらさらした土の奥にある石のような感触だった。

「なんだこれ、石か?」

掘り返すと、そこからは飴みたいな色の、自分でも宝石だと解る大量の石だった。

「おいこれ、琥珀じゃないか」

「え?」

「狼の目っても呼ばれてる宝石だ。しかしこんな質がいいのは初めて見た」

狼の目、新山の言葉を反芻しながら手を動かすと、琥珀の下敷きになっていたのはやはりというか、男に渡していた本だった。

「埋めよう」

「あ?」

「兄貴の目は燃やしたんだ、もう弄られなくていい」


「そういえば、なんでお前僕の名前知ってたんだ」

「いや……お前が名刺なんか持ってるのがびっくりして、それで覚えちまった」

「なんだよそれ」

振り返ると、白煙が立ち上がっていく入道雲の裾にそっと溶けていくところだった。

本に挟まれていた紙切れは濡れてもくたびれてもいなくて、広げるとどこかで混ざったのだろう土が僅かに落ちて薫った。その紙には真ん中につめた形で、ma chérie je suis aussi très content 、と書かれていて、僕は抜けていく風に合わせてその紙を手放した。

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