ⅷ.クマのねじを巻いた日


 結局リレイは何がなんだかわからぬまま、フィーに言われるままに、彼女がフランス人形――クリスティーヌという名前だったそうだ――を修理し、服を縫って着せ替え、ケルベロスという名の魔獣に返すのを見守ることになった。


 魔獣の種類がケルベロスなのではなく、契約者がそう名づけたのだという。全くもってややこしい。

 しかも契約者は既に亡くなっており、魔獣はフィーを狙っていたのではなく、彼女が手にしていたクリスティーヌ人形を捜していたということらしい。


「ひどいよね。僕は我が身を盾にフィーを守ろうとしたのにさ、まるっきりの空回りだったなんて。これじゃ僕、引き裂かれた恋人たちの逢瀬を邪魔する悪い狼みたいじゃないか」

「悪い狼ニャ」

「ふん。エメだって本当はフィーの話を何一つ理解してやしないくせに」

「エメはフィーのお願い最優先にゃ!」


 得意げに尻尾を立てる黒猫を、少し羨ましく思う。一度は終わった生と一緒にてたはずの常識や、倫理りんりや、善悪というものが今も時々よみがえり、リレイの心を迷わせるのだ。

 記憶は、消えないから。

 身体が死しても、心は死ねなかったから。

 この身はもはや鼓動を刻まぬ張りぼてだというのに、生前から引き継いだ記憶と心が、今でも時おりうずくのだ。


 人形にも魂が宿ると、フィーはいう。リレイはそれを感じ取ることはできないが、彼女にはそういう能力があるらしい。彼女の父か母が人形師だったのだろう。

 ケルベロスの契約者は遊園地のオーナーで、彼はクリスティーヌ人形を娘のように可愛がっていた。フィーがクリスティーヌから聞き出し、ケルベロスに案内されて向かった場所は、地下のテディベア博物館だった。


 あの大崩壊が拭い去ったのは地上にあった一切であり、地下にその余波は及ばなかったという。それでも、手を入れる者がいなければ物質は朽ちてゆく。

 いずれはこの地下にも白い砂礫が侵蝕し、クリスティーヌも劣化が進んで、ケルベロスの形もほころんでゆくのかもしれない。

 どちらかが取り残されるのではなく、ともに終われるなら、それはそれで幸せだろうか。


 テディベアの修理キットには道具や布生地だけでなく、ねじまきも入っていた。目的の物が無事に手に入って喜ばしい反面、新たなライバルの出現を予感して、忘れかけていた緊張が場の空気を引きしめる。

 正反対の想いを抱え、固唾かたずを飲んで見守る狼と猫の前で、少女はクマの背中にねじまきをそっと差し入れた。キリキリ、という心地よい音が響き、やがて白い指が止まる。

 すっとねじまきが引き抜かれた途端、ガラス片を弾くような声でクマが歌い出した。嬉しそうにクマを抱きしめるフィーを見つめながら、リレイは拍子抜けした気分で思わずその場に座り込む。


「なんだ、そっか、オルゴールか」


 てっきり黒猫と同じ人工知能が起動するかと思っていたクマは、ただのオルゴール付きテディベアだったのだ。


 安堵と同時に元気も戻ってくる。目的を果たした以上、もうこの場所に用ない。

 何度もねじを回しては満足げにクマに頬ずりするフィーを連れ、迷える天狼は今度こそ迷うことなく『ガラクタの街』を後にしたのだった。




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