第16話 主体

そうなると、


(1)ヒュポケイメノンそものものは、ヒュポケイメノンの内に無いし、ヒュポケイメノンについて語られもしないことで判定できる。


(2)ヒュポケイメノンの内に無いし、ヒュポケイメノンについて語られもしない単語は、述語として使うことができない(正確には使ってしまうと論理破綻を起こす)ので、主語でしか用いられない単語はヒュポケイメノンそのものである。


(3)「特定のある人間、特定のある馬」などの個的な存在は、すべてヒュポケイメノンそのものである。


(4)同時にこれらの個的な存在は、まさにそれであるもの(本質存在=実体)である。


 という解釈が導出できる。


 ここから、


(5)特定のある人間が実体なら、そこに「本質的な何か」が隠れているのは必然である。


 という解釈が導出されるまではもう一歩で、実際に欧米の哲学ではそうなった。これが日本語では「主体」と呼ばれるものだが、言うまでも無くそのようなものが現実にあるという科学的な根拠は無い。


 本質主義を自明にしている人間にとって、この「主体」が存在することは疑いようのない事実なので、無いと言われると強い反発を受ける場合が多いが、その点に関しては後回しにして、話を元に戻そう。


 上記の理由から、英語のサブジェクト(subject)の定義は滅茶苦茶になった。


 以下がその代表的なものである。


(1)主題、テーマ(これらは実体、あるいは本質存在の言い換えだろう)


(2)主体


(3)主語


 これに、恐らくサブジェクト=下側に投げる、の直截的な定義である、


(4)服従させる


(5)臣下


 が加わる。


 このように、サブジェクトに付与された複数の定義は、本質論がデタラメである事の間接的な証拠である。


 ちょっと考えて欲しい。仮に本質論が正しいとしたら、subjectという単語のどこかに「本質」が潜んでいる、あるいは隠されているはずなのに、それが「テーマ」と「主体」と「服従させる」などとバラバラなのは酷くおかしな話で、「人間は神に服従するホニャララ」という馬鹿みたいな解釈をしない限り、成り立ちそうにも無い。


 結論に関しては、これまで述べてきたとおり、実はアリストテレスの『カテゴリー論』を哲学者が独自に解釈していった結果で、そもそも『カテゴリー論』を読んでいないと、なんでこんなバラバラな定義が1つの単語に付与されているのかを理解できないのだ。


 私は実際に、サブジェクトの語源をヒュポケイメノンである、という説明までするものの、『カテゴリー論』を読んでいないために出鱈目な解説をしているテキストを何本か読んだことがある。


 余談になるが、ウーシアとして表現された本質は、古代ギリシア語で「~とは何であるか」を意味するto ti een ~ einaiのeinaiをラテン語に翻訳してessentia(存在する、本質)になった。これを英語にするとessence(エッセンス、本質)だ。


 我々がエッセンスと呼んでいるものの元の単語は、古代ギリシャ語の「~である」なのだ。


 そして、当然のことながら、たとえば日本語で「アリストテレスは人間である」の「である」が単なる日本語文法の規則に則って並べられている単語でしかなく、何の本質も含まれて、あるいは隠されていないように、古代ギリシャ語のeinaiも同様に、某かの本質が隠されているわけではない。


 しかし西洋哲学の一部は、本質論として延々と、この「~である」を追いかけてしまうのだ。


 また、これとは別にアリストテレスの哲学は、反イデア論の一種として後世にまで模倣される説の原型を作りだした。それが後天説だ。


 イデア論はイデア界という異世界からやって来る光によって、見えないものでも認識可能という説だ。プラトンは『パイドン』という著作で、この認識を可能にする能力を「我々がその知識を得たのは、生まれる以前でなければならない」と述べている。


 プラトンは魂の存在を信じていたため、それが肉体に宿る前の段階で、イデアとして全ての正しい認識を得ていると考える。つまり先天説だ。


 しかし、イデアとして獲得した知識はこの世に誕生する段階で記憶喪失のように失われてしまう。それを、感覚などを手がかりにして「思い出す」のが知識である、と考えるわけだ。


 反イデア論者であるアリストテレスは、これとは異なる方法で認識を説明せざるを得なかった。


 そこで、アリストテレスは物そのものに認識可能な何かが「隠されている」としたわけだが(これが本質論である)、そうなると今度は隠された本質を発見するための手段が必要になってくる。


 前述したように、アリストテレスは『霊魂論』や『ニコマコス倫理学』の中で、魂(隠されているもの)は、その器に該当する肉体、あるいは身体によって、その能力が決定されると説いた。


 たとえば、人間の身体には人間の身体に合った魂が宿っており、その人間的な魂の特性として、思考力や理性がある(肉体に「隠されている」)と考えるわけだ。


 また、魂は肉体を「欲求」することによって動かしていると説き、これを理性と分けた。従って、アリストテレスの霊魂観に従えば、人間の魂は理性と欲求に分けられるが、欲求が無ければ理性も働かないので、魂の本質的な部分は欲求ということになる。


 そして、知識は魂の欲求無しでは習得できない。つまり、アリストテレスの霊魂観は、


(1)霊魂は存在するが、それは肉体によって規定される。つまり、霊魂は肉体無しで存在し得ない。また、霊魂があるのが生物・無いのが無生物である。


(2)霊魂は肉体を「欲求」することによって動かす役目を果たしている。


(3)その欲求に従う過程で、人間は知識を身につけていく。


 ということになる。つまり、後天説だ。

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