第十五話 手紙
オリヴィエ公領カステルサラザン。この街はアルサーナ王国でも最も古い都市の一つであった。王国内の南部、国境に沿って位置するこの街は、温暖な気候と豊富な湧き水のお陰で、国内屈指の高い生活水準を誇っていた。
安定した生活が育んだ、温厚な気性の領民たちではあったが、国境を越えた南方から時折やって来るならず者だけには厳しい視線を向けた。
街に入った一行だったが、何やら街は閑散としており、普段ならば人で溢れていそうな大通りも、なんとも異様な静けさに包まれていた。
「どうしたのかな?」
セレスティーヌは深くかぶった帽子を僅かにずらすと、怪訝そうに辺りを見回した。平民の姿は僅かで、その代わりに武装した兵が時折巡回を行っている。
すると、紙袋を手にしたミーナとジェフが息を切らしながら一行の元に駆け寄って来た。
「聞いてきたよ! お店の人が言うには、国境で騒ぎがあったから、みんな家に引っ込んでるんだって!」
「でも最低限の店は開いてるみたいですよ。 裏路地の宿は数件開いているとも言ってました」
垢抜けない容姿を利用し、買い物がてら聞き込みをしてきた二人は、この街の状況をエリーたちに報告した。
「やはり話は伝わっていたのね……、二人ともありがとう。では殿下、打ち合わせ通り、宿は別々に致しましょう。この人数で固まっていると人目につきますので」
「そうね、みんな疲れてるし……。じゃあまた明日、約束の場所でね」
エリーの提案を受け入れたセレスティーヌはクレールと共に、裏路地へと消えていった。
そして、そんな二人の後姿を建物の影から見送った後、側近たち数人もその場を後にした。
「さて、ここからが正念場よ」
腕を組んだエリーは大きくため息を吐くと、そう一言呟く。
「そう、なの……?」
「そろそろ帰りたいんですけど……」
そんな彼女の言葉を受けた二人は消え入る様な声で言った。
場所は移り、安宿の一室。三人は作戦を練っていた――、というよりも一方的にエリーが説明をしていた。
「と、いうわけなのよ。ミーナ、頼んだわよ」
「う、うん……」
一息ついた娘は椅子にもたれ掛かると、カップの黒い液体を口に含んだ。
作戦の主役を任命された少女は普段の明るさを失い、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた。
「領主に直の手紙ですか……、事の重大さを伝えるには良いのかもしれませんけど、信じてもらえるんですか?」
「大丈夫、絶対に」
苦言を呈するジェフだったが、そんな少年の不安をかき消すかのような自信たっぷりな返答をするエリー。その言葉の根拠は不明だったが、いつも慎重な彼女がこれほどまでにも自信を持つという事は、なにか秘策があるという事の裏付けでもある事を、少年は頭では理解していた。
「正面切って『私たちがセレスティーヌ姫一行よー!』じゃ駄目ですか?」
「駄目、後の作戦に響くから」
「後の作戦って何なの?」
「まだ秘密よ、でも直ぐに分かるわ」
二人の提案や質問をことごとくかわしたエリーは、空のカップをテーブルに置くとすっくと立ち上がった。
「私が準備するから。ミーナ、あなたは少し休んでなさい。この国の命運があなたの双肩に掛かっているのよ」
「う、うん……」
重圧に圧されたためか、再度顔をしかめつつも返事をするミーナ。
そんな彼女の方を一瞬見遣ったエリーだったが、それ以上何も言わずに、作戦の準備の為に宿の部屋を後にした。
「頑張れよ」
「……分かってるよ」
幼馴染と目も合わせず、少女は不安そうに一言だけ答えた。
まだ冷たい、春の夜風が吹き抜けると、芽吹いたばかりの葉がざわざわと声を上げた。僅かに顔を出した月の下、領主の館を囲う塀の一角、丁度正門の真裏にミーナとエリーは居た。
「これが手紙よ。それと着替えよ」
「うん」
元貴族なんでしょ? こんなコソ泥みたいな事させないで何とかしてよ――、少女はそう文句を言いたい気持ちを必死に抑えると、手渡された手紙を懐にしまった。
そんな彼女の気持ちを知ってか知らでか、元貴族の娘は塀の際に生えた低木を掻き分け、指を指した。
「ここ、大人じゃ通れないけど、子供なら通れるわ」
指先が指し示すその場所には、エリーの言う通りの小さな穴が開いていた。それは子供、もしくはだいぶ小柄な女性が、四つん這いになれば何とか通れるかもしれない程度の抜け穴だった。
「良く知ってるね、いつ見つけたの?」
「言ったでしょ? 私は元貴族なの。このオリヴィエ公の屋敷にも子供の頃に来た事があるわ」
「ここの領主様と知り合いなんだ」
ミーナはそう言ったが、思わずその言葉に続きそうになった不満をなんとか飲み込むと、観念したかのように穴の前で両膝をついた。
「じゃあ、行くね」
「頼んだわよ」
言葉を交わし終えた少女は狭い抜け穴へと体をねじ込み、その後に着替えの入った麻袋を引きずり込んだ。
塀の向こうは更に静かだった。幸運な事に、そこかしこに庭木が生えていたので、ミーナは身を隠す場所に困る事なく行動が出来た。
そこでまず少女は木の陰で、エリーに渡された服へと着替え始めた。屋外で服を脱ぐ事には抵抗があったが、僅かな月明かりしかない木陰の暗さがその感覚を和らげた。
「メイド……さんだね」
着替え終えた少女は、自身の身を包む衣装に向けて一言感想を漏らす。
とはいえそれは不満では無く、感心にも近い言葉だった。そして、いつもの衣服を麻袋に詰めて穴の向こうへと押し返す。
待ち構えていたエリーがそれを回収するのを確認したミーナは、濃紺と純白の衣装をなびかせながら、暗がりを素早く移動した。
何かの小動物を連想させる動きで音も無く勝手口へとたどり着いた少女は、淡い期待を胸に扉のノブを捻った。
だが、当然のようにそれは回らず、この館の使用人の勤勉な働きを誇示していた。
「だよね、うん」
けれどもミーナはしょげる事無く、窓から建物内を覗く。瞳に映るのは、静まり返った厨房。
そこで彼女は小さな袋を取り出し、その中に指を入れる。そこから取り出された感応石の欠片、煌めく砂粒を指先で摘まむと、それに念を込める。
そして、薄っすらと光を帯びた粒を急いで鍵穴に流し込むと、少女は二歩下がりその時を待つ。
バンッ!
一瞬の後にくしゃみ程の音量の破裂音がした後、ミーナはドアノブに手を掛ける。鍵は既に役目を果たす事が出来ずに少女の侵入を許してしまう。
これ以上音を立てぬようにゆっくりと扉を開き、少女は夜の屋敷へと歩みを進めていった。
想像していたよりも質素な屋敷の中を、メイドに扮したミーナは早歩きに進んで行く。
内部の事はエリーから聞いていたが、いくら聡明な彼女とはいっても子供時代の記憶には限界があった。その為、ミーナはきょろきょろと周りを見回しながら、けして狭くはない館内を歩き回る羽目になった。
「あー、わかんないよ……」
何度か使用人とすれ違い――変装のお陰で問題は発生しなかったが――肝を冷やし、そして同じ地点に二度差し掛かった頃、ミーナは苛立ちの混じった独り言を呟いた。
扉に『領主の部屋』などと書いてあるわけも無いのに、領主の寝所を見つけて手紙を渡せなど、あまりにも無茶な話だと少女は考えた。
オリヴィエ家の象徴である水鳥の紋章が目印になると聞かされてはいたが、この暗い中でどうしろと言うのだ、と思ったミーナはため息を大きくつくと、傍にあった窓に視線を向けた。
猫の目の様な細い月が夜空に輝いていた。荒野を抜けた時に見た月に良く似た大きさの月が、再び空に浮かぶ姿を見て、少女は不意に故郷を離れてからの日数の経過を意識する。
「おじいちゃん……」
懐郷の念に駆られたその瞬間だった。背後の部屋から怒鳴り声にも似た、男の声が響く。ミーナは我に返ると、その部屋の扉近くで耳をそばだてた。
そして聞こえてきたのは、若くは無さそうな男たち二人の言い争いにも近い会話だった。
「閣下、どうかお考え直しを! ここでジェラルド卿の誘いを断るのは、西側の、王家側に肩入れするのも同然です!」
「だから断るのだと言っているのだ。東側の連中の協商などとは言っているが、あれはジェラルド単独での囲い込みほかならん。諸侯の支持を集め、実質的なアルサーナの支配権を確立するのが奴の狙いだろう」
「そんな事は重々承知です! もはやフィオレンティーナ女王の、シャルパンティエ朝の支配は長くないでしょう。だから今のうちに次期権力者に取り入らねば……」
「貴様は私に実の姪を裏切れというのだな? 言い換えれば、自身の保身のために自分の姉を裏切れと?」
「ですが閣下……」
「お前には失望した、もう下がって良いぞ」
少女にとっては何が何だか分からない会話ではあったが、言葉の端々から伝わるに、中には探していた領主が居る事と、そして、セレスティーヌ――と名乗る娘――以外にも、女王に歯向かわんとする者の存在が居る事が聞いて取れた。
次の瞬間に開く扉。そして中から忌々しそうに唸る臣下と思しき男が現れ、扉を乱暴に閉めると足早にその場を後にした。
「あらら、鍵閉めないのかな?」
少女に気づく事無く去った男に驚きつつも、施錠されていない扉へとミーナは手を掛ける。よく見ればその扉には水鳥の紋章が施されていた。
内部に居る人物こそがオリヴィエ公、この地の領主でありセレスティーヌの叔父であると確信したミーナは、懐の手紙を手に持つと、ゆっくりと室内へと足を進めた。
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