第36話:ドラゴンテイルの思惑1

 その日優里は父の妹である美咲・イーストプレインに連れられて屋敷を出た。

 美咲によれば優里に会いたがっている人がいるという。

 まだ五歳の優里は彼女の説明の全てが理解できるわけではなかったが、真剣に迫られると断ることはできず、半ば強引に連れていかれることになったのだ。

 優里に会いたがっている人というのは、イーストプレインとノースキャニオンの丁度境目辺りにある古びた木の小屋の中にいた。

 銀色の髪に赤い瞳……そして全身を黒に包んだ女性は美咲に何かを囁いてから帰らせてしまうと、優里を椅子に座らせて向かい合った。

 イーストプレイン家の書庫くらいの広さで妙に埃っぽく生活感はない。木の扉は立て付けが悪いようで、時折キイキイと不気味な音を立てる。隅には猟銃など見慣れない道具が山積みになっている上、目の前に立てかけられた年季のある古い鏡が何故か不気味に思えた。おそらく彼女はここに住む人間ではないのだろう。幼い優里が初めて危険を感じて怯えていると、

「優里・イーストプレイン」

 と、女性は大人か子どもか分からない不思議な声で優里を呼ぶのだ。

 一体彼女は何者なのか、何故二人っきりにされたのか分からない。困惑していると、

「お前は奏人・サンチェスのことが好きだろう」

 と、問いかけられた。

 奏人・サンチェス……それはいつも優里に本を読んでくれる少年のことで、将来は優里の執事になるのだとも聞いていた。

 確かに優里は奏人のことが好きだった。勿論両親や他の使用人なども同じように好きだが、彼には特別懐いていた。

 いつも本を読んでくれる年上のお兄さん。その存在は幼い少女が特別な感情を抱くには十分で、幼心にそのことを理解もしていた。しかし。

「しかし奏人・サンチェスはお前のことを大切に思ってなどいない」

 あの日……奏人と共に青龍を目にした時、彼ははっきりと言った。自分は仕事だから優里と一緒にいるだけだと。

 本当はとてつもなく悲しかったが、そんなことは口にしないと意地を張った。ただ、奏人は自分にとっての大切な人の一人とだけ伝えたのだ。

「さぞ苦しかっただろう。悲しかっただろう。人から拒絶されたその気持ち、私には分かるぞ」

「え……」

「さて、優里・イーストプレイン、貴様はもうそんな苦しみを味わいたくないのではないか?」

 何かよからぬことをされようとしている……そんな気はするのに、女性の赤い瞳から目が離せない。

「苦しみ、悲しみ、恐怖……それから人を愛する気持ち。それが失われれば貴様はもう傷つくことはない。人の愛情を勝手に期待して裏切られることほど辛いことはなかろう? 誰も好きにならず、苦しみや悲しみといった負の感情もなくしてしまえば、貴様は幸せに生きていける」

 たったそれだけの感情がなくなれば幸せになれる? 少しだけ、興味を抱いてしまった。

「我の復活を邪魔する忌々しい青龍に好かれた貴様はさぞかし苦しみも多かろう。それを封じこめ、もう奏人・サンチェスにも会うことはないノースキャニオンへと連れて行ってやろう」

「そんな……だって……」

 女性の言っていることが全て分かるわけではない。ただノースキャニオンに連れていかれるのは困る。

 大切な両親、大切な人たちに会えなくなるのは辛いはずで……そう思っているのに、女性の人差し指が優里の額に触れた瞬間、今まで考えていたことが急に消えていく。

「お前が大切だと思っていた人間。彼らは本当にお前のことを愛していると思うか?」

 女性の声が優里の頭にこだまする。

 そうだ。どうして愛されていると期待することができていたのだろう。

「これ以上惨めな思いをするのは嫌だろう?」

 愛されていると勘違いして裏切られるほど悲しいことはないのに。

「お前は誰にも愛されない」

「私は……愛されない」

 自分は愛されない。だから人を愛して期待してはいけない。

 そして愛されないことへの恐怖も苦しみもなくしてしまえば問題はない。

「優里、お前は行き場を失った孤児だ」

「孤児……?」

「お前は愛する両親も愛する仲間もいない、誰にも愛されることのない哀れな子。さあ、哀れなお前を養ってくれる者のところへ行こうじゃないか」

 何か重く冷たいものが胸の奥へと消えてゆく感覚がする。

 自分は誰にも愛されない。だったら自分も愛さない方がいい。そうすればもう傷つくこともない。何度も頭の中で繰り返す。

 そもそも誰に愛されたかったのかすら、優里にはもう分からない。

 優里はずっと昔から孤独な孤児だったのだから。

 女性の手を取る。

 死人のように冷たい手が、この時の優里には心地よく感じられた。

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