夜光列車〈2〉

     3


 列車は、病院から離れた住宅街まで走った。

 住宅街の上空まで行くと、車掌は左腕で列車を操って下降させた。降りる途中で計器類の脇にあった青いボタンが押され、ピイッという音が響いた。ここで天笛を鳴らしていたのだ。秘密を一つ知ることができてさらに嬉しくなった。

 住宅街の中でも比較的広い道路に着陸する。


「さあ、降りて」


 さっさと運転席を出た車掌を追いかけ、外に出た。

 こっちにやってきた彼は、わたしの全身をジッと見回した。静の雰囲気が強く、いやらしい感じはしない。


「その格好は仕事にふさわしくないね。服を貸してあげよう」


 わたしはパジャマでここまで来ていたのだった。

 後部車両に歩いていく彼に視線をやった時、わたしは初めて、六両編成である列車の全貌を確認したのだ。

 おおきいなあ……なんて見とれていると、もう車掌が戻ってきた。


「はい、これ」


 渡されたのは半袖シャツと長めのスカートだった。


「列車ってお洋服も置いてあるの?」

「便利な乗り物だからね」


 車掌は肩をすくめた。

 まあ、せっかく用意してくれたのだ。わたしは運転席に戻って着替えた。

 それまで――こう言ってはいけないのだが――過保護な両親に、風邪をひくかもしれないからとスカートや半袖の服は着させてもらえなかった。今夜は初めての体験ばかりだ。

 座席での着替えに手こずり、時間がかかった。ようやくのことで外に出ると、さあっと温い夜風が吹き寄せてくる。肌に直接風が当たり、「わっ」と思わず声をあげた。くすぐったく感じられた。


「どうかな」


 特別な服を着ている気がして楽しくなった。ファッションショーの真似をして、車掌の前でくるりと回ってみる。


「うん、かわいらしいと思うよ」


 彼は優しい声で言ってくれた。ストレートに誉められたせいか、心がむずがゆい。


 よし、仕事だ! と気合いを入れて車掌の横に並ぶと、彼は拡声器らしきものを手にして呼びかけた。


「この近辺でこの放送が聞こえる方ー、列車が到着しておりますー、どうぞご乗車くださいませー」


 そのまましばらく待ってみたが、誰も姿を現さない。

 まさか警戒されているんじゃないか?

 誰だってこんなものを目にしたら驚くだろう。


 しかしそれは杞憂だった。

 正面の十字路から、背中の丸くなった人影がやってきたのだ。

 影の主は八十過ぎくらいのおじいさんだった。立派な顎髭を胸の辺りまで垂らしている。


「こりゃあまた、すごいもので迎えにくるんだねえ」


 感動したような調子で列車を見上げている。白いパジャマ姿のおじいさんは、軽く顎髭をなでつけた。


「で、わしはどこに乗ればいい? 決まってるものなのかね」

「いいえ、席は自由です。では、こちらにどうぞ。お疲れ様でございました」


 車掌が一両目のドアをスライドさせた。

 おじいさんはわたしたちに会釈すると、ゆっくりとした動作で列車に乗り込んだ。すぐに車掌がドアを閉める。


「――とまあ、こういう感じでご案内するんだ。紬君は僕と一緒に並んで『お疲れ様でございました』と言うんだよ」

「はーい」


 仕事と言うからどんなものかと構えていたが、これくらいなら充分できそうだ。


「ねえ、車掌」

「ん、なんだい?」

「あのおじいさんはどうなるの?」

「そうだね、端的に言うと、こことは違う世界に行く。そこで次に向かう世界を決めるんだよ」


 またも小学生には難しい言い回しをする。


「おじいさんの家族は?」

「みんな生きているよ。気になるなら、おじいさんの家を覗いてごらん。今の君なら、抜けろって念じれば壁を通り抜けられるはずだから」


 車掌に教えてもらい、おじいさんの家まで駆けた。庭付きで二階建ての住宅だ。庭造りに凝っていたのか、小さな池や苔むした石、丁寧に整えられた松の木や盆栽があった。広くないのに窮屈さを感じさせない。

 二階には明かりが灯っておらず、向かって左側にある座敷らしい部屋だけが光っていた。


 若干の抵抗を覚えたものの、結局は好奇心が勝った。

 心の中で――抜けろ――と念じながら壁に突っ込んだ。

 すると、そこになにもないかのように、体が家の壁を通り抜けていた。ただ、強く念じすぎたのか足が床に埋まっている。慌てて、家の中に立っている自分を想像する。とたんに体が浮き上がり、次の瞬間には、もう廊下に立っていた。


 興奮が頂点に達した。はしゃぎ回りたくなる気持ちが湧き上がってきたが、なんとか抑えて座敷に顔だけ入れてみる。

 四人の男女が、布団を囲んですすり泣いていた。


「本当に逝っちまったよ……」

「でも、全員集まれてよかった……」

「私だって、もうすぐこうなるんだよ……」


 麻酔が急速に抜けていくかのようだった。

 座敷はのしかかるような重たい空気に支配されている。

 嗚咽とともにつぶやかれる言葉が、わたしの心を傷つけた。こんな光景を目にしたのは初めてのことだった。


 そうか。

 本当にあの列車は、死んだ人を迎えに来るための列車だったんだ。

 摩訶不思議な出来事に遭遇して浮かれっぱなしだったが、ようやく冷静になれた。目の前の空気を感じ取り、気楽にやっていい仕事じゃないと気持ちを入れ替えた。


 戻ってみると、車掌が待っていた。


「どういう仕事なのか、わかってもらえたかな」

「うん。……なんとなくだけど」

「それはよかった。――さて、ここはあのおじいさんだけみたいだね。そろそろ次の場所に行こうか。乗って」


 すぐに助手席に乗り込む。

 車掌は運転席で、一つだけ動いている計器の針を見ていた。


「次は西か。あれまあ、これは死にたての反応だね」


 右腕が上がると、列車が揺れて発車する。

 上空に飛び立った列車は、滞留している蒸し暑い夜気を切り裂いて走った。


     4


 列車は市街地の上空に到着した。

 高層ビルなど悠々とすり抜けながら快走し、大きな交差点までやってきた。

 地上を見下ろすと、交差点の付近に赤い光がいくつも輝いているのが見えた。

「事故だ」


 やれやれ、と困った調子で車掌がつぶやく。

 急降下した列車は、交差点の上を渡る歩道橋の近くに停車した。

 こんなに異様な列車が現れたというのに、誰も騒いだりしない。やはり他の人々には見えていないのだ。――と思うと同時に、律儀に車道から外れて停車した車掌が、いい人に見えたこともつけ加えておこう。


 車道周辺ではパトカーのランプが踊り狂っていた。

 警察と思わしき人たちが忙しくあちこちを歩き回っている。マスコミや野次馬もたくさん集まっていた。

 そして人混みの中心にあるのは、大きくひしゃげた二台の自動車だ。赤色の普通車と黒い軽自動車。


「さあさあ、仕事だよ。紬君はこっち」


 わたしたちは一両目のドアの前に並んで立った。背筋を伸ばして、きちんと。

 拡声器を持った車掌が、これまでと同じように呼びかける。

 すると歩道の向こうから二人、バス停の陰から一人が、それぞれ姿を現した。

 二人組は中年の男女だった。メガネをかけた気弱そうな男と細身の女性。


「今の声は貴方のものでしょうか……」


 メガネの男が震えた声で言った。


「ええ、そうです、お迎えの列車が到着いたしましたので」

「おいおい、お迎えってなんなんだよ」


 車掌の声に反応したのは、別の方向からやってきた二十歳くらいのお兄さんのほうだった。

 ヤマアラシみたいに尖らせた茶髪のインパクトが強烈だ。ジーパンは穴が開いていて、シャツもボタンをいくつか外している。小学生を震え上がらせるには充分な迫力だった。


「あなた方三人をお迎えにあがったのですが」

「そうじゃねえよ。なんで俺が列車に乗らなきゃいけねえんだよ」


 お兄さんが混乱を怒りで包むように凄んだ。わたしの頬を冷や汗が伝ったのは、熱帯夜のせいだけではなかったはずだ。


「まあ、端的に説明しますと――」


 車掌は咳払いして、

「貴方が生を終えられたからです」

 簡潔に述べた。


 やってきた三人はぽかんと口を開けている。

 最初に我に返ったのは、やはりお兄さんだった。


「ふざけんなっ、俺は死んでねえよ。だってほら見ろよ、ちゃんとここに体あるだろ。お前馬鹿じゃねえのか」

「い、いや、君……」


 メガネのおじさんも言葉を取り戻した。


「わたしらは本当に死んだんじゃないだろうか……。誰も我々に気づいていないし、さっきそこで激突したわけで……」


 おじさんは右手の指で、潰れている二台の車を示した。

 お兄さんは呆然と車を見ていた。信じられない、というような顔をしている。


「ざっけんな」


 やがてお兄さんは怒鳴り、おじさんの胸ぐらを掴んだ。おじさんは「ひっ」とおびえた声を出す。


「てめえが早く出すぎたんだろうがよ。ちゃんと信号見てなかったのかよ」

「ま、待ってくれ。私はちゃんと青になったことを確認してから発進したんだ。信号無視は、き、き、君のほうだろう」

「うるせえよ黙れよ! 俺はこれから行かなきゃいけねえ場所があんだよ。ああちくしょう、どうなってんだよ! ふざけんな!」


 ヒステリーでも起こしたみたいに、お兄さんは頭を抱えて歩き回る。

 わたしにはどうすることもできず、ただおろおろと見ているしかなかった。


「落ち着いてください」


 黙っていた車掌がようやく動いた。暴れているお兄さんの右腕を押さえる。


「なにしやがるっ、放せ、あっち行ってろ!」

「失礼します」


 どん、と鈍い音がしてお兄さんが崩れ落ちる。車掌が相手の胸に拳を叩き込んだのだ。一瞬の早業。車掌はお兄さんを軽々と担ぎ上げる。


「お騒がせしました。それでは、どうぞ」

「わ、私たちはこれからどうなるんでしょうか」


 おじさんがようやく声を出した。


「そうですね、まず〈プラットフォーム〉まで向かいます。その後で、今後の行き先が決定されることになっています」

「い、行き先とはあれですか。その、天国とか、じ、地獄というような」

「まあ、そんな感じですね」


 車掌は二両目の中に入っていった。横長の座席にお兄さんを寝かせている。


「あなたはお手伝いさん?」


 澄んだ声が聞こえて、わたしはハッとした。

 今まで一言も発していなかった女性が話しかけてきたのだ。


「あ、はいっ、おてつだいです」


 わたしは慌てて答えた。きっと嘘ではない。


「かわいいお手伝いさんねえ」


 いきなり誉められて、頬が熱くなるのを感じた。


「しっかり車掌さんをサポートしてあげるのよ」


 それだけ言うと女の人は、

「さ、行きましょう」

 と、おじさんを促して二人で三両目に入っていった。大人だなあ、と感動してしまった。


 同じタイミングで車掌が出てくる。


「時々こんなこともあるんだ。自分が生を終えたことを認めたくない人というのがね」

「死んだあとも痛い思いをしなきゃいけないなんて、お兄さんがちょっとかわいそうかも」

「あはは、たぶんもう痛みは感じていないはずだよ。もちろん、だからといって思いっきり殴ったりしてはいけないんだよ」

「ルールが決まってるんだ。車掌も大変なんだね」


 ねぎらったつもりだったが、苦笑された。


     5


 海辺の町に反応があるね、と車掌が言い、すぐさまそちらに向かった。

 ところが反応は町からではなくて、実際には浜辺にあった。

 誰もいない夜の砂浜。

 海水浴場ではないようで、喧噪もなく、バカンスに侵食された気配もない。


「紬君もやってみるかい」


 勧められて、わたしは拡声器を受けとった。


「お迎えの列車が到着しておりまーす」


 全部は覚えていなかったのでそれだけ叫んだ。辺り一帯にわたしの声が響き渡ると、左手――岩壁の向こうから人影が現れた。

 影はこっちまで走ってきた。メガネをかけた大学生くらいのお兄さんだった。


「お迎えですか!」


 死んだ後にしてはずいぶん元気そうだ。


「はいっ、おむかえです」

「ああ、よかった。誰か来てくれる気がしたんです、はい。――いやあもう何もかもうまくいかなくなっちゃいましてね、気づいたら誰も周りにいないし、なにかあれば金だ金だってなっちゃって、もうね、俺ホント何やってんだろうなあって思ったんです。あー、なんだろうな、すごく晴れ晴れとした気分ですね、ははは」


 一気にまくし立て、勝手に車両に入っていった。


「すべてを振り切ったっていう感じかな」


 車掌はわたしを見て、意味ありげにため息をついた。


「死が軽い――という人の典型例だね」


     †


 それから、わたしたちはたくさんの場所を回った。

 山間の地域を、河原を、中心街を、高速道路の上を。


 列車に乗り込んだ人々を見ているうちに、車掌のつぶやきの意味が少しずつわかるようになってきた。


 ある若いお姉さんは赤ちゃんを抱いて、マンションの一室からやってきた。

 あるおじさんは「お仲間がいっぱいだ」と嬉しそうに、橋脚下の草むらから飛び出てきた。

 あるおばあさんは古い日本家屋から現れ、誰にも見送ってもらえなかったことを嘆いていた。


 もちろん全員がそうだったわけではない。しかし、多くの人には孤独がつきまとっていたようだ。人恋しくて、と車掌に抱きついた女性だっていた。


 乗客を一人また一人と見るにつれ、わたしにも共感が芽生えてきた。

 深夜の病室でふと目が覚めると、誰もいない。

 外から明かりが入ってくるとはいっても、病室の中はほぼ闇に包まれている。

 家族だって、わたしにつきっきりというわけにはいかない。近くに誰もいない夜は、わがままだとわかっていてもさみしさを感じたものだった。

 似たような感情を持っている人がこんなにいる。わたしにはそれが悲しかった。

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