4-10 嘘つきな額縁

 朝が来る頃に、私はシャワーを浴びて身支度みじたくを整えると、普段は教科書を詰めているリュックに一泊分の着替えを入れて、靴をいた。

「いってらっしゃい、澪」

「いってきます、彗」

 彗は、まだ寝間着のシャツを着たままで、玄関で向き合う私たちは、壱河一哉いちかわかずやさんの訃報ふほうを受けた日の朝と、立ち位置が入れ替わったみたいだった。秋物のワンピースの上にロングカーディガンを着込んだ私は、彗を見上げて微笑んだ。

「両親に、久しぶりに元気な顔を見せてくるね」

 彗のまぶたが、微かに動いた。「うん」と答えた声は、朝の柔らかな日差しにはそぐわないほどかたかった。私は、今の彗から離れるべきではないのだろう。でも、ここで一緒に暮らすだけでは、私たちの未来を守れない。私は、かかと三和土たたきから浮かせて背伸びをすると、彗の首に両腕を回して、キスをした。とんと踵を三和土につけると、ちょっと驚いた顔をしていた彗は、ようやく少しだけ笑ってくれた。

「身体には、気をつけて」

 そう言って、私を送り出してくれた彗は、知っているはずだ。私が両親に会うことは本当でも、帰省きせいの目的は別にあることも、その目的の内容も。それでも、私を止めないでくれたことが、嬉しかった。

 故郷の町までは、電車を乗り継いで二時間、さらに徒歩で三十分ほどかかる。帰省きせいの話は、彗に話したあとで実家に電話を入れたから、母はひどく驚いていた。そのときの声の硬さは、今朝の彗の声とどこか似ていた。実家に帰るときは、いつも温かく歓迎されたから、急な帰省ということを差し引いても、私は違和感を覚えていた。

 のどに魚の小骨が刺さったような気掛かりは、久しぶりに故郷の最寄り駅に着いたときも、懐かしい桜並木の歩道を歩いたときも、高校のフェンスを遠目に見ながら、実家にたどり着いたときも――母と対面したときも、消えなかった。

「おかえり、澪」

「ただいま……お母さん」

 白以外の色彩が少ないリビングには、台所でさけが焼ける香ばしさと、私の心をかたどってきた生活感が、淡い濃度で揺蕩たゆたっていた。黒髪を一つにたばねて、エプロンを身に着けた母の顔は、私と似ている。でも、今の私ではなくて――高校生だった私と、似ているのだ。うれいをまとう母の笑みには、未明みめいの夜の空気のような、透明なはかなさが宿っていた。

「急に帰ってきて、ごめんね」

「いいのよ。お父さんも、今日は仕事から早めに帰ってくるわ。もうすぐお昼ごはんができるから、ゆっくりしてて」

「ありがとう。食べたあとは、用事があるから出掛けるかも」

 私は、台所のそばに置かれた固定電話の前に立つと、受話器を上げた。でも、道中で調べておいた高校の電話番号を押す途中で、思い直してダイヤルをやめた。恩師おんしに連絡を取る前に、あの絵を見たいと思ったからだ。

 二階に続く階段を上がって、私の部屋の扉を開けると、雨戸を開けて外光を取り入れた室内は、思いのほか昔のままだった。私の帰省きせいを知った母が、掃除を済ませてくれたのだろうか。違和感が少し増したけれど、ひとまず私はリュックを置いて、壁に飾った油彩画を見つめた。

 ――高校二年生の冬に、彗が私にくれた油彩画は、朝ぼらけの水色と、日の出のだいだいの対比が鮮やかで、何度見ても美しかった。この絵もまた、ゴッホの黄色と青色のような補色ほしょくを取り入れていたのだと、今の私なら容易に気づけた。夜明けを迎えた教室からは、油絵具の甘い匂いだけでなく、早朝の静謐せいひつな空気も香った気がした。高校生だった「あの頃」の切ない温かさにひたった私は、不意に気づいた。

 この絵を、最後に見たときと――私の『印象』が、変わっている。教室の世界をつぶさに観察するうちに、変わったのは世界ではなく、世界の入れ物だとわかった。

 ――額縁がくぶちが、取り換えられていた。高校生だった頃の私は、彗の絵を部屋に飾るために、今にして思えば安価な額縁を購入した。にもかかわらず、今では一目で上等だと分かる赤金あかがね色の額縁に代わっていて、しかもちり一つ積もっていなかった。

 額縁に指先を伸ばしたとき、部屋の扉が開かれた。現れた母が、「澪。お昼ごはんにしましょう」と言ってから、絵と向き合う私を見て、顔を明らかに強張らせた。母の態度に驚いた私は、「うん。ありがとう……」と答えたけれど、枯葉のように積もり続けた違和感を、もう気の所為にはできなかった。

 ――母の態度が、おかしい。ひどく後ろめたそうな表情が、秘密の存在を知らせていた。部屋の掃除だって、娘の突然の帰省きせいを受けて、ここまで徹底できるだろうか。何から訊ねようか迷っていると、母は私の隣まで歩いてきて、教室の絵と向き合った。

「この絵に描かれているのは、澪の高校の教室よね」

「うん。分かるの?」

「ええ。お母さんも、お父さんと一緒に通ったから」

 そういえば、父と母の出身校は、私と彗が通った高校だ。二人は、高校時代に付き合い始めたと言っていたから、彗がえがいた風景の中で、青春時代を送ったのだ。

 母の横顔からは、彗の絵を鑑賞している間だけ、隠し事の気配が消えていた。眼差しをくもらせるうれいと後ろめたさを手放して、静かに油彩画を見つめている。

「……寂しくなるわね」

「寂しく? 何のこと?」

「ああ、澪は知らなかったのね」

 母は、油彩画から私に向き直った。そして、言葉通りの寂寞感せきばくかんたたえた顔で、私が想定していなかった現実を、郷愁きょうしゅうのこもった声で口にした。

「あの高校は、来年の三月に、廃校はいこうになるのよ」

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