3-17 絶対に歩きたい道

 午後九時を過ぎて、閉店前の最後の書き入れ時が終わり、色とりどりの中華料理のブースの大半が空になった頃。店内のお客さんが誰もいなくなったタイミングで、レジに立った絢女あやめ先輩に、さりげなく言われてしまった。

「最近は元気そうだったのに、また落ち込んでるみたいね」

「……絢女先輩、少しだけ話を聞いてくれますか」

 私がレジ袋の整理をしながら訊ねると、絢女先輩は意外そうな顔をした。今日も入念なメイクで美貌びぼうを際立たせた美女は、どんな表情をしていても様になる。

「珍しいじゃない。澪ちゃんが、私を積極的に頼ってくれるなんて」

「私は……悩み事を抱えたときに、いつも誰かに訊き出してもらってばかりだったから。今だって、絢女先輩がきっかけを作ってくれましたし。でも……こういうとき、せめて自分から話を切り出せるようになっていきたいです」

 そんな自分になれたなら、『faux-amisフォザミ』にまどわされない私になれるだろうか。まだ今の私には分からないけれど、アリスが初心を思い出させてくれたおかげで、なんとか前を向けている。絢女先輩は、くすりと笑った。

「澪ちゃんが話そうとしてることって、あの子のことでしょ?」

 あの子――巴菜はなちゃん。互いに名前を出さなくても、十分すぎるくらいに伝わった。私は頷くと、絢女先輩に訊いた。

「大学の学食で、私と絢女先輩が偶然会った日から……絢女先輩は、気づいていましたよね。星加ほしかくんに呼び出されて学食を出た巴菜ちゃんが、星加くんのことを……」

「まあね」

 絢女先輩は、すんなりと答えた。それから、少し申し訳なさそうに眉を下げた。

「私は、これでも反省してるのよ? 星加くんって男の子が、初めて『フーロン・デリ』に来たときに、面白いことになってきた、なんて言ったこと。澪ちゃんの大学で、その星加くんに会いにいこうとしていた、あの子……西村にしむらさんの、純真無垢むくな笑顔を見せられたら、ね。たとえ他人事でも、胸が痛いじゃない」

 絢女先輩の笑みに、達観たっかんが薄く滲んだ。

「この子は、今から失恋しに行くんだ、って。分かっちゃうとね」

 台詞せりふの重みが、胸に迫る。この言葉を絢女先輩に言わせたことも、ひどくこたえた。俯く私の隣から、感傷を感じさせない冷静な声が、小雨こさめのように降ってくる。

「他人の私でも気づくんだもの。澪ちゃんも、本当は気づいていたんじゃない?」

 絢女先輩の指摘は鋭くて、半端な誤魔化しで私を甘やかそうとはしなかった。私に優しいアリスの甘さを真摯に受け止めた一方で、絢女先輩の言葉の焦がした砂糖みたいなほろ苦さも、今の私にはきっと必要だ。私は、素直に肯定した。

「はい」

 ――『新しい友達とか、恋人とか。大好きになった人のことって、親しい間柄の人に、たくさん話したくなっちゃうわよね』

 バーベキューの日にアリスの言葉を聞く前から、本当はとっくに分かっていた。

 ――巴菜ちゃんは、私に星加くんの話をたくさんしていた。

 ――巴菜ちゃんは、星加くんに私の話をたくさんしていた。

 ――私は、巴菜ちゃんの星加くんへの想いに気づいていた。

 それに、最初は実感がなかったけれど――星加くんの、私への想いにも。『フーロン・デリ』を出たあとで、海沿いの自然公園を一緒に歩いたときから、気づいていた。

 自覚を無意識のうちに封じたのは、私たちがこうなる未来が読めたからだろうか。アリスに打ち明けたフランス語のことだって、同じなのだ。目先の勉強に取り組むことで、将来の問題から目をそむけていた。

「……そう。飲み会の件も、残念だったわね」

 絢女先輩は、私から一通りの話を聞き終えると、大学の学食で私に見せた儚げな微苦笑を美貌にのせた。それから、一転してチェシャ猫みたいににんまりした。

「澪ちゃんは、お人好しね。れられた側が、そんなに深刻に悩むなんて」

「惚れられたって……だって、当事者ですから」

「西村さんが澪ちゃんに言った捨て台詞ぜりふだって、どれも感情的な八つ当たりだって分かってる? あなたには、失礼な発言には取り合わない権利があると思わない?」

「……そうかもしれません。巴菜ちゃんの言葉は、私にとって、ただショックだっただけじゃなくて……もやもやしたから」

 あのときの気持ちを思い出すと、もどかしい気持ちになった。『もやもやした』なんて抽象的な言葉よりも、もっと適切な言葉を知っているはずだ。だけど、今は正しい言葉をあてがわないで、「でも、今のままは嫌なんです」と言った私は、俯いていた顔を上げた。

「今日、巴菜ちゃんは大学を休みました。私をけているんだと思います」

 いつもは教室の後ろの席を選んで座る巴菜ちゃんは、英語の講義を休んでいた。私は勇気を出してスマホに連絡を入れてみたけれど、返信はなかった。この分だと、一緒に昼食を食べる予定の日も、巴菜ちゃんは学食に来ないだろう。

「英会話教室の先生に、『好き』の気持ちは単純じゃないって言われたんです。外国語の単語を一つずつ覚えていく勉強みたいに、人の心もシンプルだったらいいのに」

「人である限り、それは無理よ。澪ちゃんと相沢あいざわくんみたいな関係は特殊だもの」

 絢女先輩は、小さく笑った。記号をうとみ始めていた私が、また記号を恋しがっている心の動きを読み取って、きっと呆れているのだろう。けれど、声音は朗らかだった。

「はっきりと言葉で伝えないと、相手に伝わらないときって多いもの。逆に、言葉で気持ちを確かめ合わないと不安だから、ぞくっぽい言葉で相手から本心を引き出そうとして、言葉を催促さいそくしすぎてしまうことだってあるかもね。……でもね、そんな一般論を思い浮かべる一方で、私は澪ちゃんと相沢くんみたいな、以心伝心の関係が羨ましい」

「え?」

 意外な告白に驚くと、絢女先輩は優しい笑みを見せた。出会ったばかりの頃の絢女先輩は、もっとすきのない笑みしか見せない人だった。私たちの関係も、少しずつ変わってきたのだろうか。いつの間にか距離が縮まっていた嬉しさが、胸の内側を温めた。

「西村さんと星加くんには、澪ちゃんと相沢くんみたいな、相手が唯一無二の存在だということを言葉の形にしない関係が、理解できないみたいだし、私だって、以前に澪ちゃんに話したように、あなたたちのことを変わっていると思っているわ。そういう捉え方をする人のほうが、世間には多いでしょうね。でも、二人の間には言葉がないわけじゃなくて、きっとあるの。その言葉は透明で、私とか、星加くんとか、西村さんたちには見えないし、聞き取れない。だけど、色のついた言葉を二人が必要としたときは、実在感のある言葉を交わせる仲だって信じてる。これが、私が思うあなたたち」

 絢女先輩が、そんなふうに考えていてくれたなんて、思いがけなかった。不意打ちで目頭めがしらが熱くなった私は、なんとか微笑んで囁いた。

「絢女先輩の言葉は、最近知り合った翻訳家の方と、雰囲気が少し似ています」

「翻訳家?」

「はい。英会話教室の先生のお宅へ遊びに行ったときに、文芸翻訳のお仕事をされている方から、翻訳の話を伺ったんです。大学はフランス文学科出身の方で、言葉を大切に扱う考え方が、絢女先輩の考え方に近いのかも」

「そう。素敵な方と出会ったのね」

「はい。おかげで……フランス語の勉強に行き詰まっていたことも、自分の中で認めることができました」

 翻訳家の職にき、フランス文学への愛を語ってくれた高嶺周たかみねあまねさん。私のフランス語に対する不安に寄り添ってくれた、綾木泰彦あやきやすひこさん。さまざまな相談に乗ってくれたアリス。それに――秋口先生と、彗。私の学びは、多くの人たちに支えられている。

「あら、やっぱり勉強に行き詰まっていたのね」

「やっぱりって、気づいてたんですか?」

「なんとなくね。相沢くんの留学先も、本人から聞いていたし」

「……怖かったんです。フランス語と、真剣に向き合うことが」

「そういうものよ。先が分からない未来のことは、怖いもの」

「絢女先輩でも、怖いと思うんですか?」

 私の問いかけに、絢女先輩は微笑で応えた。それから、はっきりと言葉で伝えないと伝わらないという自身の台詞にのっとるように、赤い唇で言葉を紡いだ。

「澪ちゃんは行き詰まっていると言ったけど、大学で単位を取るだけなら問題ない成績なんでしょう? それなのに向上心を背負い込んで悩むのは、その外国語が澪ちゃんの将来に必要だということを、他でもないあなた自身が認めているからよ。苦労をしても絶対に歩きたい道を、自力で見つけたということじゃない?」

 私が、絶対に歩きたい道――午前四時のアトリエの庭で、開花したばかりのミモザの下で、彗が言ってくれた台詞せりふを思い出す。居場所は、どこにだって作れるから。その居場所が海外になるかもしれない可能性を、私は受け止めていたのだろうか。

「苦しむことは、ちゃんと未来を正面から見つめている証拠」

 絢女先輩は、ドアに目を向けた。窓ガラスの向こうは闇色で、街は眠りにつく準備を始めている。何も見通せない夜空に星を見つけるような声が、私の胸を打った。

「大丈夫よ。澪ちゃんは、ちゃんと未来を見ているわ」

 一日に何度も涙ぐむことになるなんて、思いもしない。まぶたの震えを、私は唇をきゅっと噛んで誤魔化した。

 彗に、今すぐに会いたい。毎朝の電話で声を聞いているけれど、居ても立っても居られなくなった。彗からも電話のたびに『できるだけ早く、会って話したい』と言われている。でも、私が次に彗と会うのは、全ての問題に決着をつけたときだ。

 そんな決心を、新たにした瞬間に――カラン、とベルが鳴ってドアが開いた。

 とっさに彗かと思ってしまったけれど、会いたいと念じただけで会えるわけがなくて、今日の最後のお客さんに、私は営業用スマイルを向けようとした。でも、あのときの再現みたいに上手くいかなくて、倉田澪の顔に戻ってしまった。

「星加くん……」

 トパーズ色の髪の男の子は、ばつが悪そうな顔で私と目を合わせると、軽く頭を下げた。はなだ色のゆったりとしたパーカーに黒いチノパン姿で、中華料理のブースまで歩いてくる。腕時計の文字盤のイエローが、流星みたいに目を引いた。

「生春巻きを三つと、エビマヨの残りと、杏仁豆腐を一つで」

「はい」

 乾いた声のオーダーをうけたまわった私は、接客に集中した。お惣菜そうざいをプラスチック容器に移す間、硬質こうしつな沈黙が店内に降りた。お惣菜のブース越しに星加くんと向き合うのは二度目なのに、一度目のときのくすぐったさは見る影もなくて、これが後戻りができないということなのだと理解した。私たちがこうなってしまう可能性を、星加くんだって予期していたはずなのに、それでも私に気持ちを伝えようと決めたのだ。

 絢女先輩に会計を済ませてもらった星加くんは、私からはすの花のロゴが入ったレジ袋を受け取ると、もう一度頭を下げた。

「この間は、ごめん」

 息を呑んだ私の言葉を待たずに、星加くんは「でも」と続けて顔を上げた。

「俺は、半端な気持ちで言ったわけじゃないから」

 ゼミの飲み会で私を助けてくれたときと同じ、真剣な光を湛えた瞳が、私だけを捉えている。星明りみたいにえ渡った眼差しを、本当に欲しがっている女の子の存在を、私は決して忘れない。そのうえで、私は星加くんの眼差しを受け止めた。

「もう一度だけ、倉田さんと話すチャンスが欲しい」

「分かった」

 私は、星加くんの気持ちにはこたえられない。できることがあるとすれば、私だけに向けてくれた特別な言葉に、誠意せいいを返すことだけだ。でも、彗を非難されて心を乱したあの日の私に、それができていたとは思えなかった。

「私も、星加くんに話したいことがあるから」

「……ありがとう。今日は帰るから、また連絡する」

 短く言った星加くんは、絢女先輩にも頭を下げると、『フーロン・デリ』を出ていった。カラン、とベルが寂しげな音色を響かせると、静観していた絢女先輩が嘆息たんそくした。

「一人で大丈夫? 無理して会う必要はないわよ」

「平気です。星加くんは、私にとって、ゼミ仲間の一人で……友達だから。怖くありません」

 もしかしたら、もう友達には戻れないかもしれない。それどころか、私は巴菜ちゃんという新しい友達だって失うかもしれない。それでも、このままは嫌だと言った私の気持ちは本物だ。自分の意思を道標みちしるべにして、二人とそれぞれ向き合うまで、私は友達のことを諦めない。絢女先輩は、やがてくすりと妖艶ようえんに笑った。

「面白くなってきたじゃない」

「絢女先輩ってば……反省したって言ってたのに」

 むくれた私も、少しだけ笑った。大丈夫、と心の中で自分を鼓舞こぶする。

 私は、ちゃんと未来を見ている。

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