3-17 絶対に歩きたい道
午後九時を過ぎて、閉店前の最後の書き入れ時が終わり、色とりどりの中華料理のブースの大半が空になった頃。店内のお客さんが誰もいなくなったタイミングで、レジに立った
「最近は元気そうだったのに、また落ち込んでるみたいね」
「……絢女先輩、少しだけ話を聞いてくれますか」
私がレジ袋の整理をしながら訊ねると、絢女先輩は意外そうな顔をした。今日も入念なメイクで
「珍しいじゃない。澪ちゃんが、私を積極的に頼ってくれるなんて」
「私は……悩み事を抱えたときに、いつも誰かに訊き出してもらってばかりだったから。今だって、絢女先輩がきっかけを作ってくれましたし。でも……こういうとき、せめて自分から話を切り出せるようになっていきたいです」
そんな自分になれたなら、『
「澪ちゃんが話そうとしてることって、あの子のことでしょ?」
あの子――
「大学の学食で、私と絢女先輩が偶然会った日から……絢女先輩は、気づいていましたよね。
「まあね」
絢女先輩は、すんなりと答えた。それから、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「私は、これでも反省してるのよ? 星加くんって男の子が、初めて『フーロン・デリ』に来たときに、面白いことになってきた、なんて言ったこと。澪ちゃんの大学で、その星加くんに会いにいこうとしていた、あの子……
絢女先輩の笑みに、
「この子は、今から失恋しに行くんだ、って。分かっちゃうとね」
「他人の私でも気づくんだもの。澪ちゃんも、本当は気づいていたんじゃない?」
絢女先輩の指摘は鋭くて、半端な誤魔化しで私を甘やかそうとはしなかった。私に優しいアリスの甘さを真摯に受け止めた一方で、絢女先輩の言葉の焦がした砂糖みたいなほろ苦さも、今の私にはきっと必要だ。私は、素直に肯定した。
「はい」
――『新しい友達とか、恋人とか。大好きになった人のことって、親しい間柄の人に、たくさん話したくなっちゃうわよね』
バーベキューの日にアリスの言葉を聞く前から、本当はとっくに分かっていた。
――巴菜ちゃんは、私に星加くんの話をたくさんしていた。
――巴菜ちゃんは、星加くんに私の話をたくさんしていた。
――私は、巴菜ちゃんの星加くんへの想いに気づいていた。
それに、最初は実感がなかったけれど――星加くんの、私への想いにも。『フーロン・デリ』を出たあとで、海沿いの自然公園を一緒に歩いたときから、気づいていた。
自覚を無意識のうちに封じたのは、私たちがこうなる未来が読めたからだろうか。アリスに打ち明けたフランス語のことだって、同じなのだ。目先の勉強に取り組むことで、将来の問題から目を
「……そう。飲み会の件も、残念だったわね」
絢女先輩は、私から一通りの話を聞き終えると、大学の学食で私に見せた儚げな微苦笑を美貌にのせた。それから、一転してチェシャ猫みたいににんまりした。
「澪ちゃんは、お人好しね。
「惚れられたって……だって、当事者ですから」
「西村さんが澪ちゃんに言った捨て
「……そうかもしれません。巴菜ちゃんの言葉は、私にとって、ただショックだっただけじゃなくて……もやもやしたから」
あのときの気持ちを思い出すと、もどかしい気持ちになった。『もやもやした』なんて抽象的な言葉よりも、もっと適切な言葉を知っているはずだ。だけど、今は正しい言葉を
「今日、巴菜ちゃんは大学を休みました。私を
いつもは教室の後ろの席を選んで座る巴菜ちゃんは、英語の講義を休んでいた。私は勇気を出してスマホに連絡を入れてみたけれど、返信はなかった。この分だと、一緒に昼食を食べる予定の日も、巴菜ちゃんは学食に来ないだろう。
「英会話教室の先生に、『好き』の気持ちは単純じゃないって言われたんです。外国語の単語を一つずつ覚えていく勉強みたいに、人の心もシンプルだったらいいのに」
「人である限り、それは無理よ。澪ちゃんと
絢女先輩は、小さく笑った。記号を
「はっきりと言葉で伝えないと、相手に伝わらないときって多いもの。逆に、言葉で気持ちを確かめ合わないと不安だから、
「え?」
意外な告白に驚くと、絢女先輩は優しい笑みを見せた。出会ったばかりの頃の絢女先輩は、もっと
「西村さんと星加くんには、澪ちゃんと相沢くんみたいな、相手が唯一無二の存在だということを言葉の形にしない関係が、理解できないみたいだし、私だって、以前に澪ちゃんに話したように、あなたたちのことを変わっていると思っているわ。そういう捉え方をする人のほうが、世間には多いでしょうね。でも、二人の間には言葉がないわけじゃなくて、きっとあるの。その言葉は透明で、私とか、星加くんとか、西村さんたちには見えないし、聞き取れない。だけど、色のついた言葉を二人が必要としたときは、実在感のある言葉を交わせる仲だって信じてる。これが、私が思うあなたたち」
絢女先輩が、そんなふうに考えていてくれたなんて、思いがけなかった。不意打ちで
「絢女先輩の言葉は、最近知り合った翻訳家の方と、雰囲気が少し似ています」
「翻訳家?」
「はい。英会話教室の先生のお宅へ遊びに行ったときに、文芸翻訳のお仕事をされている方から、翻訳の話を伺ったんです。大学はフランス文学科出身の方で、言葉を大切に扱う考え方が、絢女先輩の考え方に近いのかも」
「そう。素敵な方と出会ったのね」
「はい。おかげで……フランス語の勉強に行き詰まっていたことも、自分の中で認めることができました」
翻訳家の職に
「あら、やっぱり勉強に行き詰まっていたのね」
「やっぱりって、気づいてたんですか?」
「なんとなくね。相沢くんの留学先も、本人から聞いていたし」
「……怖かったんです。フランス語と、真剣に向き合うことが」
「そういうものよ。先が分からない未来のことは、怖いもの」
「絢女先輩でも、怖いと思うんですか?」
私の問いかけに、絢女先輩は微笑で応えた。それから、はっきりと言葉で伝えないと伝わらないという自身の台詞に
「澪ちゃんは行き詰まっていると言ったけど、大学で単位を取るだけなら問題ない成績なんでしょう? それなのに向上心を背負い込んで悩むのは、その外国語が澪ちゃんの将来に必要だということを、他でもないあなた自身が認めているからよ。苦労をしても絶対に歩きたい道を、自力で見つけたということじゃない?」
私が、絶対に歩きたい道――午前四時のアトリエの庭で、開花したばかりのミモザの下で、彗が言ってくれた
「苦しむことは、ちゃんと未来を正面から見つめている証拠」
絢女先輩は、ドアに目を向けた。窓ガラスの向こうは闇色で、街は眠りにつく準備を始めている。何も見通せない夜空に星を見つけるような声が、私の胸を打った。
「大丈夫よ。澪ちゃんは、ちゃんと未来を見ているわ」
一日に何度も涙ぐむことになるなんて、思いもしない。
彗に、今すぐに会いたい。毎朝の電話で声を聞いているけれど、居ても立っても居られなくなった。彗からも電話のたびに『できるだけ早く、会って話したい』と言われている。でも、私が次に彗と会うのは、全ての問題に決着をつけたときだ。
そんな決心を、新たにした瞬間に――カラン、とベルが鳴ってドアが開いた。
とっさに彗かと思ってしまったけれど、会いたいと念じただけで会えるわけがなくて、今日の最後のお客さんに、私は営業用スマイルを向けようとした。でも、あのときの再現みたいに上手くいかなくて、倉田澪の顔に戻ってしまった。
「星加くん……」
トパーズ色の髪の男の子は、ばつが悪そうな顔で私と目を合わせると、軽く頭を下げた。
「生春巻きを三つと、エビマヨの残りと、杏仁豆腐を一つで」
「はい」
乾いた声のオーダーを
絢女先輩に会計を済ませてもらった星加くんは、私から
「この間は、ごめん」
息を呑んだ私の言葉を待たずに、星加くんは「でも」と続けて顔を上げた。
「俺は、半端な気持ちで言ったわけじゃないから」
ゼミの飲み会で私を助けてくれたときと同じ、真剣な光を湛えた瞳が、私だけを捉えている。星明りみたいに
「もう一度だけ、倉田さんと話すチャンスが欲しい」
「分かった」
私は、星加くんの気持ちには
「私も、星加くんに話したいことがあるから」
「……ありがとう。今日は帰るから、また連絡する」
短く言った星加くんは、絢女先輩にも頭を下げると、『フーロン・デリ』を出ていった。カラン、とベルが寂しげな音色を響かせると、静観していた絢女先輩が
「一人で大丈夫? 無理して会う必要はないわよ」
「平気です。星加くんは、私にとって、ゼミ仲間の一人で……友達だから。怖くありません」
もしかしたら、もう友達には戻れないかもしれない。それどころか、私は巴菜ちゃんという新しい友達だって失うかもしれない。それでも、このままは嫌だと言った私の気持ちは本物だ。自分の意思を
「面白くなってきたじゃない」
「絢女先輩ってば……反省したって言ってたのに」
むくれた私も、少しだけ笑った。大丈夫、と心の中で自分を
私は、ちゃんと未来を見ている。
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