2-5 ナポリタンと指輪

 講堂の地下にある学食で食券を買って、列に並んでからフロアを見回すと、約束の相手は窓際の四人掛けの席にいた。お昼時を過ぎているので、あちこちの席がいている。私は、順番に従って食券をナポリタンに引き換えると、トレイに粉チーズの容器と水を載せて、窓際の席へ向かった。

絢女あやめ先輩。お待たせしました」

「全然。こっちの大学で会うのは久しぶりね」

 絢女あやめ先輩は、ほうれん草とベーコンのパスタを食べているところだった。黒いシンプルなニットが、赤いリップの鮮やかさを引き立てている。仕事中と違ってくくらずに下ろされた黒髪が、鎖骨の辺りでつややかに揺れていた。

 通う大学が異なる私たちは、たまにこうして一緒に食事を取る。といっても、私は講義、絢女先輩は掛け持ちのアルバイトで忙しいので、待ち合わせ場所へ先に着いたほうから食事を始めるスタイルが定着している。

 私が大学生になったばかりの頃、彗にこの街を案内してもらったときに、偶然出会ったのが絢女先輩だ。彗と同じ学部に在籍する絢女先輩は、特定の誰かを作らなかったはずの彗が連れ歩いていた私に、興味を持ったのだと言ってのけた。初めて話す奔放ほんぽうなタイプの女性に、当時の私は戸惑ったけれど、彗が繋いでくれた縁が、私に今の生き方を教えてくれた。

「澪ちゃんの大学って、学食が美味しいわよね。今日は日替わりパスタにしたけど、次は激辛担々麵たんたんめんにしようかな」

「絢女先輩って、私に会いに来てるんじゃなくて、よその大学の学食を食べに来ていますよね」

 私の周りには、どうして激辛好きが多いのだろう。彗と絢女先輩のつかず離れずの友達関係は、ひょっとしたら辛い食べ物が繋いでいるのかもしれない。

「そんなことないわよ。じゃあ、来てもらって早々で悪いけど、二時からバイトが入ってるんだ。用件は手短に済ませるわ」

 水を一口飲んだ絢女先輩は、私に着席をうながした。私は、まずトレイをテーブルに置こうとして、眩暈めまいを感じてよろけた。意図せず乱暴にトレイを置いてしまい、粉チーズの容器が倒れる。絢女先輩が、柳眉りゅうびをひそめた。

「大丈夫?」

「……はい。ちょっと、寝不足で」

「……。今日だけじゃなくて、最近、眠れてないんじゃない?」

「……三年生になったら、通う校舎が変わるから、緊張してるのかもしれません」

 どう答えたらいいのか分からなくて、私は安易な言い訳を唇に乗せた。

「絢女先輩。今日はどうしたんですか。『フーロン・デリ』でも会うのに」

「そうね。でも、次に私たちのシフトが重なるのは、だいぶ先でしょ。その前に、澪ちゃんの顔を見たくなったの」

「私の……」

 絢女先輩は、言葉をごうとしていたけれど、困ったように微笑んで、「食べて」と言った。私は、そのとき初めて昼食を頼んだことを思い出した気分になって、夕焼け色のナポリタンに、粉チーズを振りかけた。ウインナーとピーマンは程よく焼き色がついていて、目玉焼きは黄身が半熟で、白身のふちがカリカリだ。粉チーズをミモザの花みたいに散らしながら、目玉焼きが朝食とかぶってしまった、と遅れて気づいた私は、彗の笑顔を思い出す。右腕の故障を乗り越えようとして、嬉しそうに目を細める、彗の笑顔を。

「澪ちゃん。最近、元気ないよね」

「そんなこと……」

「嘘。澪ちゃんが大学三年生になるから、じゃなくて。私たちが――相沢くんが、大学四年生になるから、でしょ?」

 フォークが、目玉焼きを突き刺した。黄身の涙が、赤いナポリタンにとろとろ流れる。黒胡椒と卵黄が絡んだウインナーをフォークで捕まえると、パリッと弾力のある皮の破れ目から、湯気の立った肉汁が零れた。機械的に口に運んだのに、ちゃんと美味おいしく感じられた。お昼時にはお腹がすいて、温かい食事で少しだけ何かが満たされて、やっぱり生きているという感じがした。

相沢あいざわくんは、そういう機微きびに気がつくタイプかどうか、いまいちよく分からないところがあるじゃない。待っていても、気にかけてもらえないわよ?」

「彗は……関係ありません」

 パスタをフォークに絡めた私は、囁いた。嘘をついたつもりはなかった。問題は、私の内にある。トマトソースの塩気と甘みが胸にみたから、いけない、と私は自分の心の奥底に鍵を掛ける。俯いても、不安からは逃げられないと知っているのに。

「……何かを抱え込んでいるなら、早めに対処したほうがいいわ。そういうものは、気がついたときにはもう、自分ひとりじゃ手がつけられないくらいに、重くて動かせなくなっているものだから」

 絢女先輩は、水をもう一口飲んでから、形のいい眉を切なげに下げて笑った。大人の笑い方だ、と私は思う。私がおっかなびっくり進み続けている道の先に、絢女先輩はとっくにたどり着いている。

「絢女先輩は、どうしてそんなに気にかけてくれるんですか」

「だって私、澪ちゃんのことを気に入っているんだもの」

 そう言って笑ったときだけ、絢女先輩の表情はあどけないものになった。こういうふうに不意打ちで見せられる無邪気さに、くらっとしてしまう人はたくさんいるのだろう。以前に海沿いの道を一緒に歩いていた絢女先輩の彼氏のことを思い出して、私は急に、意識が覚醒したみたいに気がついた。

 水のグラスに添えられた、絢女先輩の左手。その薬指から、先日『フーロン・デリ』で見たはずの指輪が、消えている。

「澪ちゃん。私、幸せになるよ」

 立ち上がった絢女先輩は、ベージュのコートに袖を通すと、悠然ゆうぜんと微笑んだ。

「絶対に、今より幸せになる。じゃあね」

 そう言い残した絢女先輩は、いつの間にかからになっていたパスタの皿を載せたトレイを持って、返却台へ行ってしまった。ちょうど隣のキャンパスで講義が終わったところなのか、いていたはずの学食が混み合い始めている。色とりどりの私服の大学生たちの波の中へ、絢女先輩の姿が消えていく。少しひりひりする思いやりの言葉という、微かな道標みちしるべを私に残して。

 私の名前は、澪標みおつくしの澪。その言葉の成り立ちを教えてくれた人のことを、私は考える。あの午前四時の世界から歩き出すと決めたなら、もっと、ちゃんと、自分の一歩に自信を持ちたい。不安の正体は、分かっている。だけど、まだ勇気が足りなかった。

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