二九章 妹たちへ

 深夜の紫条しじょう

 藍条あいじょう森也しんやは酔いつぶれて高いびきをかきはじめたトウノを寝室のベッドの上に放り出して、毛布だけは掛けてやって放置したあと――いくら女性、それも、潜在的には第一級の美女とは言え、自堕落じだらく不摂生ふせっせいなマンガ家生活のせいですっかり体線がゆるんでいる上、男の前で平気で酔い潰れるようなじらいゼロの『おばさん』相手とあっては、気の迷いすら生まれはしない――リビングでひとり、本を読んでいた。

 わざわざもってきた本ではない。この家にはいまでも月に二、三回はやってきて、家事をこなしたついでに泊まっていくので、いつでも読めるように手ごろな本を何冊か置いてある。そのなかの一冊を引っ張り出して読んでいるのだ。

 普段、使っている客間を今日はさくらが使っていることもあって、このまま本を読んで夜明かしするつもりでいる。

 別にめずらしいことではない。本を読んでいるうちに明け方になっていた、などと言うことはよくあることだ。いつの間にか寝落ちしてしまうこともいまだによくある。ポット一杯分のウバ茶を用意して長期戦の構えである。

 鮮やかな赤の水色の、パンチの効いた紅茶をちびちび飲みながらページをめくる。

 静かにドアの開く音がして、なかからひかるが姿を現わした。

 「あの……お兄ちゃん」

 おずおずとした様子でそう言いながら近づいてくる。

 リスやウサギと言った小さな動物たちのプリントがいっぱい付いたかわいらしいパジャマを着ている。小学生の女の子の着るパジャマとしては普通だろうが普段の、年齢以上にしっかりしたイメージからすると、意外な寝間着姿と言える。

 ――こういう年相応のところもあるのか。

 と、思わされるギャップ萌え満載のその姿。その破壊力ときたらもう……。

 一目見て襲いかかる人間がいたところで誰も責められはしないだろう。いや、もちろん、法的には処罰を受けることになるわけだが、心情で言えば男女を問わず、

 ――これは、仕方がない。

 と、納得するにちがいない。

 それほどに可愛らしく、愛らしい姿なのだった。

 まして、『お兄ちゃん』などと呼びかけられては……。

 潔癖症の面倒くさがりで、付き合いぎらいで、引きこもり体質で他人にふれるのがきらいな森也でさえ、内心の衝動を抑えるにはかなりの努力を必要としたほどだ。普通の男だったらひとたまりもない。

 「どうした?」と、森也は本を閉じながら尋ねた。

 ひかるは遠慮がちに、それでも甘えた様子で言った。

 「さっき……怖い夢、見ちゃって。一緒に寝てくれる?」

 小さな手でパジャマの胸元をキュッとにぎり、上目遣いにそう尋ねる。

 天性の小悪魔。

 そう言うにふさわしい態度だった。

 それでも動じることなく手を出そうとしない森也の態度は自制心を褒められるよりも、『ヘタレ!』という世の男たちの罵倒を受けるものだったかも知れない。

 鋼鉄の自制心の持ち主なのか、それとも、単なるヘタレなのか、ともかく森也は動くことなくひかるに告げた。

 「さすがに、それはもうだめだ。お前も小学五年。一一歳。例え、本当のきょうだいであっても男と一緒に寝ていい年齢じゃない。まして、おれは血統的には赤の他人なんだ。もう一緒に寝たりすることは出来ない」

 「でも……前は一緒に寝てくれたし、お風呂だって入れてくれた」

 「あの頃はまだ五、六歳だったからだ。いまになって同じことは出来ない」

 「でも……」

 ひかるは意を決したように言った。

 「わたし……お兄ちゃんの妹だよね? 本当の妹がいるからって、わたしのこと、邪魔にしたりしいわよね?」

 『怖い夢』と言うのはそのことだったのか。

 世にも可愛らしい顔に不安をいっぱいにたたえ、目には涙を溜めながらそう訴える。

 森也は立ちあがった。ひかるに近づいた。その前にひざまづき、視線の位置を合わせた。静かにひかるの目を見つめ、真摯しんしな口調で語りかけた。

 「ひかる。お前には感謝している。お前はおれがはじめて出会った『守るべきもの』だ。トウノ姐さんからお前の世話を頼まれて、生まれてはじめて自分より弱いものを守る立場になった。何があろうと逃げ出すわけにはいかない。お前に頼ることはもちろん、出来ない。お前を守りながら自分でやらなければならなかった。ずっと引きこもりで、人並みのことなんて何もしてこなかったおれがだ。そのなかでたしかにおれは人間として成長した。お前のおかげでおれは一人前の社会人になれた。人間は他の人間と関わることでしか成長出来ない。そのことを思い知った。それを教えてくれたのがお前だ。お前はおれの恩人だ。そして、これまでも、これからも、何があろうとお前はおれにとって守るべき対象であり、大切な妹だ。おれはお前のことを愛している。何があってもそれはかわらない」

 その言葉に――。

 ひかるは思いきり森也に抱きついた。

 森也もまた『兄』としての愛情を込めてひかるの華奢きゃしゃな体を抱きしめた。そんなふたりの様子を――。

 客間のドアの向こうから、さくらがひとり、うかがっていた。

 そして、翌朝。

 ご飯に目玉焼き、サラダ、カラフル野菜たっぷりの具だくさん味噌汁という、トウノの趣味にあわせた和風の朝ご飯を用意して食卓を囲んだ。

 ひかるはすっかりいつもの様子を取り戻し、よく食べ、よく話し、よく笑った。さくらの方も昨日のようにいちいち突っかかったりせず、遠慮しているかのようにおとなしくしていた。その様子を見てトウノは森也に耳打ちした。

 「あのふたり、すっかり角突き合わせる感じがなくなったわね。あーくん、例によって何かしたわけ?」

 例によってとはどういう意味だ、と一応、尋ねたあと、

 「どっちも、もともと他人に突っかかるようなタイプじゃないだろう」と、それだけを言った。

 「ふうん」と、トウノは少々はしたなく箸をくわえたままニマニマ笑う。

 「……なんだ、その目は」

 ベ~つ~に~と、わざと間延びした調子で言うと、

 「あーくん、そういうところがほんと、質悪いのよねえ」

 と、いかにも『意味深いみしん』といった視線で告げた。

 「だから、それはどういう意味だ?」

 森也はじろりと先輩であり、雇い主でもあるマンガ家を睨んだが、雇い主はそれには答えず『おとなの笑み』を浮かべたまま森也特製の朝食を平らげたのだった。

 そして、昼近く。

 森也とさくらはそろって帰ることになった。

 朝食後、『最近、徹夜続きだったから』という理由で、母親が再び眠りの園に引っ込んでしまったので、ひかるがかわりに玄関まで送りに来ている。もっとも、母親がいてもやはり、見送りには来ているわけだが。

 「じゃあね、お兄ちゃん。また今度ね」と、まるで次のデートの約束でもするかのような口調で言う。

 それから、さくらに視線を向ける。

 「さくらお姉ちゃんも」

 『お姉ちゃん』と、わざとその一言を強調して告げる。

 その言葉を宣戦布告と受け取ったのだろう。さくらはニッコリ微笑みながら答えた。

 「『さくら』でいいわよ、ひかるちゃん」

 ひかるちゃん、と、こちらも『ちゃん』を強調して返事をする。

 すると今度はひかるがニッコリ微笑む番だった。

 「わたしも『ひかる』でいいから」

 ――怖い。

 と、森也でなくても思ったことだろう。

 ともかく、ふたりは帰路についた。森也の運転する車の助手席に座りながらさくらはポツリと呟いた。

 「お前のおかげで成長できた、か」

 「……やっぱり、聞いてたか」

 「気付いてたの?」

 「今朝の態度を見ればおおよその見当はつくさ」

 「……ごめん」

 「謝るならおれではなく、ひかるだな」

 そうだね、と、とさくらは呟いた。

 「ひかるは……」

 森也は昔を思い出す口調になった。

 「母ひとり、子ひとりだったからな。おまけに母親はマンガ家で生活は不規則そのもの。と言うより、完全夜型で昼間は寝てばかり。そのせいで、ひとりきりでいることが多かったらしい。まだ、ほんの五、六歳の身でな。周りにいるのは担当編集や、アシスタントといった、仕事でやってくるおとなばかり。子供心に遠慮して接していたんだろうな。すっかり、超の付く『良い子』になってしまった。それが、なぜか、おれにだけは子供らしい態度を見せてな」

 多分、他のおとなたちよりは歳が近かったし、おれは精神の成長が遅いからな。子供の本能で自分に近い存在だと感じたんだろうが。

 森也はそう付け加えた。

 「ひかるにしてみれば、おれだけが自分をさらけ出せる相手だったわけだ。お前を見て、自分の立場を奪われるのが怖くなったんだろう」

 それに、と、森也は付け加えた。

 「うすうす感じてもいるんだろうな。中学生になったらもう世話役をやめると言うことも」

 「やめちゃうの?」

 「当たり前だろう。女子は中学生となったらもうれっきとした女だ。男のおれでは世話は出来ない。だからこそ、『女の先輩』としてお前を引き合わせたんだが……」

 「そうだったんだ」

 それからしばらくの間、ふたりは黙っていた。

 沈黙を破ったのはさくらの方だった。

 「でも、兄さんにとってもあの子は大切な存在なのよね? あの子のおかげで一人前の社会人になれた……」

 「ああ。その通りだ」

 「……うらやましい」

 ポツリと、さくらはそう呟いた。

 「その役、あたしがやりたかった」

 うつむきながら、さびしそうにそう呟くさくらに向かい、森也は告げた。

 「おれが一番苦しかった頃、何をしてもうまく行かなかった頃、おれを支えてくれたのはお前だよ。お前がいたからこそ、おれは折れそうになる心を必死に支えて、やり遂げることができた。お前がいなければおれはいまだにニートの引きこもり。お前にこそ感謝している。恩人と言うならお前が第一の恩人だよ」

 そして、と、森也は付け加えた。

 「お前がおれのたったひとりの血をわけた妹であることはかわらない」

 「でも……」と、さくらは気を取り直したように言った。

 「兄さん、ひかるには色々、教えたのよね。あたしには何も教えてくれなかったくせに」

 「……まあ、お前にできなかったことをひかるにしてきたって言うのはあるが」

 キッと、さくらは森也を睨み付けた。

 激しい口調で言った。

 「こうなったら! ひかるに教えたこと、あたしにも全部、教えもらうからね!」

 「……わかったって」

 きょうだいを乗せた車はゆっくり、のんびり、走りつづける。

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