Ⅱ. 哀し、悲し、愛し。
近頃、男の飼い主である若旦那はずいぶんと機嫌がよろしくないようであった。
その証に、屋敷内で言いつけられた雑務を中断させられてまで、今日も男は真っ昼間から埃っぽい物置の奥で若旦那の相手をしている。
「はあ。つまらない、つまらない。お前の顔も一等つまらない。どこぞの
「……う……っぐ……」
若旦那の言うクロアゲハとは彼の妹君である、あの死にたがり少女のことを指す。
脂汗と埃と、僅かばかり滲んだ血にまみれて苦痛に歪みっぱなしな己の醜い顔が、少女の人形のような顔と同じとは、到底思えない。
男はそんなことを思いながら、若旦那によって蹴っては踏みつけられる腹の痛みや、肋骨が酷く軋む衝撃に耐え続けた。
「だが、つまらない顔もまた一興か。お前たち二人の顔は、結構気に入っているのだよ。まるで、蟲のようでな?」
蟲の顔が、人間でも見たことも無いような顔をするのが見たいのだ、と若旦那は男の顔をブーツの靴底で転がしながら言う。どうやら若旦那は、男と妹であるあの少女の顔に何やらたいそうこだわりがあるらしく、いつもそのようなことを零していた。
(それにしても……また、しつこい)
男は呻きを嚙み殺し、内心でそうぼやく。そろそろ、痛みを通り越して感覚がなくなってきた。今にも気を失ってしまいそうだったが、ここで気絶して身体を放置すれば、明日に響く。だから男は、何度も意識が飛びそうになるのを堪え、ひたすらに早く時が過ぎるのを祈る。そして——
がしゃん。不意に、そんな音が唐突に耳を刺した。その音に若旦那は動きを止めると、踵を鳴らして物置の出入口へと向かう。男は思わず長い息を吐き出して、そのまま耳をそばだてた。
「また部屋を抜け出したか。……何をやっている」
「見ての通り。兄様の蟲の標本箱を、壊しました」
聞こえてきたのは、予想だにしない凛と透き通る声——あの少女のものであった。
死にたい。その言葉以外を紡ぐ少女の声があまりにも珍しくて、男は浅い呼吸の音も煩わしく思い、息を止めて耳を澄ます。
「いつもわたしたちになさるように。兄様の真似をしてみたのです」
「……何だと?」
「兄様が、
途端に、人間の身体が打ち付けられる鈍い音がした。
少女の声が曇って、小さな唸りを上げる。
どさり。同時に床に何かが倒れる音が響いて、何度も、何度も——何度も、人間の身体が殴打されるような。聞き慣れた音が連続した。
(まさか)
男は居ても立っても居られない様子で、鉛のように重く感じる身体を引き摺る。歯を食いしばって何とか上半身を持ち上げると、近くの石壁に寄り縋って起き上がった。
それだけでも全身から苦痛の悲鳴が上がるが、その苦痛を少しでも逃すために肩で大きく息を繰り返す。そして、ようやく落ち着いてきたところで伏せていた視線を上げると——すぐ目の前に、白いドレスを点々と赤く染めた少女が音もなく佇んでいた。
鼻血だろうか。少女の顔の半分には、粗く拭われた血の跡が広くこびりついている。絹のように滑らかなはずの黒髪はぼさぼさに乱れ、引っ張られたようなあとが見られた。
おそらく、既に去った若旦那にやられたのだろう。
散々殴られては蹴られたのだろうに、少女は相変わらずの無表情で、荒々しく呼吸を繰り返す男を冷たい炎の眼で見下ろしていた。
「何を、しているの」
死にたい。それ以外の言葉も本当に喋れたのか。改めて男はそんなことを思ったが、普段は自分の言葉に一切応えもしない少女に何やら上から問いかけられているのが気に喰わなくて、低い声で悪態を吐く。
「見てわからんのか? ……今、虫の居所が悪い。……何しに来た、クソ女」
そう言って、毛を逆立てた獣の如く警戒色をあらわにする男に、少女は重ねて静かに問いかけた。
「どうして、ここから逃げ出さない」
「ああ?」
「あなたの身体は父よりも兄よりも遥かに逞しく、大きい。普段の動きを見る限り、身体能力も常人より優れているはず。ならば、こんな屋敷からも容易く逃げ出せるはずでしょう。だというのに、どうして——この屋敷にとどまる? どうして兄に縛られ、されるがままでいるの」
男の息があからさまに詰まった。
誰がお前などに、そんなことを語って聞かせるものか。そう思ったのも束の間、血によって紅を引いたように染まった男の唇からは、細い吐息と共に本音がぽろろと漏れ出る。
「罰を、受けねばならないからだ」
「罰?」
何故だ。何故、今になって——心が、こぼれる。よりにもよって、こんな人形のようで無感情な少女相手に。
男は己の心を形にし始めた唇を止めようと片手で抑えるが、それでも心はとめどなく溢れ続けた。
「母は俺を産み落として死んだ。父は母を殺した俺を嘆いて、俺と共に心中しようとしたが……湖に沈んだのは父だけで。俺は、父まで殺した。それに俺の眼は〝悪魔憑き〟で……魂のかたちが視えた。生者も死者も、俺のせいで湖に縛り付けられた父の魂も。それを語ると兄姉たちを怖がらせてしまった。俺は必ず誰かを殺し、不幸せにするよう産まれてきたようで。たぶん、産まれてきてはいけなかった。罪、なんだ。——それがわかっても、どうしても生きてみたかった。生きたくて、たまらない。それならば、何かしら罰を受けて生きねばならん。だから」
「そう」
徐々に震えて、血反吐を吐くように引き攣れていった男の声を、少女は柔らかい声で短く遮る。男は、そんな少女の声を聴いたのは初めてであった。思いがけず、恐る恐るといったように少女を見上げると、男は殴られて腫れあがった眼をこれでもかと大きく見開く。
「ばか。あなたは、ばか。ばかで、無知で——なんて……かな、しい」
ぼた。ぼた、ぼた。
冷たかったはずの炎の瞳が、熱く燃え上がって、溢れて——全て、炎の水の珠と成って、溶け出してしまうのではないか。そんな、咄嗟に両手を差し出して受け止めたくなるほどの大粒の涙を少女は無数に零して、泣いていた。
まるで、呼吸ができなくて藻掻いているかのように。少女は苦しそうに、痛そうに、鼻水まで垂れ流して——それでも凪いだ水面の如く、おそろしいほど静かに泣き続ける。
男は、ひどく焦った。
魂を削りだすように吐き出した、己の心の苦しみも忘れて。目の前で、ただただ辛そうに泣き続ける少女を見ていると、自分も呼吸が上手くできなくなる。
いったい、どうすれば、いい?
「は……はあ? おいおいおい……なぜ、お前が泣く」
何とか絞り出した声は変に裏返ったし、自分でも意味が分からない言葉であった。
これではまるで、己が泣きたいようではないか。
いたたまれなくなった男は、傷塗れな己の身体の痛みも忘れて、少女を彼女の部屋まで何とか送り届けてその日を終えた。
結局、少女が若旦那の虫の標本箱を壊しに来た理由も。突然男の前で泣き出した理由も、何一つわからなかった。
しかし、一つだけ分かったことがある。微塵の感情も匂わせない、人形のようだと。顔色一つ変えることもできない、蟲のようだと。そう、己と若旦那が喩えていた少女は、きっと誰よりも心が豊かで繊細で——十四年、確かに人としての生を生きてきた、ただの〝少女〟であったのだと。
心より、痛感したのだ。
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