第7話:高橋家のダイニング

 バスを降り、自宅へ足を向ける。

 曲がり角。もう戸締まりした暗い事務所のガラスに、私が映った。


「可愛いってさ」


 速度を緩め、自分の格好をあらためて眺める。

 ラベンダー色のもこもことしたニット。足首まで隠す真っ白なフレア。お気に入りが褒められれば、もちろん嬉しい。


 コートだけはグレーで地味。次にお金が貯まったらいいのを買おう。

 などと考えたせいか、モデルが仏頂面で良くない。嬉しいのなら、もっと普通に笑えばいいのに。


 男の子に服を褒められるのは初めてだった。その部分、きっと鷹守は特別な感性の持ち主なのだろう。

 だからあんなに、おじさんおばさん達に受け入れられるのかも。


 無理やり、笑顔を作ってみる。

 気持ち悪い。不細工で不器用なガラスの女から目を背けた。


「ただいま」


 家の前に着いたのは午後六時過ぎ。もうすっかり夜の暗さ。バス通りに比べると、テナントの灯りも人影もなくなった。

 だからと言って平々凡々とした私に、なんの危険もあるはずがない。


 道路から駐車場を横切り、階段へ。上りきった左右に、同じ色と形の玄関扉がある。私が開いたのは右の扉。

 鍵はかかっていなかった。ただいまと言って、誰の声も返らない。

 短い廊下を三歩で過ぎ、扉を開けるとダイニング。灯りを点け、続く自分の部屋に半ば駆け足。


 四十秒でゆうべのパジャマに着替え、ダイニングへ戻った。

 うちの夕食は午後八時ころ。料理の時間はまだ十二分にある。安かった時にたくさん買った挽き肉を、冷凍庫から取り出した。


 ——三十分も経ったろうか。コンソメとケチャップの香りがキッチンに立ち籠める。

 たぶんそのせいで、父と母の部屋の扉が開いた。


「なんの匂い?」

「ロールキャベツ」


 スンスンと鼻を鳴らし、ゆうべと同じパジャマの母が顔を出す。

 私はちらと視界の端に見て、用もなく鍋の中を突き回す作業に戻った。


「どこか行ってたの」

「友達のとこ」

「誰」

「後田さんっていう女の子。同じクラスの」

「ふぅん。あんた、友達なんて居たの」


 およそひと月前も同じことを問われ、同じことを答えた。色々な意味でなんと言っていいか分からず、苦笑でごまかす。


「遊びに行くなとは言わないけど、変なことしないでよ。恥ずかしい思いするのは、お父さんと私なんだから」


 これも繰り返し、一年に何十回聞くのかというセリフ。

 変なことって、たとえばなんなのだろう。たぶん万引きみたいな犯罪や、母が言うところのツッパリみたいな人と関わるなってことと推測はつくけど。


 質問したって、そんなことも分からないのかと笑われる。分かりきっているから聞いたことはない。


「うん、分かって——」

「あ、そうだ。ゼリーまだ残ってたよね、取ってよ」

「あるよ」


 私の返事に要求を被せ、母はダイニングテーブルに座った。自慢の髪を撫で回し、丁寧にシュシュで縛りながら。


 今は火加減を見ているだけで、別に構わない。冷凍庫からゼリーを取り出し、百均のデザートスプーンを添えて運ぶ。


「あれ、マスカットのやつないの?」

「ないみたい」

「私が好きなの知ってるでしょ。取っておいてよ」

「私は食べてな——」

「まあいいわ、オレンジもおいしいし」


 ちょっと高級そうな貰い物のゼリー。ビニールの蓋を力任せに剥ぎ、母は迷いなくぱくついた。


 好きな物があるのはいいことだ。胸に溜まった息を鼻から噴き出し、私はキッチンへ戻る。

 と言ってもあとは白菜を温野菜にして、ツナ缶と和えるだけ。父の帰宅までは、普通に高校生らしく宿題を済ます。


 七時五十分ころ、玄関のチャイムが鳴った。私が鍵を開けに行って迎え入れ、すぐにロールキャベツを温め直す。

 父は洗面所で手と顔を洗い、そのままテーブルに着いた。


「いい匂いと思ったけど、ロールキャベツか。さすがうちのメシは安っぽいな」

「だって直子が作るんだもの」


 隣り合って座る両親が、今日一番の笑声を上げる。


「ごめんね、あんまりレパートリーがなくて」

「いいっていいって」


 毎月の食費は、きちんと三万円ずつ貰っている。

 私に特別な料理の才能でもあれば。若しくはテレビで取り上げられるような、超お得な店が近所にあれば。

 肩を窄め、普通に謝るしかない。


「もっと安くておいしい物が作れるお店、探してみるね」

「ん? まあそう堅苦しく考えるな。腹に入れば一緒だ」


 建築系の仕事をしているからか、父はなんでも豪快に笑い飛ばす。

 ざんばら髪を除けば、あのつるつる頭のおじさんと見た目が似ているなと思い出した。身長は私より低く、ちょっと不思議な感じがする。


「ねえ、これ合い挽き?」

「そうだけど、変だった?」


 空っぽの胃袋へ流し込むように食べる父。対して母は、お箸で触れた物の一つずつを鼻先へ運ぶ。


「別に変とは言ってない。普通はなんだったかと思っただけよ」

「そっか、良か——」

「それよりさ、聞いてよ。今日パートの最中にね」


 休憩込みで五時間。母は週五でイーロンモールに通う。

 お仕事中、なにかあったらしい。事の大小はあれ、話題のない日に覚えがない。

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