床屋にて

令狐冲三

第1話

 女は床屋のドアにもたれかかった。


 雨を吸った大きすぎるトレンチコートは、重いだけで、冷たくなった身体を少しも暖めてはくれなかった。


 ひどく気分が悪そうだ。ずぶ濡れの上、少々飲みすぎたらしい。


 小ぶりの唇がわずかに開き、弾むような息が漏れている。


 立てたコートの襟から時折のぞく耳は真っ赤だった。


 女は固く目を閉じ、細い睫毛をわななかせながら、重いドアを押し開けようとする。



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 午後になって客足の途絶えたフロアを、古びた石油ストーブが暖め続けている。


 自分の髭まですっかり剃ってしまった床屋は、暇に任せて新聞を隅から隅まで読み返していた。


 雨の街は薄暗く、ついに一日中街灯の消えることはなかった。


 土砂降りの空は黒い雲に覆われ、曇った窓から仄白い表の明かりがぼんやり見えた。


 床屋は入口近い待合所の明かりだけを残し、他は全部消して、バーバーチェアの前の大きな鏡にカバーをかけた。


 こんな夕方に髪を切る者はない。


 しんとした静けさと、時折聞こえるアスファルトと車輪の間で引き裂かれる水の音が、神経をひりひりさせる。


 床屋は首の後ろをポンポン叩き、マイルドセブンをくわえた。

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