(12)

 気が付くと、遥人は光に包まれながら菜月をまだ抱きしめていた。無意識にズボンのポケットにしまい込んだ先ほどの紙をゆっくりと取り出す。折りたたんだ紙を開こうとして、ふと、裏面の端に小さな文字が書いてあることに気づいた。


(これは……)


 体の感覚がなくなってくる中で、僅かに見える視界をそこに集中する。そこには、小さな文字で、短い言葉が書かれていた。


『大人になった私と遥人へ

 かぐや姫の名前は菜月、相手の男の人の名前は遥人でいいですか?』


(バカ……お前、それを10年も待ったのか——)


 遥人はそれを見て、小さく笑うと、静かに息を吐いて言った。


「もちろん……かぐや姫の名前は菜月、その相手は遥人に決まってる。……ずっと前から、僕は菜月のことが好きだったから」


 一瞬、また意識が遠ざかるように感じた。もう痛みは全く感じないが、菜月の頬と触れた遥人の頬に、確かな感触があった。心の奥にじわじわと沁みこんでくるような感覚。遥人は残る力を振り絞ってさらに菜月の体を抱きしめる。すると、目を閉じた遥人の体に、菜月の頬から、体から、その触れている全ての場所から、信じられないほどの温かいものが一斉に沁み込んできた。


「遥人——あなたの心は、本物だった」


 菜月が顔を上げた。彼女の瞳からは、次々と涙が溢れ出していた。月の光で照らされたその涙は、キラキラと宝石のように輝いている。その大きな瞳は、すぐ目の前で真っすぐに遥人の瞳を見つめていた。


「私……ずっと、不安だった。私はいずれ月姫になるって、小さい頃から聞かされてた。だから、周りの人達が私に優しいのは、いつか月姫になる私だからじゃないか。それとも私に優しくするように記憶を変えられたからじゃないかって。……そして、一番大切な遥人でさえ、私は疑っていた」


「菜月——」


「月姫が選ぶ月命は、月姫には変えることができない、本当の記憶と、心を持ってる。そうじゃなければ、その人間は月命になることはできない。だから、私が月姫になる時に、月命として遥人を選んだ。私がずっと好きだった遥人だから。私をずっと好きだと言ってくれている遥人だったから。そして、あなたの心が、月姫の力で変えられていない、本当のものであることを確認したかった。だから、かぐや姫の話にメッセージを残したの」


「バカ……菜月……そんな訳……」


 遥人は菜月の髪を何度も撫でながら、自分もいつしか涙が止まらないことに気づいた。そうだ。彼女は10年後の成人式で、遥人とそれを確認したかったのだ。


 菜月はきっと成人とともに月姫になる。だから、成人式の時には、月命が存在しているはずだ。もし、遥人が菜月の事を好きだという気持ちが、月姫によって作られたものだったのなら、その時、遥人は月命になっていないことになる。


「ごめん……菜月が月姫になる時、僕は傍にいてあげられなかった。そのせいで、菜月を深く悲しませてしまった。……本当にごめん」


 自分の意志ではなかったとは言え、あの時、遥人は彼女を裏切ったのだ。彼女から離されてしまい、その正しい記憶を戻すことができなかった。だから、彼女は心を固く閉ざした。その孤独感と空虚感を想うと、彼女の体をもう一度強く抱きしめる。彼女の頬の温かさが、自分の心の深くまで届くような気がした。


 その時、ふと、菜月の右手の指輪に触れた。彼女から体を離すと、遥人は菜月の両手を握りながら、2人の目の前まで引き上げた。黒い石は菜月の右手の中指で光を帯びて輝き続けている。


「この指輪って……月姫の証なんだよね?」


 頷く菜月の前で、自分の右手を使い、ゆっくりとその指輪を外す。不思議そうに彼女がその様子を見つめている。


「じゃあ、これは今日から、僕が菜月の月命であることの証だよ」


 そう言って、菜月の左手の薬指にその指輪をそっと付けていく。指輪は菜月の薬指で輝きを増して、2人の顔をさらに白く明るく照らしていく。その輝きを受けた菜月の表情が、みるみるうちに明るく笑顔になり、その顔をこちらに向けた。その笑顔は、この村のどの向日葵よりも明るく、眩しく、そして美しい。


「遥人……ありがとう」


 笑顔の菜月の瞳から落ちる宝石の欠片を指でそっと拭う。心のある、暖かい雫。長い年月を経て、2人の心は今こそ本当に一つだ。


「この世界は、穢れてばかりじゃない。美しい世界を創るのは、大切な人を想い、支え合う気持ちだよ。僕と菜月なら、きっとできる。それにもう、僕達はその気持ちを絶対に失うことはないから」


 目の前の菜月が大きく頷く。


「『かぐや姫』は、ハッピーエンドの話になったね……」


 笑顔で言う菜月に、遥人はそっと唇を重ねた。そして、菜月をもう絶対に離すまいと強く抱きしめる。すると、夜空の大きな満月の光が輝きを増して真っすぐに地上に注ぎ込み、辺り一面がそのまま光の中に包まれた。

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