(4)

 再び車に乗り時計を見ると、いつの間にか8時もかなり過ぎていた。真っ暗な中を車がガタガタと未舗装の道を走っていく。


 母は無言だった。車が音を立てて揺れる中、遥人はチラっと運転席を見る。車のメーターの薄明りに照らされた母の瞳が輝いて見える。彼女はそれを隠すように軽く指で拭うと、口を開いた。


「鳥井先生のこと……光人から聞いたわ。それに、光人が先生を通じてお前の記憶を何とかしようとしていたことも。でも、私も先生が月命だとは知らなかった。私達、嘉月に監視されてたから、光人は私にも秘密にしてたのね」


「そうだったんだ」


「先生が月命だったとすると、その相手だった月姫というのは、もしかすると私の前の前の月姫かしら。私、少しだけその人のことを覚えているわ」


「そうなの?」


「ええ。私がまだ小学校に入った頃だったかな。お正月か何かで竹内の一族が本家に集まった時に、その人も来ていたの。羽月はづきさんって言う人なんだけど、ちょうど二十歳になる少し前だったと思う。凄く綺麗な、そして底知れない何かを感じる人だった」


「底知れない……か」


「羽月さんは私と同じように竹内の分家の一つの出身だったんだけど、成人前から凄い力があるって言われていたらしいの。それで、二十歳になると同時に月姫になった。そして、その相手が、鳥井先生だったっていうことね」


「じゃあ、先生は何度もこの村に来ていたんだね」


 そう尋ねると、母はため息をついた。


「いや……たぶん、最初の一度だけよ」


「えっ? だって儀式は毎月あるんでしょ」


「行方不明になったの」


 母の言葉にハッと息を呑んだ。


「本家の意向もあったみたいだけど、まだ学生だった鳥井先生が気に入らず、父親が無理に別の人と結婚させようとしたらしくて。表向きは重い病気で闘病が辛かったって言われてるけど、いつの間にか姿を消したみたいでね。山奥にある滝の近くに靴があったらしくて、たぶん、自殺したんじゃないかって言われてる」


「そんな……」


「羽月さんが姿を消してから、しばらく鳥井先生は村には来なかった。ようやく来たのは、大学で光人と知り合ってからよ。先生と羽月さんのことは、ごく一部の人以外には知られていなかったし、先生はすごい熱意もあったから、私達の世代より若い人の中では結構受け入れられたわ。先生も、羽月さんのことがあったから月姫の仕事のことを良くは思っていなかっただろうし、その仕事以外で村を何とかしたいと思ったんでしょうね」


「確かに、先生の研究室には、たくさんの研究ファイルがあったよ。僕が貸してもらったもの以外は、たぶん全部燃えてしまっただろうけど」


「そうよ! 先生は、真面目に村を良くしようと思っていただけ。そんな人が被害者になるなんておかしいのよ」


 母がハンドルを握る手が強くなった。


「お前の記憶が戻り、それにより菜月の記憶が戻されることを、嘉月は一番恐れている。もう、カモフラージュの時間も過ぎたから、菜月には私たちがこの村にいることも分かってしまう。だから、嘉月は私達を捕えようと人々を操るはずよ。もう後戻りはできない」


 そのとおりだ。既に遥人の記憶が戻ってしまった今、もう後戻りはできないのだ。


 車が林の中を抜けた。真っ暗な空に輝く満月が姿を現した。斜面に何も植えられていない土地が一面に広がっている。その時、母の左手の指に、月の光を受けて輝くものが見えた。


「母さん……それ、指輪?」


「ああ、月の石ね」


 母がチラっと自分の指に目をやって答えた。


「これは月姫が昔から代々受け継いできたもの。一度月姫になった者が死ぬまで持つの。そして、その人が死んだら真月神社に奉納し、次の月姫が生まれる時にそれを譲り受ける。この石は、月の力を受けて月姫の力を強めるものだと言われているんだ。——本当かどうか疑わしいけど、一応、月からもたらされた石だと言われてるから」


「そう言えば、菜月もそんな感じの指輪を付けてたような気がする」


「うん。そうだと思う」


 母はため息をついた。


「そういえば、私は結婚してから月姫になったから、光人に貰っていた結婚指輪を、この指輪に変えたのよ。あれはもったいなかったなあ」


 母は少しだけ笑った。それを見て心の中でホッとする。遥人は昔を思い出してみるが、母の指輪を気にしたことは無かったので、その黒い指輪にも記憶がない。


「それにしても、お前と菜月の記憶の鍵は、何なんだろう?」


 母の言葉を聞いて改めて考えてみる。そもそも遥人の記憶の中に菜月の姿がない以上、彼女と共通の大切な記憶が何だったのかを考えることは無理だ。


「母さんは、菜月の事で何か気になっていた記憶はないの?」


「そう言われてもね。……ずっと、お前達と一緒にいた訳でもないし」


 ため息をついて窓の外を見た。その時、道端の看板が目についた。


『向日葵畑 展望台方向』


 ふと、母に声を掛ける。


「ねえ母さん、展望台に行ってみようよ」


 頷いた母はハンドルを切って、再びアクセルを踏む。ほどなくして、車は造成された砂利の駐車場に停まった。


「車は降りないで。私たちの居場所が見つかりやすくなるから」


 母の注意を受けて、ドアノブにかけた手を慌てて引いた。


 外は少し風が吹いていて、時折、車にも強い風が当たり、ガタッと音がする。そう言えば、車内の空気も、この前来た時よりも、確実に冷たくなっているような気がする。


「遥人。鳥井先生から預かったファイルを私にも見せて」


「あっ、ちょっと待って」


 遥人はリュックの中からファイルを取り出す。資料の中身は古そうなものもあるが、ファイル自体は更新しているようでまだ新しい。母がファイルのページをめくり始めたので、車窓から外の風景を眺めた。


 遠くに南アルプスの山々が、薄暗く形を作っている。手前の方には黒い雑木林が見え、そこまでの畑地には、向日葵がまだ残ってはいるものの、薄暗い中で見えるその数は、前より減っているような気がした。次第に季節が変わっていく。やがて秋を過ぎれば、向日葵は枯れ、また何もない緩やかな斜面だけが残る。その光景を想像してから、遥人は窓から空を見上げた。


(満月だ——)


 大きな光り輝く月。銀色の静かな光が、冷え込んできた空気を伝って、辺り一面を照らしていた。それはこの村を、この国を、この世界を照らし続け、土にも、川にも、山にも、人にも、同じだけ降り注いでいるのだ。その月の光を見つめていると、自分がそこに吸い込まれてしまいそうな気がする。いや、吸い込まれそうになっているのは、体ではなく心だ。月姫のことを知った今となっては、その輝く光さえ自分の心を怪しく乱していくような気がして、思わず手をかざしてその光を遮る。


 その時、同じように菜月が月を見上げていた姿をふと思い出した。それは、彼女とこの場所で再会した時だ。あの時はまだ三日月だったが、彼女はじっとその月を見上げていた。


 いや、それだけではない。


(母の占いで見たあの風景も——)


 その場所は、この向日葵畑だった。今よりもおそらく早い夕方の時間帯で、空が薄暗くなってきた頃だと思うが、空にかかった大きな満月を彼女は見上げていた。彼女は月を見上げて、遥人に何かを伝えようとしていたようだったが……。


 あの風景に遥人は記憶がない。しかし、鳥井先生から借りたあの広報誌の表紙はそれに似たような写真だった。遥人がその写真を撮ったのなら、その時に彼女と一緒にいたことになる。もしあの夢が遥人と菜月の本当の記憶だったのなら、それは唯一、まだ遥人が覚えているこの村での彼女との記憶だ。もし、それが大切な記憶なのだとしたら、彼女の伝えたかった事は、一体何だったのだろうか。


 すると、ページをめくっていた母が「あれ?」と言った。


「どうしたの?」


「この写真……菜月じゃない?」


 そこには、滑り台の前に立った鳥井先生と少女が並んで写っていた。小学校の中学年くらいだろうか。茶色のワンピースを着た少女は、言われてみると菜月によく似ている。その写真を見ていて、ふと気づいた。


「この菜月が抱えているものって何?」


「えっ? ちょっと見せて」


 母が顔を近づける。そして、ああ、と言った。


「ああ……これはかぐや姫の本ね」


「かぐや姫の本?」


「古い本で、子供が読むにしては難しい感じだったんだけど、菜月はどういう訳か、これをよく読んでたわね」


 それを聞いて遥人はハッとした。


「そういえば、この前、菜月を家まで送った別れ際にも、菜月はかぐや姫の話をしていたんだ。かぐや姫が、この世界を穢れているとしか思えなかったのなら、彼女は可哀想だと。菜月は、『かぐや姫』のことを凄く気にしていたみたいだった」


「かぐや姫が、可哀そう——」


 母は呟くように言うと、フロントガラスの方を向いて黙ってしまった。 


「どうしたの?」


「そういえば、菜月が小さい頃、そんなような事を言っていた気がする」


「えっ! どういうこと?」


 遥人は尋ねたが、しばらく母は考え込んで、ため息をついた。


「ダメ……思い出せない。……そうだ! 聞いてみよう」


 母はそう言うと、スマホを手にして電話を掛けた。


「あっ。今、どこにいますか? ……小学校? じゃあ、ちょうどよかった。これから行きます」


 母は電話を切ると、すぐに車のエンジンをかける。


「行くわよ。菜月の思い出を探しに」

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