(9)

 結局、母は「この辺を歩いてみたい」ということだったので、アパートから大学構内に歩いて入り、そのままブラブラと散歩しながらホテルの方に歩いていった。大学構内からは駅周辺まで長く歩道が整備され、周りも公園として整備されている。その途中には博物館や病院などの公共施設も揃っていて、家族で遊ぶ姿やウォーキングをする人々の姿も多い。その途中で、昔、万博があった時の名残りの施設を見学し、再び歩道を歩いていくと、もう夕方になっていた。


 ホテル近くのファミレスで夕飯を食べて、再びホテルのロビーまで戻ってきた時だった。


「ありがとう。おかげで結構歩いて運動になったし、この辺りの感じも分かって良かったわ」


「うん。明日はどうする?」


「いいよ。あんまり長居しても悪いし。適当に帰るから、特に見送りもいらない」


 母の今の生活はおそらく規則正しい訳ではない。居酒屋だからどうしても夜型になるし、休みも不定期だ。遥人が幼い時から母はそういう生活なので、起きる時間も遥人より遅いことも多かった。


「そうだ! お前、手を出してごらん」


「えっ? どうして」


「最近ちょっと、手相にハマってるの。見せてよ」


 母はフロントのロビーに置かれたソファに座り、遥人にその隣に座るように言った。昔から占いは信じないという訳ではないが、その行為自体が無理に自分をその方向に誘導されるような気がして、苦手なのだ。ただ、これから母とはまたしばらく会わないだろうと思うと、そこまで拒否するのも憚られた。


 ソファに座って、母の方に右手を伸ばす。


「ちょっと目を閉じてみて」


 言われたとおり、そっと瞳を閉じる。すると、母の手が遥人の左手にそっと触れた。


(温かい——)


 そのロビーがエアコンの効いた涼しい場所だったためなのか、母の手が妙に温かく感じる。目を閉じているためか、体のバランスがよく分からなくなり、まるで体が浮いているような気もする。


「終わり」


 母の声が聞こえたので、少しずつ瞼を開ける。寝起きのように、まだぼんやりとした頭のまま、隣にいる母の方に顔を向ける。


「母さん?」


 母はソファに深く体を沈めて、大きくため息をした。なぜか硬い表情でじっと前を向いている。


「どうしたの? 何か良くない結果?」


 もう一度、声を掛けると、母はハッとしたようにこちらに顔を向けた。


「ごめん……何でもないわ。大丈夫」


「本当に?」


 母の様子に、なぜか不安になって尋ねると、母は首を振った。


「人間ってさ。1人じゃ生きられない存在なんだよ」


「えっ……?」


「確かに1人で生きてるって思ってる人もいるよ。でも、そんなのはまやかしだ。嬉しいことはその嬉しさを、悲しいことはその悲しさを分かち合う。そうすればきっと、幸せな記憶がどんどん強くなって、自分の心を穏やかにしてくれる」


 母は遥人の方を見ないままに話を続ける。


「大人になるってことは、自分と一緒に、そういうことが出来る人間を見つけることなんだよ」


「それは——」


「大丈夫。お前にとってのそういう人間は、きっとそばにいるよ」


 そこで初めて母は遥人に笑顔を向けた。それは確かに笑顔だったのだが、その奥にどこか違う感情があるような気がした。母は何かを隠している。しかし、それを尋ねたとしても、母は絶対に何も答えてくれないような気もした。そういう不思議な笑顔だった。すると、母はもう一度ため息をついて立ち上がった。


「ごめん……。ちょっと疲れたわ。もう、部屋に戻るね」


「うん」


「そうだ、遥人」


「何?」


「これだけは約束して。困ったことがあったら、必ず私に連絡するって。私はこれでも、お前の母親なんだから」


 母はそう言って遥人をじっと見つめた。遥人より身長の低い母からの睨むような強い視線にドキッとする。


「分かってる」


 遥人がそれだけ答えると、母は満足そうに笑ってから、「じゃあね」と言ってエレベーターに乗り込んだ。



******



 自宅アパートに戻った遥人は、シャワーだけを浴びると、ベッドに横になった。帰りもホテルから歩いてきたせいもあって、体も疲れ切っていた。


 スマホを見ると、友恵から「お母さん、楽しんでくれた?」とメッセージが届いている。それに返信すると、スマホをベッドの端に置いて、部屋の明かりを消した。暗い部屋の中で、すぐに深い眠りに落ちていく。


 次第に深い闇の中でユラユラと揺られながら、ゆっくりと沈んでいくような感じがした。その心地良さに体を任せていく。すると、不思議なことに、どこからか、風が吹いてきたような気がした。


 ゆっくりと目を開ける。するとそこに、夕方のような茜色の空が見えていた。


(夢か——)


 夢を見ている自分自身を意識するのも不思議だ。そう思いながら起き上がってみると、そこは草むらで、どうやらそこに横になっていたらしい。周りを見回すと、正面に高い山脈があり、その向こうに既に日が沈んでいるようで、空だけがまだ茜色に染まっている。その茜色も少しずつ藍色に変わっていく。間近には茶色の山がそびえ立っていて、ここはその山から続く山麓のような場所だ。山間地であることは間違いないが、不思議なほどにその空が広く感じられる。


(どこだろう?)


 その風景には全く記憶がない。そこで、立ち上がってもう一度周りを見回すと、薄暗くなってきた視界に、何か黄色のものが視界に入った。その黄色は目の前に大量に広がっている。


向日葵ひまわり……?」


 思わず口に出した。それは緩い斜面に生えている大量の向日葵だった。改めて見ると、周りには一面に向日葵が咲いている。大きく育った向日葵は、どれも薄暗い空に向かってその花を向けている。


 すると、その向日葵畑の中ほどに作られた道の先に、誰かが立っているのが見えた。


 遥人は無意識にその方に足を進めていく。こちらに背中を向けて立っているその人間は、黒く長い髪を風に揺らしている。女性だと思って、足を止めた。


 すると、彼女が空を見上げた。遥人もその同じ方角の空を見上げる。そこには、銀色に輝く大きな満月が昇っていた。いつの間にかすっかりと日も暮れてしまい、暗闇となった地上に、その満月からまるで銀色の光の雨が降り注いでくるようだ。


 その時だった。


「遥人。お願いがあるの」


 彼女が振り返る。その瞬間、強い光が視界を遮り、強く目を閉じた。




 再び眼を開けると、カーテン越しに外の陽射しが入って来ていた。手を伸ばしてスマホの画面を見ると、朝7時だ。


 体を起こして周りを見回す。そこは間違いなく自分の部屋だ。立ち上がり、カーテンを開ける。そこから見えるのは、見慣れた学生街のアパートが並ぶ風景だ。


(さっきの夢は……?)


 単なる夢なのだろうが、目覚めた後も妙に頭に残っていた。向日葵が大量に咲いているような山間の場所に行った記憶は無いのだが、そこにいた後ろ姿の女性は、遥人に声を掛けてきた。しかし、彼女が誰なのかも全く分からない。


 ただ、胸だけが不思議なほどドキドキと高鳴っていた。

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