(2)

 法学の試験は学内でも一番大きい階段型教室で行われていた。久々にシャーペンで大量に文字を書いたので指先が痛い気がする。試験が終わり、教室からは次々に学生達が出ていく。遥人はスマホを取り出して画面を見た。そこに届いているメッセージに返信してから、立ち上がって教室を出た。


 社会学部系の主な講義が行われる第一学部棟は学内でも一番古い建物だ。少しずつ建て替えてはいるようだが、まだ全体的に古い感じが否めない。コンクリート造りの建物を歩いて外に出ると、強烈な陽射しが注いできた。大半の試験は先週までに終わっているが、この法学の試験は論理的な記載さえできれば単位が取れるという人気科目なので、受講者も多く、この試験を最後に夏休みに突入する学生も相当いるはずだ。外では晴れ晴れとした表情で学生達が話している姿が目に付く。遥人も午後の社会学の講義さえ終われば事実上は夏休みになる。その講義も試験ではなく、毎回出席の証拠として、講義に対する意見や感想を記載するだけなのだ。


 晴れやかな気持ちで遥人はペデを北に向かって歩き始めた。中央図書館と教授たちの研究室のある研究棟の間を通った先には、右手に第二学部棟、左手に第三学部棟が建っている。第二学部棟はどちらかというと文系学部、第三学部棟は理系学部に主に使われている。第二学部棟は文系ということもあるのだろうが、女子学生の割合が多く、その建物からは女子学生達が話しながら外に出てきている。遥人はその第二学部棟に向かっていくと、声を掛けられた。


「遥人! こっちだよ」


 大声を上げて手を振る女子学生に手を挙げて応えながら、遥人はその方に歩いていく。


「遅いよー。結構待ったよ」


「ごめん。でもさっきまで試験でさ」


 遥人が答えると、彼女は「行こう」と言って隣に並んだ。彼女の名前は隅田友恵。農学部の2年生で、遥人と同じ学園祭実行委員会に属している。


「友恵はまだ試験あるの?」


「ないよ。先週までで終わってる」


 どうりで晴れ晴れとしている訳だと納得しながら、学食の方に歩いていく。自販機で食券を買い、注文口に並んだ。今日は日替わりパスタがなすときのこの和風パスタにサラダも付くらしいので、それを選んだ。


 パスタとサラダをトレーに乗せて歩いていくと、奥の方のテーブルで友恵が手を振っているのが見えた。その方に歩いていきながら食堂内を見渡す。学食は第一から第三までの各学部棟にあるのだが、この第二学部棟の学食が一番雰囲気が明るい気がする。それも学食内の女子の割合が高いためなのかもしれない。各テーブルでは女子数人に男子が囲まれている姿もかなり見られ、気のせいかもしれないが、男子だけのグループの方が少ないように思える。


 友恵の座るテーブルまで来ると、そこにもう一人、女子学生が座っていた。


「結構遅かったわね、遥人」


 フフっと笑いながら津野唯奈が言った。彼女は国際学部2年の優秀な学生で、やはり同じ学園祭実行委員会に属している。


「津野さんのノートのおかげでかなり書けたよ。ありがとう」


「良かった。じゃあ今度、駅までの送迎よろしくね」


 唯奈はそう言って笑顔を向けた。唯奈からは、例の法学の講義のノートの写しを貰う代わりに、彼女が出かける際に自宅アパートから最寄り駅まで車で送迎する約束をしていた。友恵も座って「いただきます」と言って、目の前の鶏の照り焼きに箸をつける。


「ユイはもう少ししたら帰るの?」


「うん。今週末には帰るかな。ウチでバイト頑張るわ」


 友恵の質問に唯奈は笑顔で答えた。唯奈の実家は東京下町の寿司屋で、彼女は去年も夏休み中のほとんどを実家で過ごしながら店を手伝っていた。去年、友恵たちと数人でその店に様子見に行ったのだが、さほど席数はないがかなり繁盛していて客も多かったので、結局、昼の時間を外した休憩時間に店内に入れさせてもらった。彼女の父である大将は、細身の唯奈からは想像もつかない体の大きな男で、弟子も数人いたようだったが、あのように新鮮なネタの寿司は初めて食べさせてもらった気がした。


「友恵はどうするの?」


「私? ……そうねえ。一応、お盆前後には帰るかな」


 彼女はさらっとそう答えてご飯を口に入れた。友恵はその話をしたがらないが、彼女の母親は彼女が受験生の頃に病気で亡くなっているらしい。彼女の実家は広島県で、まだそこには妹が2人いて父親と暮らしているそうだ。母親は亡くなるしばらく前から入院生活だったらしく、その間は友恵が家事をかなり手伝っていたようで、意外なほどの料理の腕前を持っている。


「私、今年はバイトも結構忙しそうなのよね。なかなか新人が集まらなくて。まあ、その分は稼がせてもらうけど」


 少し黙ってしまった3人の中で、友恵が明るく言った。


「遥人はどうするの?」


「そうだな……僕もバイトかな」


 そう答えながら、改めて何も予定のないことに気づいた。コンビニの深夜バイトは大体週2回はシフトに入っている。去年の夏もそうだったが、夏休みといってもバイトを長く休む学生は少ない。どこかに旅行に行くからシフトを交替して欲しいというような依頼がたまにあるくらいだろう。


「実家には帰らないの?」


「どうするかな……」


 遥人は少しそこで考え始める。すると、友恵が言った。


「もしお母さんに会ったら、この前のお礼をよろしくね」


「お礼?」


「犬ヶ崎のこと。服を貸してくれたでしょう?」


 ああ、と言いながらその時のことを思い出す。委員会では毎年春先に、海からの日の出に学園祭の成功を祈願するというしきたりがあり、千葉県の東端にある犬ヶ崎灯台がその目的地となっている。今年、「気合いを入れる」ために、友恵は着替えもないのにその近くの海に自分から飛び込み、びしょ濡れになった。まだ早朝で店も開いていないので、たまたま実家が近かった遥人が自宅に友恵を連れて行き、母の服を貸したのだった。


「あの時はびっくりしたわよ」


「そう? また行きたいけどね」


 そう答える友恵に唯奈は呆れ顔を向けた。

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