冬(後)

 ネレア、一度目の冬②



 魔術師学校、などというところに、自分が足を踏み入れることになろうとは、夢にも思っていなかった。入り口の門からなかなかに壮麗な造りで、中で学んでいる生徒たちの様子も、興味深い。できればもう少し、ゆっくり見物できるような状況で、ご訪問させていただきたかった。私はため息をつく。

 運動場と呼ばれているらしい、だだっ広い空間に突っ立ち、ゆっくりと辺りを見回す。

 私を呼び出した相手は、まだ姿を現していないようだった。


『ネレアさん』


 その時ふいに、耳元で声がした。慌ててもう一度周囲を見回すが、人影はない。


『ごめんごめん。今ちょっと、使い魔に俺の声だけ、届けてもらっているんだ。俺は、ケイン。覚えてるかな?カイトの友達で、赤毛のチビの。ここの、教官なんだけど』


 どこかで夫に、紹介された気がする。夫と同じような、気楽な話し方の、明るい笑顔の青年だった。


『時間がないから、要点だけ言うね。ネレアさん、君が呼び出された、この話は、相当、筋悪だよ』


 私は軽くうなずく。もちろん、分かっていた。


『このままだと、どう転んでも、カイトと君には、いい結果にはならない。魔術を扱う人間と、生身の人間が、同じ土俵で勝負をするというのは、どだい前提から、間違ってる』


 ケインさんの声には、心配と、怒りの響きがある。


『もし、こちらに任せてくれるなら、俺たちの方で始末をつける。ものすごい筋悪物件が関わってるから、全く無傷ってわけにはいかないと思うけど、君が真っ向からタイマン張るよりは、ましだと思う』


「お気遣い、ありがとう」

 私は微笑んで答える。


「でも、大丈夫です」

『え』


 相手が絶句した空気が伝わってくる。

 その時、目の前に、幼さを残した華奢な少女と、数人のローブをまとった男たち、そして、王宮の官僚の紋章を付けた男たちが現れた。

 時間切れだ。私は腹の底に力を入れる。


「私は、まだ、近衛中隊長、カイト・ハーンベルグ卿の妻なので。売られた喧嘩は、買わせていただきます。武人の妻の、名にかけて」



 カイト、一度目の冬②



「いくら何でも、無茶苦茶だ」


 俺は怒りのまま、全力で馬を駆る。久しぶりに、腹の底から噴き出した怒りはどうにも制御がつかなかったし、つける気もなかった。


「ネレアに何かあったら、あいつを、殺してやる」




 俺が悪霊の霊障にやられるのは、珍しいことじゃない。ただ、今回は妻が関わっていたということで、とにかく俺に構いたがる厄介な王太子が、しゃしゃり出てきたらしい。簡単に言えば、離婚命令だ。

 あいつら王族にとって結婚というのは、必要に応じて相手をとっかえひっかえする、ある種の道具でしかない。そして、王太子にとっては、俺の結婚は、おもちゃみたいなものだろう。良かれと思って、とうそぶく姿が目に浮かぶ。

 いくら王太子の身であっても、本来他人には、俺たちの婚姻をどうこうする権利はない。正当な権利を行使して、離婚命令を拒否したネレアは、王太子の仲立ちの「決闘」を申し込まれていた。相手は、魔術師学校に「花嫁修業」に出ているという、ご令嬢。俺の妻の座をかけた決闘、だそうだ。魔術の心得があり、俺を守れる女性こそが、妻にふさわしいという言い分らしい。おおかた、出世に目がくらんだ貧乏貴族が、王太子に娘を差し出したものだろう。

 「決闘」の結果は、絶対的なものとして扱われる。

 突っ込みどころが満載過ぎて、にわかには信じがたかったが、あのクソ兄貴なら、やりかねない。よっぽど、暇をもてあましていたのだろう。



 「決闘」の日取りは、あろうことか、俺が目を覚ました当日だった。


 魔術師学校の門に駆け付け名乗りを上げた時、遅かったことが分かった。現れた赤毛の友人、ケインが、苦い顔で顎をしゃくる。瞬間、俺とケインは、「決闘」の場、運動場の片隅にいた。


 「魔術の花嫁修業中」のお嬢さんの掌の上に、水の玉が浮いていた。それは、ひゅるひゅるとゆっくり動いて、何やらふわふわ浮かんでいるカエルのようなものに向かって飛んでいく。しかし、途中で掻き消えた。

 ローブをまとった男たちが、一斉に頭を抱える。


「あの使い魔を消せた方が、決闘は、勝ちらしい。ただ、あのお嬢さん、へたくそすぎて、お抱え魔術師たちも細工のしようもないみたいだ」


 ケインの口調は明らかに笑いをこらえている。それから、彼は不意に真顔になった。

 少女が引き下がり、代わって、浮かぶカエルの前には、ネレアが立っていた。


「使い魔ってのは、要は、精霊だ。普通の人間の攻撃で、何とかできる相手じゃない」


 ケインは、顔をしかめて俺に告げる。


「初めから、勝負の結果は決まってる」


 どうすりゃいいんだ。俺は、絶望に唇をかむ。




 ネレアは、いつも俺が見ている姿とは、まるで違っていた。近衛隊士の隊服に近い、動きやすそうな服装をしている。長い栗毛は、きれいにまとめられていた。

 微かに目を眇め、腰を落とし半身になる。その完璧な構えに、思わず俺たちは見惚れる。

 ふいに空気が動き、彼女の右脚が美しい弧を描きカエルに叩き込まれた。しかし、その蹴りはそのままカエルを通り抜け空を切る。俺は思わず呻く。

 瞬間。

 回し蹴りの途中のネレアの右手から、何かが空を切った。


「ぐ」


 魔術師たちの一番後ろにいた男が、崩れるようにうずくまる。

 目を戻すと、ネレアの前のカエルは、消えていた。

 うずくまった男は、右手を押さえ苦悶の表情を浮かべている。

 ネレアの右手から、ひゅるひゅると何かが空中を舞っていた。

「鞭……」



「さっすが、師範代!」


 突然、俺たちの後ろからはしゃいだ声が上がる。振り向くと、ふわふわの金髪に緑の瞳、人形のように美しい少女が、目をキラキラさせて立っていた。

 その少女は、おもむろに俺たちを押しのけて歩き出し、居並ぶ男たちの前に仁王立ちになると、芝居がかった様子でふふん、と鼻を鳴らし、ぴしりと指を向ける。


「あなたたち。今の勝負、この、魔術師筆頭2家の片翼、アニサカ家の次期当主エリザベス・アニサカがしっかり見届けました。ネレア・ハーンベルクは、確かに使い魔を消し、『決闘』に勝利しました。……間違いないわね。嘘ついたら、王様に、言いつけちゃうんだから」


 男たちは顔を歪めている。言葉を発するものはなかった。

 俺たちは、ひそひそとささやき合う。


『あの子は何者だ』

『簡単に言えば、魔術師界の偉いさんだ。王太子と同等程度には、権力がある。ああ見えて、武闘派だから、ネレアさんと、知り合いだったんだろう』

『……で、これは、何が起きたんだ』

『使い手が戦闘不能になったことで、使い魔が消えたんだ。……しかし、使い手があいつと、よく見切れたな』

『なあ、……あの手、折れてたよな』

『折れてたな』

『彼女、全然、本気出してないよな』

『出して、ないだろうな』


 ネレアは、ただ淡々とした表情で、鞭をまとめていた。

 それから目を上げると、真っ青な顔で震える「花嫁修業中」の少女と、男たちを見据える。


「王太子殿下に、お伝えください。私は確かに、魔術を扱える身ではありません。知らなかったとはいえ、夫の霊障の契機となる行動をとってしまったことも、事実です。……私は、カイト・ハーンベルク卿の妻として、ふさわしい人間ではないのかもしれません」


 俺はこぶしを握り締める。


「でもそれを決めるのは、夫と、私です。あなた方では、ありません」


 そうして、完璧な立ち姿で一礼すると、静かに、彼女は運動場を立ち去った。



 ネレア、1度目の冬③


 

「いや、大した奥方様だ。爺は、おみそれいたしましたよ」


 爺やの鼻の穴がこれでもかというくらい膨らんでいる。このまま昇天してしまうんじゃないかしら、私は少々心配になる。


「爺さん、いい加減、寝た方がいいよ。話は明日、もう一回、しっかりしてやるからさ……」


 カイトが、何とか老人をなだめようと必死になっている。ふいにそのカイトの背中がかがみこみ、激しく咳き込み出した。あまり性質たちの良くない咳だ。


「それでは、おやすみなさいませ」


 我に返ったように、突然、爺やは一礼すると、あっという間に部屋から退いた。

 カイトは、しばらく同じ姿勢で、深呼吸を繰り返す。


「……悪いな」

 まだ少し青白い顔で、私を振り向いて彼は笑う。


「いいえ。……大丈夫?」

「ああ。もう大元の霊障は、抜けているから」


 固い笑顔のまま、彼は言う。


「ネレア。……いろいろ、ごめんな」


 私は、彼の額に浮かび上がった汗を眺める。この世に、これほど日々難儀な思いをしている人がいるとは、私は知りもしなかった。


「隠しているつもりはなかったんだけど、俺の憑依体質が、君にこんな迷惑をかけるだなんて、思いもしなくてさ。というか、あのクソ王太子が、ここまでやるとは、さすがに想像できなかった」


 少し血の気の戻った顔で、カイトはつぶやく。


「あの人は、根っからの悪人ではないんだけど、思い込みが激しくてさ……」


 ふう、と彼は息を吐き、耐えきれないようにソファに横たわる。


「それに、今回の霊障が、まさかひと月も続くなんて、考えもしなかった。普通は、数日で、戻れるからさ。心配させたくなくて、使用人たちに、俺が口止めしていたんだ。……普通に考えて、夫が突然1か月音信不通とか、あり得ないよな。……もう、こんな厄介事の多すぎる男とは、縁を切りたいかな……」


 いつの間にか、いつものさらりとした響きの声に戻り彼は言い、私を見つめる。

 私が黙っていると、ふいに彼は瞳を緩めた。


「……それにしても、今日のあれ、めちゃくちゃ気持ちよかったな」


 こらえきれず私たちは噴き出す。


「……ごめんなさい、黙っていて」


 幼少のころから、私は父から、様々な武術を仕込まれてきた。生まれ持った素質が合っていたのか、教えられたほぼすべての戦闘技術で、私は最高階級、師範代の免許を得ていた。手練れの魔術師の方々とどうかは分からないが、手習てならい程度の魔術をお使いになるお嬢さんに、自分が負ける想像が、私には全くできなかった。


「君が強いのは、知ってたよ」


 カイトは、心底愉快そうにつぶやく。


「君は覚えていないだろうが、俺は、王宮に入った10歳の時、お父さんの道場で、君にボコボコにされたんだ。とんでもない世界に足を踏み入れたと、身体で実感したよ。下町の番長の虚勢なんて、一瞬で吹き飛ばされて、一回死んだくらいの、衝撃だった。あの時、それまでの自分が知らなかった、本物の『道』の世界、積み上げられた叡智の世界ってのがあることを、俺は教えられたんだ。言ってみれば君との出会いは、俺の、二度目の原風景なんだ……」


 必死に言葉を紡ぎながら、彼は力尽きるように眠りに落ちていく。


「この家のみんなも、きっと、分かってたよ。君の仕草はいつも、常人でない美しさだから。……ずっと、君を、見ていられたら、俺は、……」


 そのまま眠りについた彼の横顔を、私はしばらく、ただ眺めていた。

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