カイト、一度目の秋



 アプローチには、胸がすくような清涼な香りが、ほのかに漂っている。人影はないようだ。

 以前とは見違えるような豊かな緑と、鮮やかに色づく草花たちを眺めながら前庭を通り抜け、家の脇を通り、裏庭に足を踏み入れる。

 妻となった人は、裏庭の木陰で何やら作業をしていた。没頭しているらしいその真剣な横顔に、歩み寄りながら俺は声をかけるのをためらう。


「おかえりなさいませ」


 それでも、すぐに俺の足音に気づき、彼女は手を止めて立ち上がった。頬に土の擦れた跡が見え、俺は思わず微笑む。


「そのままやっててくれていいよ。顔を見に来た、だけだから。すぐに王宮に戻る」


 彼女は少し、残念そうな顔をする。一人で夕ご飯を食べるのはつまらないよな、俺は申し訳ない気持ちになる。



 彼女にこの家に住んでもらうようになってから、俺の都合のつく日はいつも、この家で夕食を共にする習慣になっていた。近衛隊士というのは厄介なもので、24時間勤務があり、勤務時間がやたらと不規則なのだ。その上、中途半端に階級が上がると、部下の勤務変更の調整がつかないと自分が穴埋めに出る羽目になり、ヒラの頃よりむしろ勤務の負担が上がる。まさに中間管理職の位置にいる俺は今、無駄に忙しい。

 夜勤、早番、遅番と、普通の時間にベッドにいられることが多くはないため、二人が同じ寝所に入るのは、月に数えるほどだ。爺やあたりはやきもきしているが、俺と彼女にとっては、もちろんそれは好都合だった。さすがに毎日ソファーで寝るのでは、俺の身体が持たない。


 彼女は、何かの植え替えをしているようだった。


「そういえば、前庭、なんだかいいにおいがするね」


 少々手持無沙汰で、腰かけたベンチに落ちていた木の葉をくるくる回しながら、俺はその背中に話しかける。


「気づいて下さったのね。うれしいわ」

 予想外に弾んだ声で、彼女が振り向く。


「お好きな、香りですか」

「……そうだね」

 俺はどぎまぎと答える。


「甘すぎる花の香りは、苦手とおっしゃったので。前庭には、金木犀はよして、ハーブを中心に植えてありますの」


 かろうじて分かる花の名前に、俺はあいまいに頷く。とりあえず、彼女が俺を気遣って、庭の植物を選んでくれていることは分かった。それは、望外なことだった。


「何か、この家に帰ると、元気が出るな」


 俺はつぶやく。彼女がにこりと微笑んだ。


「お好きな花は、ありますか」


 なぜか少し思い切った感じで、彼女が俺に問いかける。


「花……ではないかもしれないけど、今の季節だと、透かし鬼灯ほおずきっていうんだっけ、あれが好きだな。儚くて、可愛くて」


 この時期ときどき、王宮の控えの間に飾ってあった。初めて見た子供の時、その不思議さとかわいらしさに俺は興奮したものだ。

 少し意外そうな顔をして、彼女が頷いた。


「出来かた、ご存じでいらっしゃるの」

「……いや」


 ふふふ、彼女が声を出して笑う。花が咲いたみたいだ、俺は思う。


鬼灯ほおずきの、ガクの部分を、虫が食べてしまうんです。葉脈だけが、きれいに残ってあんな風に」

「へえ。……この庭は手入れがいいから、できそうもないね」


 なんか変なもの、好きって言っちゃったな。俺はぼんやりと彼女の微笑んだ口元を眺める。


鬼灯ほおずきは、この家の庭には、ふさわしいかもしれませんね」


 最後の彼女のつぶやきは何故だかひどく寂しく聞こえ、俺の胸はツキリとする。

 




「……帰ってない?」


 秋の終わりの風の冷たい日、夕食直前に家へ戻ったところへ聞かされた女中頭の言葉に、俺の胸はざわついた。


「家を出たのは、何時いつなんだ。供は連れて行かなかったのか」

「申し訳ありません。奥様はいつも、お供を嫌われておりまして」


 女中たちはおろおろと前掛けを引き絞る。


「いつも?」

「……はい。毎月、同じ日にお出かけに」

(月命日か)


 ギリ。俺は無意識に唇をかむ。


「……探しに行く。俺が出ている間に彼女が帰ってきたら、普通に出迎えて、先に食事を摂らせてくれ」

「殿下。いけません。今日は新月です」


 飛び出してきた爺やが俺の馬の轡を取ろうとする。俺は構わずに飛び乗ると、馬の首を返した。

 何とか息を整えながら、馬を駆る。

 あの家で共に過ごすようになってから、彼女の笑顔は自然になって来たと、思っていた。彼女は心を込めて、あの庭を作り上げてくれていた。俺は、油断したのだろうか。距離を、詰め過ぎたか。


(今、考えても、仕方ない)



 彼の名の刻まれた墓所がどこにあるのか、俺は知っていた。

 あの時に殺された魔術師たちは、遺体は戻ってこなかった。墓石の下には、ただがらんと空洞があるだけだ。それでも、彼女は、今でも毎月そこへ、通っている。

(……いた)

 墓石の前にうずくまっている背中を見つけた時、安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになりながら、俺は認識する。

 ああ俺は、この人のことが好きなんだな。多分もう、ずっと前から。

 これは、愛情というものとは少し違う。これまで俺の知っていたふんわりと暖かなものではなくて、もっと針のように鋭く胸を貫く、ひどく苦しい感情だ。俺は多分、生まれて初めて恋をしている。――妻となった人を相手に。

 それなら俺はただ、ずっと、この人の扉をノックし続ける。今は、どんなに固く閉じられていようとも。自慢じゃないが、格好悪いことには、慣れっこだ。

 俺は深く息を吸うと、彼女に向かって歩き出す。



 ネレア、一度目の秋



 どうしてかは分からないけれど、その日私は、墓石の前から動けず座り込んでいた。

 徐々に冷たくなっていく風に身が震える。帰らなくては。……帰る。どこへ?同じところで、思考がぐるぐると回り続ける。自分の弱さに、吐き気がする。

 その時、背後に砂利を踏む足音が聞こえた。


「ここにいたのか」


 夫である人の、いつものさらりとした感触の声がした。近づいてくる足音から、彼だということは分かっていた。身動きできない私の隣で、彼は墓地の地面にどさりと腰を下ろして胡坐をかく。行儀に頓着のないのもいつものことだ。

 しばらく、沈黙が落ちた。彼は黙って、墓石を眺めていた。ふいに優しく背中に手が置かれる。人の、温かみ。不本意ながら、背中からゆっくりこわばりがほどけていくのが分かる。


「よっぽどいい男だったんだろうな、君の……『フィアンセ』は」


 彼の声は変わらず静かだった。


「俺も、会ってみたかったな」


 ぽつりと夕闇に言葉が落ちる。それは地面に吸い込まれる前に、ゆっくりと地を這い私を包む。

 私も、会いたいです。声に出さずに私は思う。

 そう。私は、今でも、ただ会いたいのだ。もう一度、あの人に会いたい。

 もう一度、私の名を呼ぶあの人の声が聞きたい。私の頬をくすぐるあの人の指に触れたい。そのためだったら、私は何でもする。何でもするのに。

 私の中であの人の声が、笑顔が、だんだん、だんだんにぼやけていく。それは、とても哀しくて、とても、恐ろしい。


「……女の子が泣いてるのを見るのは、いいもんじゃないな」


 言われて私は、自分がぼろぼろと涙をこぼしていることに気づく。そして、いつの間にか、夫である人の胸に頭を抱え込まれていることにも。

 いや違うな、彼のつぶやきはほとんど無意識のようだった。


「君が泣いてるのを見るのは、辛いなあ」


 相変わらずさらりとした声音で、彼はつぶやく。それから、黙って背中をさすってくれる。

 歯ぎしりするほど泣き止みたいのに、私の涙は止まらない。彼の乾いた熱い手のひらは、いつまでも優しく私の背中を温めている。

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