第15話

 煙のように魔力マナの靄が立ちこめ、困惑と恐怖を感じた小間使いたちが逃げ出している。ガレスはオリフィニアと共にその波に抗いながらハウトの部屋を目指した。息を切らして辿り着いたそこは、扉が木っ端みじんに吹き飛んでいた。

 中を窺おうにも魔力が邪魔をしてよく見えない。無暗に突撃してはなにかしら被害があるかも知れないし、神力イラで浄化しようにも、この量の魔力を全てきれいさっぱり無くそうと思うとガレスの神力が尽きてしまう。

「私の風なら一時的にでも魔力の靄を晴らせるかと……!」

「頼め、」

 頼めるかな、と言いかけて、ガレスは反射的に体を引いた。

 室内から魔力に包まれた塊が飛び出してきたからだ。

 唸り声を上げるそれは四つん這いになり、あまりの勢いに廊下の壁に激突した後、苦悶に喉を振るわせて天井に張り付いた。体を覆う魔力は手足も同然に動くらしく、触手のようにうごめきながら手当たり次第に近辺の調度品を叩き壊している。その破片が飛んでくるが、いずれも見えない何かに弾かれて床に転がった。

 ガレスが得意とする防御の膜を、己とオリフィニアの前に張ったのだ。魔力と違って神力は基本的に不可視で、身を守るなにかがあると悟られにくい。相手も驚いたのか、触手の動きが一瞬だけ止まった。

「フィニ!」

 ガレスの声を合図にフィニが腕を伸ばす。彼女の背後から荒々しい風が起こり、周辺の破片を巻き上げながら魔力を吹き飛ばした。天井に張り付いていた何かは体を支えていた魔力を失い、どうっと床に落ちる。

 体を包んでいた靄が晴れたことで、ようやく何かの正体が分かった。激しくせき込みながら新たに魔力を吐き散らしているそれは、どこからどう見ても、

「殿下……!?」

 ガァッと人とは思えない醜い声でガレスを威嚇し、ハウトは黄金に光る瞳をあたりに巡らせて、止める間もなく駆け出した。魔力で身体能力が強化されているのか、獣のような素早さだ。

 ――なんで殿下が魔力に!?

「フィニごめん、あれを追いかけて! 王宮の外に出ていかないように食い止めておいてほしい! 俺は部屋の中を見てから追いかける!」

「承知しました!」

 ハウトが魔力を引き連れていったおかげで、室内の靄がいくらか晴れて見やすくなっている。飛び出してくるまでに散々暴れたのか、絨毯は見る影もなく引き裂かれ、壁にかかっていたと思しき絵画は破られた上に踏みつけられていた。他にもいろいろと転がっているが、元が何だったのかよく分からないほどだ。

 近くに留まっていた魔力を掬い上げて気配を探る。王宮で初めて感じた魔力と同じ、ざらざらとした感覚があった。だが以前よりも強力に育っているようで、無数の細かいとげでチクチクと絶え間なく刺されているのに似た苦痛を覚える。そのまま手放さずにいると、魔力はガレスの腕に絡みつこうと伸びてきた。

 ――でも、俺の神力の質の方が良いから、体内に入りこめはしないんだな。

 神力が魔力を浄化するように、魔力は神力を汚染する。魔術師エアスト家の出であるガレスの神力は純度が高く、王宮に漂う質の低い魔力では簡単に汚染されない。

 ふっと息を吹きかけて魔力を飛ばし、改めて部屋を見回した。

 先ほど部屋から飛び出していったのはハウト一人だった。だがここにはもう一人いるはずだ。

「!」

 床を這う魔力が一点に群がっている。

 ――人の、形をしている。

 嫌な予感が背筋を撫で、ガレスはすぐさま駆け寄って魔力を浄化した。頼むから俺の悪い予想であってくれと願ったのだが、靄が晴れたあとに現れた顔に、呆然と床に膝をついた。

「ドゥルーヴくん!」

 体を起こしてやろうとして、ぴちゃ、と手が濡れた。仰向けに寝かされた彼の首を起点に、赤くぬるつく水が床に広がっている。

 水ではなく血なのだと理解できなかったのではない。理解したくなかったのだ。

 ――だって、これだけの量が流れてるってことは。

 愕然と目を見開き、恐る恐るドゥルーヴの頬に手を触れた。命の温かさが失われつつあることを感じてしまう。何度呼びかけても閉ざされたまぶたが開くことはなく、手を握っても反応は返ってこなかった。

 ――治癒できれば、と思ったけど……もう……。

 ドゥルーヴはすでに息絶えていた。暴行の痕があちこちに残る死に顔は穏やかで安らかとは言い難い。まさかハウトが手をかけたのか。魔力に侵され、自我を失くして――。

「……手になにか……」

 ガレスはドゥルーヴの片手が握っているものに目を向けた。ガラスの破片だった。

 ――まさか。

「自分で首を切ったのか?」

 どうして、と問うたところで返事はない。

 このまま床で寝かせておくわけにはいかない。ガレスはドゥルーヴを抱き上げ、ぼろぼろになっていたハウトのベッドに横たえた。

 ――殿下があの状態で、魔力の気配も最初と一致したってことは、〈核〉を持っていたのはドゥルーヴくんじゃなかったのか。ドゥルーヴくんから感じたと思ったやつは殿下と一緒に過ごすうちにまとわりついただけのもので……。

 ――部屋のどこかに〈核〉はあるのかな。

 ハウトを追いかける役目をオリフィニア一人に押し付けておけない。ガレスはざっと室内を一通り見て回ったが、どこにも〈核〉と思しき石は見つけられなかった。

 となると、〈核〉は今もハウトが持っている可能性が高い。

 外から風が暴れ回る音と、地面が抉られる音が聞こえてきた。中庭に目を向けると、再び魔力で体を覆ったハウトがオリフィニアに突撃を繰り返している。そのたびに風で押し戻しているようだが、いつ突破されるともしれない。

 ガレスはベッドに寝かせたドゥルーヴを一瞥し、悔しさに唇を噛みながら中庭に面したバルコニーから飛び降りた。それなりの高さがあるし、着地に成功したとしてもどこかしら骨を折っていただろう。だがガレスには神力がある。着地の寸前に防御の膜を張って身を守った。

「フィニ!」

 ハウトが距離を取っている隙に二人の間に割り込み、不可視の神力で壁を作った。ハウトはやみくもに突撃を繰り返しては壁に弾かれ、鬱憤をばらまくように吠えるのを繰り返す。

 ガレスは壁が壊れないよう気を配りつつ、風を起こし続けて疲労しているオリフィニアに振り返った。

「フィニ、怪我は?」

「かすり傷以外は特に。坊ちゃんは」

「俺も大丈夫。殿下は……あれ、どういう状態なのかな」

「……魔獣化したんだと思います。額のところ、見えますか?」

 靄に包まれていて分かりにくいが、ハウトの額で何かが煌めいている。夕焼けよりもずっと濃い、禍々しい緋色。捻じれながら鋭く伸びるそれは、どこからどう見ても。

「角……!?」

「魔獣の特徴でしょう、あれは。魔力を吸収する器官」

「でも殿下にあんなの――――あっ」

「坊ちゃん?」

「飾り! 殿下の頭飾りだよ! 額のところで揺れてた宝石! あれが〈核〉だったんだ!」

「はっ?」

 信じられないと言いたげにオリフィニアは目を瞠っているが、それはガレスも同じだ。

「日中はずっとつけてたし、本人に神力が無くても〈核〉の神力が殿下の負の感情に反応すれば魔力は生まれる。今まで完全に癒着しないで宝石みたいな見た目を保ってたのは、魔獣化するほどの魔力は無かったからだと思う」

「でも今は完全に魔獣化していますよね!?」

「きっかけは多分、ドゥルーヴくんじゃないかな」

 ガレスはハウトの部屋で何を見たのか伝えた。オリフィニアは息をのみ、色の違う両目に涙を浮かべて言葉を失くしていた。

 ハウトは憎しみをぶつけるようにガレスに突撃を繰り返している。ずっと神力を張り続けているのも辛いし、耐久にも限界はある。だがここで防御を解くと間違いなく二人とも無傷では済まない。どうにかしなければならないのは分かっているが、今は身を守るので精いっぱいだ。

「魔獣って角に神力を注いだら元に戻るんだよね?」

「ええ。ですが大人しく注がせてくれるのは稀ですし、基本的にはまず角を折って弱体化させてから神力を注いでいるかと」

「殿下の〈核〉は聖堂で見かけた時は石の形だったし、魔獣化した時機を考えると、角に変形して癒着したのはついさっきだと思う。今なら折るのも簡単だと思うんだ。フィニ、一緒にやってくれる?」

「もちろんです」

 ふと王宮に目を向けると、騒ぎを聞きつけた国王たちが遠巻きにガレスたちを見つめていた。まさかガレスと相対している黒い物体が息子だと露ほども思っていないに違いない。中には武器を携えた兵士もいて、慌てて「手を出さないでくれ」と叫んだが遅かった。

 弓を手にしていた兵が矢を放ち、真っ直ぐに飛んだそれはハウトの肩辺りに突き刺さった。雄々しい声が上がるとともに、傷口から魔力が吹きだしてくる。泥のように落ちたそれはハウトの感情に反応したのか、むくむくと大きくなって体にまとわりついてく。

 やがて魔力はハウトの体を一回り以上大きくしたほどに膨らみ、より猛々しさを増した。角も完全に覆い隠されてまったく見えず、角どころかハウト自身がどこにいるのかすら窺えない。

「これは殿下です、手を出さないでください! こうなった以上は俺とフィニしか何とか出来ない!」

 オリフィニアが風を起こし、ハウトを守る魔力を引きはがそうとしている。だが、この短時間で魔力の質が向上したのか、簡単に吹き飛ばない。むしろ風を押し切って腕を振るい、ガレスたちを殴ろうとするほどだ。

「フィニ、今から雨を降らせるだけの力は残ってる?」

「まだ余裕ですよ」

「分かった。フィニの雨に俺の神力をまとわせて、それを殿下に浴びせる。そうしたらある程度は魔力が弱まると思う」

「やってみましょう」

 オリフィニアの笑みが心強い。彼女が手を掲げると、どこからともなく黒雲が湧いて中庭に広がり、やがて雨を落とした。はじめは霧雨のようだったそれは次第に篠突く雨に変わり、怯んだハウトがわずかに後ずさる。

 ガレスはいったん防御を解き、視界が白むほどの雨に向かって手を伸ばした。

 ――いいかいガレス。神力を使う上で重要なのは〝想像〟だ。

 幼い頃に父に教わった言葉が頭の中で何度も繰り返される。

 ――こうしたい、こうなってほしい。自分がどうしたいのか頭の中にはっきりと思い浮かべるんだ。

「雨に、神力を……!」

 力を込めようとしたけれど、ハウトが動き出してしまった。魔力で巨体化した姿はもはや別の生き物にしか見えない。掴みかかろうと伸びた腕から逃れようと二人そろって飛び退ったが、ガレスは雨で濡れた地面に足をとられた。背中から勢いよく滑るように転んでしまうが、その上を靄の腕が通りすぎた。

 助かったと安堵している場合ではない。ガレスはすぐさま立ち上がり、心配して立ち止まっているオリフィニアに追いつくと再び身を守る膜を張った。

「ああ、もう! 身を守りながら雨に神力を、なんて無理だ!」

「やってみなければ分かりませんよ!」

「でも一度に二つのことに神力を使うなんてやったことないし! 雨の方に気を向けすぎて俺やフィニが怪我をしたらって思ったら気が散るし!」

「では殿下をあのまま暴れさせてもいいんですか!」

「!」

「体験したことが無いので分かりませんが、魔力に侵されて暴れるのはひどく苦痛だと言います。殿下は苦しみから逃れるためにも暴れている。このままでは完全に魔力に取り込まれ、元に戻ることは叶わないかも知れません」

 ハウトの顔は窺えないが、靄に隠された奥で苦悩しているのかも知れない。魔力を吸収し、それをさらに周囲にも振りまいて暴れ続けていては、ハウトと同じような状態になる者が少なからず現れる可能性もある。

「大丈夫です。坊ちゃんなら出来ます」

「……出来るかな」

「ずっとそばで見守ってきた私が言うんですもの」

「そう、だね」

 オリフィニアの両手が肩にそえられ、ガレスは意を決した眼差しで雲を見上げた。

 群青色の瞳に、もう迷いはない。

 ハウトの猛攻に耐えられるよう神力の膜を一層分厚くし、その上で雨に神力をまとわせた。神力の雨に打たれたハウトは苦しむようによろけるが、弱体化とまではいかない。防御に集中しすぎて、雨に含まれる神力が十分でないのだ。

 かと言って雨に気を向けすぎると防御が疎かになる。どちらにも同じだけ神力を使うのは難しい。

 坊ちゃんなら出来ます、と励ましの言葉がもう一度耳元で聞こえた。オリフィニアも雨を降らせ続けて疲れているはずなのに、ずっと勢いを保ってくれている。

「――――――ッ!」

 体の奥底から神力が溢れ出てくるような感覚がして、両手の先に熱が灯る。それに呼応したかのごとく雨が輝いたように見え、どうっと降り注ぐそれを浴びたハウトが悶えると、体にまとわりつく魔力が霧散していった。

 まだだ、まだ完全ではない。魔力はまだハウトにまとわりついている。

 気を抜くなと己に言い聞かせ、疲れと眠気を意識の外に追いやった。

 どたっと転がる音に我に返ると、本来の大きさに戻ったハウトが倒れていた。額から伸びる緋色の角の根元からは、木の根に似た管が何本も伸びて肌に食い込んでいる。

 攻撃してくる様子はない。ガレスはオリフィニアと目を合わせて頷くと、ゆっくり彼に近寄り、角を握りこんで神力を注いだ。

 ぴしりと握った個所からひびが入り、神力が伝わるにつれ亀裂が全体的に広がっていく。

 角が崩壊するのに十秒もかからなかっただろう。ハウトの額に根付いていたそれは、跡形もなく砂となって崩れ落ちた。

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