女神に捧ぐ頌歌―彼方に集う獣たち―

小野寺かける

第1話

 叔母の一言がなければ、ガレスは今頃、自宅でのびのび幻獣事典でも読んで過ごしていたはずなのに。

「なんで……俺が……こんな目に……」

 もう何度目か分からない愚痴をこぼして項垂れながら、ガレスは自身の髪色によく似た小麦色の砂漠を踏みしめた。



「ガレスってもう十八歳でしょう? 立派な大人よ。そろそろ幻獣調査に行かせてもいい頃だと思うわ!」

 叔母が突然そんなことを言い出したのは、次は誰が幻獣調査に出向くか決める家族会議の場だった。自分には関係ないとたかをくくっていたガレスはもちろん、その場にいた両親やその他の親族も一瞬固まった。

「え、僕はてっきりお前が行くものだと思っていたんだけど」

 父はガレスとそっくりな群青色の目を瞬き、同じ目をした彼女にきょとんと問いかける。

「そもそも依頼を持ち込んだのも、調べた方が良さそうだって言ったのもお前じゃないか」

「そう思うわよね、私もそう思う!」叔母は檸檬色のお下げをふわっと揺らし、なぜか自信満々に胸を張った。「でもね、私は他にも行かなきゃいけないところがたくさんあるでしょう? そこで思ったの、せっかくの機会だしガレスに任せてみたらどうかしらって!」

「いやいやいやいや、待って、待ってよ叔母さん!」

 昔から叔母の自由な発想には好感を得ていたが、今回ばかりは別問題だ。額に次から次へ汗が浮かぶ。

「俺が一人で幻獣調査に出向いたことなんかないって知ってるよね? 知ってて言ってるよね!」

「あら、もちろんよ」

 けろっとした顔で言われて、ガレスはがっくり肩を落とした。知らなかったわ、と言われていたとしても同じ反応をしていたような気もする。

 世界各地に散らばった幻獣の調査・記録および管理を担うエアスト家は、毎日誰かしらが調査に出向いている。爆弾発言をした叔母も、普段は相棒とともに異国を巡って様々な幻獣を記録してきた。

 調査は穏やかに澄む旅路ばかりではない。飢えや言語の壁など、時に様々な苦難が待ち受ける。そのたびに立ち向かわなければならない。

 それと同じことを、未経験のガレスにやらせてはどうかというのだ。しかも一人で。

「無理無理無理、絶対に無理!」

「やってみなきゃ分からないわ。何ごとも挑戦よ」

「しなくてもいい挑戦だってあるだろ!」

「でも私もお兄ちゃんも、ガレスと同じ年ごろの時に旅に出たのよ。私たちに出来たんだもの、同じ血を引くあなたに出来ないはずないわ」

 それを言われると返す言葉がない。

「でも確かに、義姉ねえさんの言う通りかな」

 叔母の発言にうんうんと頷き、便乗したのは他ならぬ母だった。

「私もガレスの頃には一人で旅してたしね。旅っていうか、幻獣討伐っていうか。まあ何にせよ一人でふらついてたから、ガレスにも出来ると思うよ」

「どこから来るんだよ、その自信!」

「あなたの母親だから。それに何ごとも挑戦っていうのにも賛成。最初が不安なのは仕方ない、誰だってそうだよ」

「……母さんも?」

「当たり前でしょ。あなたを一人で送り出すのは不安だよ」

 それはガレスが感じている不安とは多少どころか絶対に種類が違うのではないか。見知らぬ世界に飛び込まされそうになっているガレスと、ある程度そういう世界を見てきた母とでは、確実に思い浮かべる不安が違う。

 別にガレスも、幻獣調査をまったくしたことがない、というわけではない。父に何度か同行したことはあるのだ。

 ただ、それも幼少期の頃の話である。十歳とか、その頃の。

 調査に及び腰になったのは、父の背中の傷を見てからだ。父が着替えている時に、古い傷跡があるのを知った。右の肩甲骨から左の脇腹にかけて刻まれた、ひどい爪痕だった。

 ――あんなの絶対に痛いし、そんな目に遭いたくない。

 父は「未熟者だった証を残してるんだ」とかなんとか言っていたが、ガレスはそんなもの残したくない。

「じゃ! そういうわけで、次の調査員はガレスに決定ね!」

 ぱんっと軽快に手を叩き、叔母が満面の笑みで高らかに言う。

 ガレスが物思いにふけっている間に、いつの間にか話が進行していたようだ。一瞬で顔から血の気が引いた。

「ま、待って待って、本当に待って!」

 制止するのに構わず、叔母はにこやかに手をひらひら振って去っていった。彼女が座っていた席には資料だけが残されている。

 しん、と静まり返った部屋に父のため息が響いた。父は机に肘をつき、組んだ指の上に額を落としてうな垂れていた。

 見慣れた「諦めのポーズ」である。

「……あいつの言う通り、ガレスに行かせるのがいいかもしれないな」

「はっ?」

 父まで何を言いだすのか。

「どのみちいつかは一人で行く日が来るんだ。それが今回だってだけの話だよ」

「いや、でも俺、そもそも調査なんてしばらく行ってないし、なのにいきなり一人でって、そんな無茶な!」

「あー、まあ、そうだね。ガレスが前回調査に行ったのって、一年前? 二年前?」

「三年前だよ!」

 ちなみに三年間も調査に行かずに何をしていたのかと言えば、エアスト家で保護している幻獣の世話や、幻獣事典を読みふけったりしていた。エアスト家で暮らしている以上、完全に幻獣から遠ざかるのは無理な話だし、別に幻獣が嫌いなわけでもない。

 調査に出向くのが怖いだけなのだ。

「ね、こんなに長いこと行ってないんだよ。そんな状態で一人で放り出されるのはいやだよ!」

「へえ。ってことは、一人じゃなきゃいいんだね?」

 母がにっこり笑い、ガレスはぴしりと固まった。

 ――しまった。

「もう一度聞くよ、ガレス。一人じゃなきゃいいんだね?」

「え、いや、えっと」

「いいんだね?」

 重ねるように聞かれて――というより微妙に脅されているような気もする――ガレスは壊れた人形のごとく首を縦に何度も振った。ここで「違う」と言えば、間違いなくとてつもなく大きな雷が落ちるに違いなかった。

 母は父と目を合わせ、父は目元をふっと和らげて嬉しそうに微笑んだ。

「三年越しの調査を一人で行かせるのは僕も不安だし、今度の調査はガレスと、もう一人誰かに頼もうかな」

「それでしたら、私が同行いたしましょう」

 川の流れに似た涼やかな声とともに、ガレスの向かい側に座っていた豊かな黒髪の女性が手を挙げる。

 その瞬間、ガレスは叔母から幻獣調査の一言を聞いた時以上に固まった。



 じりじりと照りつける太陽が憎い。頬や首筋を伝う汗を拭う手間すら面倒くさく、草一つ生えていない道なき道を進む歩みはひどく緩慢だ。道中で立ち寄った小さな村で帽子を手に入れておいて良かった。これが無ければ今ごろ倒れていたはずだ。

「あっつい……もうやだ……」

「坊ちゃん、頑張ってください」

 横を歩く同行人から激励がおくられる。彼女だって辛いはずなのに、幻獣調査の前に心が折れかけているガレスを励ましてくれる。そのありがたさに、ガレスの目に少しだけ精気が蘇ってきた。いつもなら「坊ちゃんって呼ぶなよ」と文句を垂れるところだが、今日は素直に感謝の言葉が口をついて出た。

「ありがとう、フィニ……」

 慣れ親しんだ愛称で呼びながら礼を言うと、フィニことオリフィニアは「どういたしまして」とはにかんだ。

「水分補給も忘れてはいけませんよ。喉が渇く前にしっかり飲んでください」

 オリフィニアがガレスの口元に水の入った革袋を差し出してくる。世話をされっぱなしなことに複雑な気分を覚えるも、子ども扱いするなと抵抗する気力がない。ガレスは大人しく水を飲んだ。一人で歩いていたのでは、灼熱と疲労と渇きで考えごともままならず、調査先へ辿り着く前に倒れていたはずだ。

 こうして進み続けられているのは、間違いなくオリフィニアがいるおかげだった。

「どうしました?」

 思わずじっとオリフィニアの顔を見つめてしまい、彼女は不思議そうに左右で色の違う瞳をガレスに向けてくる。右は闇のように深い黒色だが、左は宝石のように光り輝くアメジスト色。いつ見ても綺麗な色だ。

「坊ちゃん?」

「あっ、ううん、なんでもない。水、ありがとう。フィニも飲んでよ」

「でも飲むと坊ちゃんの分が減ってしまいます。それに私は普通の人より丈夫ですし、お気遣いなく」

「気遣うに決まってるだろ。いいんだよ。フィニだって喉、渇いてるだろ」

「……ではお言葉に甘えて」

 オリフィニアの口元に革袋が運ばれる。何気ない動作なのに、ひどく心を揺さぶるのはなぜだろう。水に濡れた唇がどことなく色っぽく見えて、一体なにを考えてるんだ俺は、とガレスは頭を振った。

「どうされました?」

「いや……神力イラ使って暑さをしのげないかな、とか考えてただけで」

「悪くない案ではありますが、神力の消費は体力の消耗を招きます。あまりおすすめできませんよ」

「わ、分かってるよ」

 くすくすとオリフィニアに笑われ、ガレスの耳が薄赤く染まった。

 砂漠を進み始めて、どれだけの時間が過ぎただろう。相変わらず道らしい道はどこにもなく、進んでいる方角があっているのか不安になる。経験豊富なオリフィニアの助言が無ければ、もっと早い段階で途方に暮れていただろう。

 進む先は緩やかな坂道になっていた。慣れない砂道を懸命に歩み、適度な休憩をとりながらなんとか上った。

「これ、本当に、夜までに、着くかな」先を行くオリフィニアを追い、息も切れ切れにガレスはぽつりと呟いた。「野宿も夜の寒さも、もう嫌なんだけど」

「その心配はなさそうですよ、坊ちゃん。ほらあれ」

 先に上りきっていたオリフィニアに手を引かれる情けなさを感じつつ、ガレスはなんとか坂道の頂点に辿りつく。

 その先に広がっていたのは、どこまでも続く岩の防壁だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る