聖ヨハンナ音楽院関係小話

藍川澪

Apotheose des Tanzes(舞踏の聖化)

 付点八分音符と十六分音符を組み合わせたリズムが常に途切れることなく続く。同じリズムを繰り返すことで曲を構成したというと、単調な曲なのだろうかとも思えるが、この曲はそうではない。

 俗に楽聖とも呼ばれるベートーヴェンの作曲した交響曲第七番。彼の九つの交響曲の中でも高い人気を誇る一曲であり、演奏機会も多い。現に、いままさにこの曲の出だしがとある喫茶店で流れた途端に、おしゃべりを止めて耳を傾けた大学生女子三人組――八橋やつはし杏里あんりとその中高時代の友人、加納晶子かのうしょうこ宮前美也子みやまえみやこも、かつて高校時代にこの曲を演奏したものだった。懐かしい曲をしばし堪能し、さっきまで何の話してたっけと笑い合い、そう言えばと何気なく口火を切った杏里の一言に、晶子と美也子は飛び跳ねるリズムをぶち壊すような素っ頓狂な声を上げた。

「杏里に彼氏ぃ?」

「杏里が彼氏、じゃなくて?」

 聞き捨てならないと乗り出してきた晶子と美也子に、杏里は涼しい顔で答えた。

「相手は男性だ。フランス出身の」

「うわぁ、やっぱり留学生は違うね」

 加納晶子はヴァイオリン奏者で、高校の頃はコンサートマスターを務めたこともある。ゆるく巻いたセミロングの髪を大学に入ってからミルクティーベージュに染めた。その見た目ゆえにいわゆるお姫様タイプに思われがちだが、中身は気さくでからりとした性格で、昔から下級生の女子とのロマンスの噂が絶えない。

「てか、そのお相手すごくない? 杏里、取り巻きとか多いんでしょ。よく突破できたね」

「まるで見てきたようなことを言う」

「中高同じなんだからわかるよ」

 宮前美也子はオーボエ奏者だ。真っ直ぐな黒髪を前下がりボブにして眼鏡をかけており、一見して知的な優等生の印象を与えるが、実は後頭部には中高時代から派手な金髪のインナーカラーが入っている。教師たちはいい顔をしなかったが本人の素行が優等生そのものだったので小言程度ですんだ。

「そういう晶子はどうなんだ? 一回生だとさすがに下級生ハントはできないだろう」

「ふふん、残念でしたー。バイト先の同僚の高校生と交際中でーす」

「手が早くないか。まだ前の彼女と別れて半年だろう」

「それはそれ、これはこれよ」

「ちょっと聞いてよ杏里。晶子ったら、その高校生と付き合う前に私を何度恋愛相談の長電話に拘束したか」

「やだ、拘束なんて人聞き悪い。あとそんなに長くないし」

「そのくせ付き合い始めたら今度は惚気話の長電話してくるし」

「だって、女子大でも女の子同士で付き合ってるのってなかなか言いづらいんだもん」

「それはそうだけど」

「友人関係の構築よりバイト先の年下と付き合う方が先というのが驚きだな」

「えへ、すごいでしょ」

「あー、すごいすごい」

 美也子の気のない賞賛を一向に気にすることなく、晶子は右手の薬指につけたリングを自慢げに見せびらかした。晶子も高校時代はハンカチの交換だのという前世紀の女学生のようなことをしていたくせに、大学に入った途端に指輪交換とは、まるで大人ぶっている少女のそれである。まあ、本人は常に本気で相手と付き合っているし、それ故に上手くいかないこともあるのだが、晶子の相手への誠実さをずっと見ている杏里や美也子は呆れこそすれ、晶子を見放したりすることはできないのだった。そんな晶子の隣で、美也子はそういえばと杏里の方を見た。

「話戻るけどさ、杏里の彼がフランス人ってことはフランス語話すんでしょ? コミュニケーション難しくない?」

「大学の敷地内は前にも話した通り支障はないんだが、問題は学外で会う時だな。今のところそういう場面はないが、私は二外でイタリア語を選んでしまったから、フランス語は独学勉強中だ」

 杏里の通う聖ヨハンナ音楽院は、特殊な大学だ。その特殊性として、寮を含む大学施設が世界のどこでもない場所に位置しているということが挙げられる。学内ではどの言語圏の者であっても母語で話すだけで相手の耳には基本的に自動翻訳されて聞こえ、結果的に相互コミュニケーションが可能だ。大学関係者はこのことを、「バベルの塔の力が及ばない所にある」と言い表す。ただそれは敷地内での話で、学外に出れば当然フランス語はフランス語、日本語は日本語にしか聞こえない。つまり普段は学内で意思疎通できていても、学外で会う時はそれぞれの言語を理解しなければ当然意思疎通できないということだ。

 聖ヨハンナ音楽院はそれらの特殊性も考慮の上で、学生が将来音楽家として国際的に活躍できるよう、語学の講義も積極的に行われている。杏里が第二外国語の講義として選んだのは通年のイタリア語の講座だったが、その最中付き合い始めたのがフランス人だった、というわけだ。

「前期のイタリア語の成績もまずまずだったが、ここにフランス語が加わるとなかなか大変だな。グザヴィエも日本語を勉強してくれているらしいから、お互い苦労するよ」

「グザヴィエっていうの、彼。名前が既にかっこいー」

「日本語勉強してくれてるんだ。めっちゃ本気じゃん」

 杏里が何気なく言った言葉の端々に、晶子と美也子はにわかに色めきたった。杏里はいまさら照れくさくなったのか、涼やかに整った顔を少し恥ずかしそうに赤らめる。そうすると、まるで完璧な貴公子の隙を見たような気分にさせられるのだが、これは長年の友である晶子や美也子くらいにしか見せない顔でもあった。

「グザヴィエが日本語勉強しているの、私は知らないことになってるんだ。内緒にしておいてくれ」

「はいはい。私たち、グザヴィエくんに会うことないから心配しなくていいよ」

「杏里と晶子の惚気でお腹いっぱいだわ」

 美也子はそう言ったものの、その後に運ばれてきたアフタヌーンティーセットは、三人とも残さず平らげた。リズミカルなおしゃべりは、まだ続きそうだ。

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