8話 綺麗

 例の尋ね人は依然として見つからず、もどかしさばかりが募る日々。昨日の朝刊でも取り上げられており、領域内を物色し続けているのは間違いないのだが。

 念のためエイトさんにも外出を控えるよう伝えておいた。よもや領域のみならず、非常食にまで手を付けられては堪らない。

 そんな私の心配とは裏腹に、彼は言いつけを従順に守り、こちらから提案しない限り外出することがなくなった。


 曇り空のその日。午後に入るなり吹き荒れる、雨を予感させる風。足早に執務室を離れ、エイトさんを探しつつ洗濯物の救済へと向かうものの、何処にも姿が見当たらない。

「エイトさん……?」

 嫌に胸のざわつきを覚え慌てて彼のクローゼットを開けば、外出用の上着が無かった。



 パトリックには外出を控えるように言われている。でも、どうしても欲しいものがあり、秘密でこっそり抜け出してきた。急いで帰れば、きっとバレない大丈夫。

 無事に買い物を済ませ店を出ると、鈍色の雲の中で雷が鳴り始めていた。紙袋を抱きかかえ、駆け足で帰ろうとした、そのとき。

「こんにちは」

 いつの間にか目の前に立ちはだかる見知らぬ女性。微笑む様子から、困りごとではなさそうなので、先を急ぐことにする。

「ごめんなさい。失礼します」

 足早に帰路を進み、彼女の事も忘れかけた頃。背後から響く不穏な掛け声。

「つれないわねえ」

 高鳴るヒール音に不安を煽られ振り向けば、真っ直ぐこちらを捉える凍てつく視線。

 ようやく気づいた。彼女こそパトリックの言う「記事の人」で、「こんにちは」は宣戦布告。無意識のうちに脚が動いた。

 助けを求めようにも雷のせいで人がいない。全力疾走も功を奏さず、着実に距離を縮める疾走音。必死に逃げ延び、交番までもう一ブロック。そう期待に手を伸ばすも束の間。気づけば顔にかかる影と、眼前で揺らぐ赤い唇。荒く両腕を掴まれ脚は硬直し、恐怖で声が出なくなった。

「いい顔ね」

 息一つ上げず、想像以上に強い腕力。明らかに人ではない何かを感じた。凶器を取り出すでもなく見下され、ただただ続く品定め。この先で何をされるか分からない。けれど、幸せな結末でないことは明白だった。やがてゆっくりと歪む口元に覗く鋭い牙。

_____最期に見たかったのは、あなたの微笑ではなく_____。


「恐れ入りますが」


 突如割って入る第三者の声。彼女は不快感を露わに自分の背後にいる声の主を睨みつけたが、一瞬のうちに顔面蒼白となり咄嗟に自分を突き放した。

「彼は私の知り合いです。以後お見知り置きを」

 ぐっと肩を引き寄せられ、触れた箇所から伝わる温もりと安堵。

 彼は間を置かず先を続けた。

「雷鳴が轟く前に、どうぞお引き取りください」

 沈黙のまま去りゆく背中は、敗走という言葉を見事に体現していた。

 ようやく全身の緊張が溶け、嬉々として振り返る。

 その冷たい表情を見て自分の過ちの重さを知った。

「帰りますよ。フェザーハントさん」

 彼の手は自分の肩を滑り落ち、こちらを待たずに家路を進む。駆け寄りたいのに、また脚が動かなくなった。

 いま胸を締めつけているこの感情は、彼には決して抱きたくなかった、ごめんなさいで間違いない。



 帰宅する間、互いに終始無言だった。彼は私の後ろを俯いて歩き、既に深い反省の色を見せている。紙袋を抱えて謝罪の言葉でも考えているのだろう。未遂に終わったとはいえ、要らぬ恐怖を覚えたはずだ。生きた心地がしなかったはずだ。しかしそれは、約束を守らなかった報い。

 帰宅後、そのままリビングへと誘導する。彼はぎこちなく距離を置き、ドアの前で身を縮こませていた。

「フェザーハントさん。一人での外出は避けるよう、お伝えしましたね?」

「……はい……」

「では、先ほどの状況は何でしょう」

「……あれは……」

「私の提言はどうでもよいと?」

「違うんだパトリック、これは」

「まだお分かりになりませんか」

「あの」

「言い訳より先に、軽率な行動を反省なさい!」

 貴方の瞳に浮かぶ雫。立ちどころに満ち溢れ、次から次へと頬を伝う。

 冷静さを取り戻す頃にはもう手遅れ。言葉を添えようにも彼に先を越されてしまった。

「パトリックとお揃いの、お誕生日が……ごめんなさい……」

 抱きしめた紙袋に落ちる雨粒。

「どうしても、欲しくて………でもごめんなさい………ごめんなさいっ!」

 独り取り残された部屋で、呆然と立ち尽くす他になかった。

「……何てことを……」


 私がすべきは、激昂や叱責ではなく心配だったのに。心の中では、そうと分かっていたのに。

 翌週に控えた自身の誕生日を思えば想像がついたはずだ。きっと彼のことだから、密かにプレゼントを用意して驚かせたかったのだろう。だがそれも台無しにしてしまった。全てが後の祭り。考えれば考えるほど後悔が押し寄せとめどない。

 あれは人だ。あれは食物だ。あれは非常食だ。あれのために思考し感情を動かしても無意味で無価値だ。そう理性で言い聞かせるのに、心が全力で否定する。


 胸の痛みが教えてくれた。私はこの領域を侵されることや、身勝手な捕食が不快だったわけではない。

 彼を失うことが怖かったのだ。



 その後執務室に戻るものの、一向に集中できずに手を止めた。こんな時は外の空気に触れ、気分転換を図るに限る。早速バケツと剪定バサミを片手に薔薇の庭へと足を向けた。思考が騒々しいときは、こうして花と向き合う時間がほしくなる。


 花が好きだ。花はただそこに美しく咲き、こちらに一切干渉せず潔く散ってゆく。花は愛想や言葉、想いや見返りを求めない。故に花に触れているときは、余計なことを考える必要がなく、私にはそれが丁度よかった。しかし今は花いじりすら悪あがき。


 何度となく脳裏をかすめる彼の涙。


 蓋をすることも、忘却の彼方に流すことも叶わない。全ての抵抗が徒労に終わる。あの涙は、過去には成れない。

 彼は今日感じた感情を明日には手放せるだろう。だが私の記憶には、生涯残り続けることだろう。


「手伝っていい?」

 いつの間にか彼が来ていた。剪定バサミを握りしめ、気まずそうに視線を泳がせ薔薇を指差す。

「ええ。そうですね。そろそろバケツが満杯なので、そこにある数本だけ、お願いします」

「うん」

 剪定開始早々、二人の間に落ちる沈黙。狭間を埋める言葉を探すものの、適当なものが見つからず、作業終了を告げようとしたそのとき。

「痛っ」

 彼のか細い指の先から赤い滴が溢れ出し、一気に広がる血の香り。咄嗟に顔を背け鼻を押さえた。

 誤って指先を切ってしまったようだ。この感じからして傷口は浅く、出血量も微々たるもの。それなのに、しばらくぶりの人の血を前にして強烈な喉の渇きを覚えた。

 彼を食してはいけない、あり得ない。けれど私はヴァンパイア。吸血は不可避であり生命線。たとえ相手が誰であろうと本能には抗えない。猛烈な悔しさで目眩がする。


「あげる」


 視線の先には彼の指。

「何を、しているのですか?」

「自分の血が欲しいならあげる。もしかして、勘違いだった?」

「私は血など……」

「パトリックの辛い顔は見たくない。もしこれでそれを消し去ることができるなら、自分は絶対、笑顔になるよ」


 躊躇いながらも、その手を優しく引き寄せて、そっと唇を添えた。


 甘い。とても甘い。


 これを単なる食事とは思えなかった。彼の血には、甘美な味わいがある。

 ほんの数滴で喉の渇きが一気に引いた。

 唇を離し、自らの指で唾液を拭う。

「パトリックの手は綺麗だね」

 貴方を食物としか認識できない私に、その純粋な微笑みを受け止める資格はない。貴方の美しい心に、私が触れてはならない。想いの結実など、決して叶わぬ世迷言。


「いいですか。よく聞きなさい。エイト・フェザーハント」

 さあ、よく聞いてください。そしてどうか私を嫌ってください。固く拒絶し蔑んで、明るい世界を生きてください。ここから、自由になってください。

 そして彼の手を解放した。

「私は、ヴァンパイア。人を騙し殺めて生きながらえる存在、殺人鬼。この手は血で染まっているのですよ。貴方には、見えていないでしょうけれど」

 案の定、複雑な表情が浮かんだ。しかし恐怖の色や強張りでは無く、思いを纏めて整えているように見えた。たっぷり時間をかけたのち、未だ緊張の解けないままに言葉を贈る。

「自分には、見えないものが、たくさんあると思う。パトリックのことも、知らないことの方が多いと思う。それでもいい。どんな過去を過ごしていてもいい。その過去全部があったから、今のパトリックがいて、今見えているその手を、綺麗だと思うから。他の誰でもない、パトリックの手が好きだから」

 絶句する私に、そっと寄り添う小さな手。

「握っていい?」

 触れ合う箇所から浸透する優しい温もり。恐る恐る、彼の手を握り返した。

「ありがとうございます。エイト」

 目の前で、鮮やかな笑顔の花が咲いた。

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