第四話 6月5日

6月5日




 朝のニュース番組で、今日から梅雨入りした事を知った。


 僕はあの日以来、カフェには顔を出していなかった。


 僕はココアの入ったマグカップを片手に、冷蔵庫の横にあるカレンダーで念のため曜日を確認した。日曜日だった。


 僕はカレンダーに挟んであるボールペンを片手に持ち、今日の日付に、[颯12:00〜]とだけ書いた。


 テレビの画面で時刻把握する。7:41の数字。


 とうとう梅雨が来た。来てしまった。といった感覚だった。


 またあの場所に行くのかと考えると、胸が騒ぎだす。




 部屋へ入ろうと扉を開けると、愛花が自室から出てきた。


「おはよ」


 片目を擦りながら寝ぼけ眼の愛花を気に留めず、おはようとだけ言い返し、部屋に戻った。


 先日、小説を読んでみようと、名も顔も知らない人の小説を買った。まだ手をつけずに机の隅に寝かせてある。


 表紙に描かれた綺麗な空に目を奪われたのだ。


 時間が余っていたため、表紙を捲る。


 いくら表紙が綺麗でも、美しくても、中身は文字しかない。しかしどうしても、表紙と同じくらいの美しさを、期待してしまう。


 僕はページを捲り続けた。


 半分ほど読み終えたところで、ドアをノックする音が耳に入る。




「誰?」


 扉の向こう側に尋ねると、ガチャッと音を立てて愛花が顔を覗かせた。


「どうした? 今日部活はないの?」


「今日は日曜だから休み」


 少し控えめに話す愛花に、察した。


「で、何を頼みにきたの?」


「なんでわかるの!?」


 笑顔がどっと溢れ、驚きを隠せない愛花が妹として可愛く思えた。


「長年一緒なんだから、なんとなくわかるよ」




 内心、当たってホッとしていたが、表情に出さないように抑えた。


「そういえばこの前誕生日だったね。高くないものであれば買ってあげられるけど」


「ほんとに!? 実は友達の誕生日プレゼントの買い物に付き合って欲しかったんだけど、そうしたら私のもついでに買いに行けるね!」


 ニコニコしながら無邪気に喜ぶ妹に少し後悔した。


「言わなきゃよかった……」


 気持ちがぼそっと小さな声で溢れ出た。


「ん?」


「いや、なんでもないよ。いつがいい?」


 愛花は自分の考えを目視するように少し上を向いて悩んだ。




「んー、再来週の月曜日がその友達の誕生日だから、できれば今日か来週がいいかな」


「今日はちょっと予定があるから、来週にしよう。空けておくね」


「今日は何かあるの?」


 首を傾げる愛花にふと、訊いてみようと思った。


「コンビニの近くに小さな神社に行かなきゃいけなくて。ほら、小さい山みたいになっているところ」


 首を傾げ、天井を見上げながらうーんと考え込む愛花に違和感があった。


「そんなところ、あったっけ?」


 振り絞って考えたようだったが、どうしてかわかってもらえなかった。


「ほら、ウチの反対側の道路を真っ直ぐ駅とは反対側に行くと山があるだろ? あそこだよ」


「んー山っぽいのはあるけど、神社なんかあった? 人が通れる道なんてないと思うけど」


 お互いの記憶違いになんだか怖くなってしまった。


「まあいいや。とりあえず今日は無理だから、来週予定空けとくよ。あ、あと今日お昼ご飯も大丈夫」


 話を逸らした方が良い気がした。


「うん、わかった。ありがとう」


 


 簡単な返事だけで愛花はドアを開けて部屋から去った。


 少しだけ考えた。どうしてあの神社がわからないのだろうか。


 考えても仕方がなかった僕は、結局本の続きを読むことにした。


 11時を回り、僕はダイニングでスティックパンとメロンパンを貪った。


 11:32と時計が針で知らせる。


 パンを食べ終えた僕は歯を磨き、部屋で服を着替えた。


 濃い緑のような長ズボンに、グレーのシャツ、白のパーカーを身に纏う。


 もう一度洗面台まで降りると、ちょうど美月が化粧をしていた。




「今起きたの? 遅いね」


「大学生なんてこんなもんよ」


「ふーん。ねえ、変じゃない?」


 手を軽く広げる僕を上から下に隈なくチェックする美月に緊張させられる。


「うん、大丈夫、普通だよ」


「普通かよ」


「高校生なんてこのくらいがちょうどいいものだから」


 美月の軽い笑顔に少しだけ自信をつけられた。


「まあ、普通なら良いか」


 白のお気に入りのスニーカーを履き、つま先を床にトントンと叩いて、踵まで履き切る。


 小さく深呼吸をして、扉を開けた。


 雨が地面を殴る音が耳に入りこんできた。




「あ、雨か」


 梅雨入りをしたのを忘れていた僕は、一歩家の中に戻り、傘立てからビニール傘を引き抜いた。


 バッと音を立てて開く傘に、これからまた向かうと自覚させ直される。


 雨が降り続ける音と、遠くから水を弾く車の音が聞こえる。


 日曜日の昼間ということもあり、様々な音が耳の中で混じり合う。


 10分ほど歩くと、靴に雨が少しだけ染み、嫌な感触になり始めた。


 石段の前に着いた。




 やっぱり神社は確かに存在する。それが事実だと確認した後、ゆっくりと一歩、踏み出した。


 雨で石段に足を引っ張られそうになる。


 滑らないように細心の注意で、石段を数えながら上り切った。


 特に意味もないが、52段ということだけ確認できた。


 鳥居の前で一礼し、本殿の裏へと回る。


 傘をたたみ、腰を折って中へ入った。


 物音が一切していないことだけが、一瞬で分かった。そして大木の向かい側に誰かが立っている。


 その存在に、数歩踏み寄ると、翠さんだとわかった。


 天を見上げていた翠さんは、僕の足音に気づき、目が合うとニコッと笑った。




「ちゃんと来たね、颯君」


「今朝梅雨入りしたと知って、思い出したよ」


「ありがとう、わざわざ来てくれて」


 大きな目を細めて笑う翠さんに、どこか安心感を貰える。


「今日は素敵な満月だよ、ほら」


 翠さんの視線を追うように空を見上げた。


 瞳孔に入り込む光に、限りなく完璧な夜空だと感じた。


 無数に光り輝く星々の中に、満月が沈んでいる。


 僕はあと何回満月を見られるのだろうか、何回新月を見逃すのだろうか、そんなことを思う。


 この夜空にまたも全てを奪われた。光、音、匂い、感覚、この空間の全てが僕に集中していて、僕の全てがこの空間に夢中になっていた。




 光り輝く星の中には、赤や青、緑など、個性を表す様々な色合いがお互いを強調しあっている。


 そして大きく存在感を表す満月に僕は全てを奪われ、全てを許してしまう、そういった気持ちが生み出された。


 僕はその月明かりを、瞳の奥に呑み込んだ。


 ふふっと笑う声が耳から頭に入り込む。


 顔を下げ、笑う翠さんと目が合う。


「見惚れてたね、口を開けてすっごい夢中になってたよ」


 ニヤニヤと僕を笑う翠さんに現実に戻され、頭に血が昇り、赤面したのが自分でも分かった。


「昔の私みたい」


「え?」


 再び空を見上げた翠さんが続ける。




「私も初めてここに来た時は、今の颯君みたいに口を開けて、この空の一部に慣れたらいいのになーなんて思ってた。たぶん、プチが話しかけてくれなかったら、永遠と見続けていたかもしれない」


 空を見上げる翠さんの横顔は、月明かりに照らされ、陸に上がった人魚の様な美しさがあった。


 一息つくと、翠さんは長い髪の内側を見せる様に体を横に傾け、再びニコッと笑って口開く。


「じゃあ行こっか」


「え? どこに?」


「まあまあいいからいいから。あっちから出るよ」


 僕が入っきて方とは別側に指を差していた。以前、翠さんが歩いて行った方だ。


 指を差した、色褪せた黄色とオレンジの建物の間に歩き始めた翠さんの後を追う。


 建物同士の隙間の前に立つと、月明かりが届かず、奥が見えない。




「怖い?」


 翠さんが振り返って僕の心配をするのがわかった。顔は、よく見えなかった。


「ううん、大丈夫。でも、ちょっと不安」


 そういうと、僕の右手首に手が触れるのが分かった。


「こっち」


 翠さんの後ろ姿が僅かに見える。


 セミロングの茶色いさらさらとした髪から、ほのかに香るシャンプーの良い匂いに鼻が反応する。


 僕の手首を、僕よりも小さく、暖かな手のひらが掴んでいた


 暗くて翠さんのシルエットが薄く見えるだけだった。


 10秒ほど進むと、微かに明かりが見えてきた。


 近づくほどに明かりは次第に大きくなり、翠さんの後ろ姿が逆光の中に現れる。


 僕の腕が自由になると、視界が一気に開け、僕の知らない雨の降る街にいた。




「ここは……?」


 目の前には人工の大きな池と、それを跨ぐ様に造られた赤煉瓦の橋があった。


 傘を開きながら翠さんは答える。


「私はいつもここからさっきの場所に行ってるの」


 正面から僕の後ろを見つめながら言う。


 振り返ると、木々に囲まれた道があった。暗く、普通はこの道を通ることはないだろうと思った。


「どうしてこんな道、最初に通ろうと思ったの?」


 僕も傘を開き、疑問をぶつけた。


「じゃあ逆に颯君の方は、あの場所の入り口、どんな場所にあった?」


「僕の方は……小さな神社の裏側……人が入っているところを見たことがない神社の裏側が入り口だった」


「そこへはどうして入ろうと思ったの?」


「なんだか、どうしようもない好奇心というか……」


「私もそんなところかな。理由はあんまり変わらないと思う」




 はっきりしない理由に、納得しきれなかった。


 しかし僕自身も、自分の理由がいまいち分からず、モヤモヤとしたものが心に残った。


「よし、じゃあ行くよ!」


「え? ここからどこに!?」


 背筋を少し伸ばして、気合を入れる翠さんは真っ直ぐに僕を見つめた。


「私、観たい映画があるの!」


 見知らぬ土地で映画を観たいと言い出す翠さんに頭がぽかんとした。


「あ、ちゃんとお財布とか持ってきた?」


「財布とスマホは持ってきた……けど……?」


「よし! じゃあ大丈夫だね! 行くよ!」


 やけに張り切る翠さんに頭がついていけていない。




「ちょ、ちょっと待って。いきなり映画って、どういうこと?」


 翠さんは人差し指を顎に付け、数秒考えた後に首を傾げて笑顔で口を開く。


「んー、気分?」


「気分……」


「ダメだった? この後予定あったりする?」


 少し困った顔をする翠さんに、僕は後に引けなかった。


「予定は……ないけど……」


「けど?」


「……わかったよ。……行くよ」


「やった!」


 小さい手を握りしめ、喜びを表現する翠さんを見て、やはり歳上ではないのではと少々疑った。


 橋の脇にある階段を上がり、翠さんの道案内の元、映画館へ向かう。




 少しだけ歩くと、バス停で足を停める。


 橋の上は公園のようになっていて、あとは家ばかりが並んでいる。やけに静かであった。


「この辺ね、住宅街だから車もあんまり通らないの」


「へぇ、なんだか大きな家ばかりだね」


 屋根のあるバス停で、僕らは傘を差したまま隣同士で言葉を交わす。


「うん、私も将来、大きな家に住んでみたいの」


「この辺りで?」


「そうだなぁ、この辺りの住宅街も好きだけど、山とか、森みたいなところに住みたい。人があんまりいないような」


 今時珍しいと思った。


「山とか森かぁ、素敵だね。空気が綺麗だもんね」


「そう、後は自分だけの世界って感じがしていいかな。憧れる」


「いいね、なんかそういうの。あ、でも買い物がちょっと不便かも」




 急に現実的になる僕に、翠さんはプッと吹き出し、口を手で隠してあははと笑う。


「急にリアルだね」


 雨水が積もる音と、僕たちの声だけが耳に入る。


 翠さんの横顔は、どこか僕を惹きつける。


 風が吹いた気がした。柔らかな風は僕たちの靴に雨粒の足跡を残して過ぎ去る。


「あ、バスがきたよ」


 翠さんの言葉の上から、バスのエンジン音が重なる。


 翠さんに続いて、傘を畳んでバスに踏み入る。


 ICカードをかざしてピッという音が二人分鳴った。


 中には10人弱くらいの人が乗っていた。




「あそこ、座ろう」


 翠さんが指を差したのは後から3列目、進行方向の左側の席だ。


 席の前まで行くと、翠さんがくるりと振り返り、どうぞと言って僕を先に座らせた。


 窓際。雨脚が窓に足跡を残す。


「バス、発進いたします」


 座ると同時に出発した。エンジンの回転する音に合わせ、乗車客の体が揺れる。


「この辺りね、自然いっぱいで好きなんだ。住宅街なのに。共存してるって感じがするの」


 他の人に聞こえないように、小声でヒソヒソと囁くように話す翠さんの声に、右耳を反応させる。


 僕は窓の外を見つめていた。窓いっぱいに、知らない街が溢れる。


「翠さんの家は、この辺りなの?」


 振り向くと、翠さんも窓の外を見ていた。


「うん、もう少し待つと見えるよ」




 窓側に視線を戻し10分弱待っていると、翠さんが少しだけ僕に体を寄せて指を差した。


「あ、ほらそこ! このオレンジっぽいアパート!」


 大通り沿いにあるアパートを指差す翠さんの顔が、振り返らずともすぐ近くにあるのだとわかった。だから僕は、窓の外に夢中になっているふりをした。


 翠さんの指すアパートを発見したが、僕の意識は、背中に向いていた。


 またもシャンプーの香りが嗅覚を刺激する。


「あそこの2階の1番奥の部屋なんだ! でね、そこの部屋が……」


 嬉しそうに家の紹介を始めたが、不思議に思った。


「どうして僕にそこまで話してくれるの?」




 純粋に疑問に思ったことを口にしながら振り向くと、数センチ先に翠さんの顔があった。


 あと数センチで、鼻が触れてしまう、一瞬だけ時間が止まった気がした。


「ごめん……!」


 慌てて謝ると、翠さんは俯いていた。


 長い髪の毛で顔が隠れていて、表情はわからなかったが、髪の隙間から隠れ切れていない耳が赤く染まっていた。


 さっきまでが嘘だったかのように、会話が止まる。


 10秒ほどして、翠さんが何もなかったかのように顔をあげ、話の続きをしてくれた。


 口角を軽くあげ、笑顔だったが、耳はまだ少しだけ赤かった。


「どうして話すか、かぁ……。うーん、話しやすい、から?」


 よくわからない理由に、プッと吹き出してしまった。


「なんで疑問系なの」


 僕の笑いに翠さんも釣られていた。僕とは違って、本当によく笑う人だと思った。




「颯君のおうちはどんななの?」


 一息つくと、僕の話になった。


 姉妹がいること、一戸建てのこと、近所には何があるか、僕の話を、翠さんは真っ直ぐと聴いてくれた。ただ相槌を打ちながら、真っ直ぐと。


 大通りに入ると、車内アナウンスが流れた。


「まもなく~終点~終点の……」


 ピンポーンと車内のボタンが全て光る。


「あ、もう着くよ」


 映画館があるということは、そこそこに大きな駅なのだろうか。


 駅を一人で想像していると、翠さんが降りる準備をしながら続けた。


「お昼ご飯もう食べた?」


 家を出る前に少しだけパンを口にしただけだったから、言われてみれば空腹だった。


「いや、まだ食べてないよ」


「そっか、何か食べよっか。何か食べたいものとかある?」


「うーん何があるかわからないから……」


「ごめん、私も言ってなかったもんね。じゃあ映画館の横にイタリアンがあるからそこはどう?」


「うん、大丈夫だよ。そこにしようか」




 お昼ご飯を一緒に食べるとは考えていなかったので、少し戸惑った。


 バスを降り、傘を広げてロータリーを抜けると駅は人が集っていた。


「日曜日だから人多いね」


「うん、この駅に来るの初めてだから逸れたらもう会えないかもしれない」


 プッと吹き出し、大袈裟だなぁと翠さんは笑った。


「大丈夫、また会えるよ」


「え?」


「ううん、なんでもないよ」


 小声で呟いた翠さんの一言に引っかかった。


「そうだ、スマホ持ってきたよ」


「お、じゃあ後でID交換しよう!」


 また会える、そう聞こえたが、その言葉は気にしないでおこうと思った。


「先にチケット買ってからご飯食べる?」


「うん、そうしよう」


 映画館の中に入り、エスカレーターを昇る。段々とポップコーンの甘い香りが広がり、映画館の雰囲気を漂わせる。


「映画館の匂いって、なんかいいよね」




 段差で僕よりも背の高くなった翠さんが振り向いてニコニコとしながら言う。


「ね、映画館に来たって感じがする」


 エスカレーターが僕たちを運び終えると、チケットの販売機が現れた。


 翠さんは販売機の画面を慣れたような手つきでポチポチと押す。


「何を観るの?」


「これ観たいんだけど……どう?」


 翠さんの指先には”明日の世界”の文字が並んでいる。


 僕は他の作品にざっと目を通した後に口を開いた。


「うん、いいよ。それにしようか」


 そういうと翠さんはピンと伸ばす人差し指でそのまま文字を触った。




「ありがとう、なんだかあらすじとか、題名に惹かれちゃって、観てみたいなって思ったの」


 ポチポチと画面を触る音と翠さんの声が混ざる。


「うん、僕もなんだか素敵な題名だなって思った」


「よかった……」


 翠さんは優しく微笑んだ。


「席どこが良いかな?」


「んー、僕はいつも1番後ろを取ってるよ」


「うそ!? 私どちらかというと前に行っちゃう」


 目が合うと、あははと僕たちは同時に笑いが溢れた。


「じゃあ間にしようか」


「うん、たまには少し後ろでも観てみたい」




 僕たちはI列の16番と17番の席のチケットを購入した。


「14:15上映開始だから、お昼ご飯食べたらちょうど良いかもね」


  スマホで翠さんが時間を確認してくれた。


 チラッと見えた画面には、12:32の数字が並んでいた。


「そうだね、ゆっくり食べよっか」


 僕たちはエスカレーターを下って、映画館前にあったイタリアンのお店に入った。


 翠さんはカルボナーラを、僕はナポリタンを頼んだ。


 いただきますと食べる直前、翠さんはバッグからポーチを取り出し、その中からヘアゴムを取り出した。


 長い綺麗な髪を後ろで1束に結び、再びいただきますと手を合わせてフォークを持った。


 白く綺麗な肌が印象的であった。


 フォークにくるくると数本のパスタを巻き付けて、小さな口に運ぶ姿すら綺麗だと思った。


 どうしてこんな綺麗な人と僕なんかが食事をしているのか、不思議に思った。


 周りの人からも注目を集めるその容姿に、僕は手が止まる。




「どうしたの?」


 僕の様子を見た翠さんも手を止める。


 僕は思い切って訊いてみた。


「翠さんは、どうして僕と食事してくれるの?」


 翠さんは首を傾げ、質問の意図を理解していないようだ。


「人間なんだから、ご飯を食べるのは当たり前じゃない?」


 その答えは大雑把だった。


「そうじゃなくて、翠さんみたいな綺麗な人が、どうして僕と一緒に。っていう意味」


 翠さんは僕から視線を逸らし、少しだけ眉間に眉が寄った。


「容姿が綺麗だとか、良くないだとか、関係ないと思う。自分が誰と一緒に食べたいか、それが一番大切じゃない?」


 翠さんからの言葉を呑み込み、自分がバカだったことに改めて気付かされた。


「ごめん、僕が間違ってた。翠さんの言う通りだと思う」


 顔の力が緩み、そうでしょうと満足気に言う翠さんに、僕も素直になろうと気持ちをぶつけた。


「僕も翠さんとの食事が楽しい。また一緒に食べたい」


 そう言うと、ふふっと微笑する。


「今食べてる最中なのに、気が早いよ。けど、次は何を食べようかね。あ、そういえばID教えてもらってない!」




 背筋を伸ばしてテーブルに両手を乗せる翠さんを見て、自分もすっかり忘れていたことに気づいた。


 僕たちはテーブルの上にスマホを置き、互いのQRコードを読み取った。


「はい、じゃあこれでいつでも颯君にイタズラ電話できると」


「え、やめてよ」


「あはは、冗談だよ」


 翠さんが言うと、あまり冗談に聞こえないことは黙っておいた。


 そして僕たちは会話を重ねて食事を済ませた。


 映画館に戻り、ポップコーンの匂いが鼻につくと、翠さんが口を開く。




「ポップコーンとか食べる?」


「せっかく映画館に来たから食べたいけど、お昼ご飯がまだお腹に残ってるから、Sサイズにしようかな」


「じゃあMサイズのやつ一緒に食べようよ!」


 僕が販売店の大きめのメニューを見上げていると、少し嬉しそうに提案された。


「その方が安そうだし、そうしようか」


 僕たちはポップコーンペアセットを注文した。


 キャラメルポップコーンに、ドリンクは二人ともカルピスにした。


 ポケットにしまったチケットを出し、トレイの上に乗せると、ちょうど入場開始のアナウンスが流れた。




 僕たちはエスカレーターで更に2階上に上がり、8番スクリーンに向かった。


 館内に向かう途中、チケットをスタッフに渡そうとすると、翠さんがトレイからチケットを取り、僕の分まで渡してくれた。


 人が少なかった。あまりテレビなどでも宣伝されていなかったせいだろうか。おかげでそこまで居心地が悪くなかった。


 館内が暗くなる。オレンジ色の微登を残し、スクリーンから光と大きな音が僕たちを襲う。


 映画の広告と注意事項の動画が流れる。僕はこの広告のせいで、いつも映画が始まるタイミングを掴めない。


 何か物語が始まったようだ。おそらく目的の映画が始まったのだろうと、僕は少しだけ座り直した。


 映画の最中、ポップコーンは席に挟まれるように丁度間にある。




 僕は翠さんとタイミングが重ならないよう、隙を見て手を伸ばす。


 映画に集中できていないと後からわかった。


 映画が進むにつれて、容器の奥に手を伸ばさなければならない。


 ガサガサとできるだけ音は立てないように指先が慎重になっていた。


 翠さんは音を立てずに容器に手を伸ばすと、まるでポップコーンの配置を知っているかのようにすぐに手を引く。


 エンドロールが流れ終わり、明かりがつくと、全員が脱力したような空気が流れた。


 ポップコーンは、細かなものと種だけがわずかに残っていた。


 両手を高く上げ、んーと小さく声を上げながら伸びをする翠さんに訊いてみた。




「翠さん、ポップコーン取るの上手くない?」


「ポップコーン取るのうまいってなに!?」


 伸びから一瞬で力が抜け、笑いが溢れる翠さんを見て、自分でも質問の意味がわからないなと思った。


「ポップコーン減ってくると取りづらくないの?」


「んー、普通に指伸ばせば取れると思うけどなぁ。颯君、意外と不器用なんだね」


 質問のぶつけ合いのような会話は、翠さんの笑顔で終わった。


 席を立とうとすると、翠さんがカバンに手を突っ込み、ポケットサイズのウェットティッシュを取り出した。


「はい、手ベタベタでしょ」


「うわ、女子力だ」


「うわってなに、これでも女子なんですけど」


「ごめんごめん、ありがとう」


 怒ったように笑う翠さんから1枚もらい、左手に残る油を拭いた。


 スクリーンのある部屋から出ると、翠さんが振り返って口を開く。


「じゃあ、次はどうしよっか? どこか行きたいところある?」


「え?」




 映画を観たので、翠さんの目的が満たされ、これから帰宅だと思っていた。


「あれ、もう帰る気だった?」


「うん、映画も観たし、翠さんの目的も無くなったから帰宅コースかなって」


「そっか、もう帰らないといけない?」


「そういうわけではないけど……」


 正直なんだか今日はもう疲れてしまい、乗り気ではなかった。すると翠さんがうーんと拳を顎に付け考え出した。


「あ、じゃあちょっとだけお買い物に付き合ってよ」


「お買い物?」


「うん、ルーズリーフが無くなっちゃったの。雑貨屋さんに行ってくれない?」


「雑貨屋さんかぁ、うん、そのくらいなら全然大丈夫だよ」


 翠さんがスマホで近くの雑貨屋を調べ、画面を横から覗き込んだ。


 バスのロータリー横にあるデパートの中の雑貨屋に僕らは足を運んだ。


「ルーズリーフ……ルーズリーフ……あ、あったよ!」


 翠さんが指を差す方へ向かい、いつも使っているのであろう種類のルーズリーフを迷わず手に取った。




「それで大丈夫?」


「うん、ありがとう」


 レジへ向かおうとすると、見知らぬキャラクターの置物のサンプルに僕らの目が止まった。


「かわいい! 見て! 何かわからないけどかわいいよ!」


 無邪気に燥ぐ翠さんを見て、女の子らしさを感じるのと同時に羞恥心もあった。


「これ一個ずつ買わない?」


「え!?」


「これ、どれが入ってるかわからないみたいだし、ふたりで買ってみようよ!」


 季節外れな雪だるまのような置物のサンプルの前には、[全6種]と[540円(税込)]の文字が書かれたポップが貼ってある。




「確かに可愛いけど……」


 僕が置物から翠さんへ目を移すと、キラキラとした瞳で僕を見つめている。


 やけに真っ直ぐなその瞳に、僕は折れてしまった。


「んー、わかったよ。1個だけね」


「やった!」


 まるでオモチャを前にした子どものように感じた。


 互いに1個ずつ購入し、僕はバーコードにシールが貼られた箱をポケットに突っ込んだ。翠さんは手から袋を下げていた。


 雑貨屋を出る際、帰ったら開封して写真を送る約束を無理に結ばされた。




「じゃあ僕は帰るけど、途中まで一緒だよね?」


「うん、けど近くだし、バス代もったいないから私は歩いて帰ろうと思う。バス停が、えっと……」


「そっか、じゃあ途中まで送るよ」


「え? いいよ、家近いし悪いよ」


 バス停の場所を示そうと、上げかかった右手をそのままに、翠さんは驚いていた。


「僕もバス代節約したいし、もう暗くなってきたし」


「いや、でも……」


 申し訳なさそうな顔をする翠さんに、迷惑かもしれないと考えが改まった。


「ごめん、迷惑だったら普通に帰るよ」


 こんな時、どんな言葉を使うのが正解なのだろうか。僕にはまだわからなかった。




「ううん、全然迷惑ではないんだけど……じゃあ、お言葉に甘えようかな……」


 申し訳なさそうな顔が残る翠さんの表情には、どこかまた笑顔のような表情も現れた気がした。


「うん、今日はお世話になったし。せめてものお礼……にはならないか」


 気持ち程度のお礼なると思ったが、少し考えるとあまりならないと思った。


「ううん、嬉しいよ。ありがとう」


 満面の笑みとは言えないが、初めて翠さんから笑顔を見られた気がした。たくさん見てきたのに、初めて見たような感覚だった。


 駅から翠さんの家の方へ歩く道、知らない街にどこか心が惹かれる。


 緑あふれる住宅街と緩やかな上り坂、どこか見覚えがあるような気がした。こんなことがたまにあるが、夢で見た場所と似ているのだろうと思考を流した。


 翠さんとの会話はたわいも無いものだった。




 小さい頃の話、友達の話、恋人はできたことあるのかという話。


 その中で、この街の話になった。


「颯君、この辺きたことないの?」


「うん、なんだか見覚えがあるような……けど多分、夢で似たような場所を見ただけだと思う」


「……そうなんだ」


 一瞬、翠さんの表情が曇った。


「翠さんは、この地域にずっと住んでるの?」


「ううん、お父さんの転勤で、少しだけ東北の方にいたの。けど、この場所にちょっと心残りがあって、高校生になると同時に戻ってきたんだ」


「へー、じゃあ今はお母さんと二人とか?」


 なんだか翠さんから徐々に笑顔が減っていっている気がした。


「え? ううん、アパートに一人だよ?」


「え! 高校生で一人暮らしなの!?」


 高校生にして自立したその生活に驚きが溢れる。


 僕の驚き方に、翠さんがあははと笑う。


「そんなに驚く? 意外とできるものだよ?」


「僕なんか料理できないし……寂しかったりしないの?」




 どうしてだろうか、会話が進むにつれて、翠さんの表情がどんどん曇っていくような気がした。


「そりゃあ寂しいけど……それでも、ここに戻ってきたかった理由があるの」


「なに? 理由って」


 沈黙の時間が流れ、察した。


「ごめん、訊きすぎたよ」


「……ううん、ごめんね」


 翠さんは無理に作った笑みで僕に微笑んだ。


「翠さん、ごめんね。悲しませて」


「……え?」


「僕、馬鹿だし、鈍感だから何がいけなかったかわからないけど、翠さんが悲しんでそうだったから」


 翠さんは少しだけ目を大きく開いて、そんなことないよと言った。


 アパートまでは駅前からすぐに到着した。




「じゃあ私、家に帰るね。またね、送ってくれてありがとう」


 きれいな手のひらを左右に振ると翠さんはくるりと周り、後ろ姿だけを残して振り向きもせずにアパートの階段を上っていった。その姿はどこか小さく見えた。


「女の子はわからないなぁ……」


 小さな言葉が漏れた。


 僕は帰り道、景色を見ながらどうしてこの場所を初見として感じないのか、どうして翠さんは無理に笑顔を作るのか、疑問が交互に頭をよぎる。


 あのカフェへの入り口に着いた。


 どこか不気味で、普通なら誰も通らないだろうなと思った。


「翠さん、よくここに行こうと思ったな……」




 中へ入り、雨音が消えていき、自分の足音だけが響く。


 足元が暗く、前方が見えにくいが、段々と明かりが見えてきた。


 僕は光に向かって一歩ずつ、前へ歩いた。


 通路を抜けると、大きな木が目に映り、夕焼けで空が少しだけ白っぽく眩しかった。


 カフェの方に目をやると、誰かテラスに誰かが座っている。


「誰だろう」


 近寄ると、イノシシだとわかった。


「ラテさん?」




 僕が声をかけるとイノシシは振り返り、失礼だなと高い声色で言い返された。


「あ、すみません」


 黙りこくる元気のないモカに体が引き止められた。


「どうしたんですか?」


「なんでもねぇよ、帰るなら早く帰れよ」


 虫を追い払うように対応するモカを見て帰ろうと思った。


 僕の家への出口の前に立ち、腰を低くして出ようとすると、僕の中で何かが引き止めた。


「……なんだよ?」


 モカの横に座り込むと、驚いた表情を見せた。


「君が僕の事を好んでいないのは知ってるけど、話し相手くらいにはなれるよ」


「なんで人間のお前なんかに……」




 そっぽを向くモカに僕は面と向き合おう思った。


「ごめんなさい、モカの兄弟を亡くしてしまったのは僕たち人間のせいだと思う。けれど、翠さんみたいに、優しい人もいるとわかっていてほしい」


 僕は顔が見えなくなるまで頭を下げた。モカは黙ったままだった。


「こんなことでモカの気持ちが晴れるわけではないことはわかっているし、僕のことは嫌いなら嫌いのままでいい。だけど、翠さんには優しくしてほしい」


 自分でもこんな言葉が口から出たのに驚いた。するとモカが口を開いた。


「変なやつだな、お前」




 顔を上げると、モカが僕に顔を向けているのがわかったが、突然現れた夕陽が眩しく思わず手で影を作った。


「別に元々怒ってねーよ。お前にも、翠にも」


 テーブルの木目を見つめ、寂しげな表情で続けた。


「けど、あの日から……目の前で兄弟が殺された景色と、叫び声が頭から離れねぇんだよ。目の前で殺される家族に、俺は何もできなかった。何もしなかった。この悔しさと怒りの向き先が、わからねんだよ……」


 かける言葉が見つからなかった。


 僕にはわからない、モカだけの悲しみと経験だった。


「俺に残ったのは兄貴だけ。あとはもう何も残っていない。もう全部が、どうでもよく感じてな……」




 僕の膝の上にある手の甲に滴が落ちた。


「おい何泣いてんだよ!?」


 モカは僕に目を向けると、反射で少し僕から遠ざかるほど驚いていた。


「ごめん……あれ……?」


 涙を拭うも、僕の意志とは反して溢れかえった。


 他人に感情移入したことがなかったのに、この時の僕はやたらと心が叫んでいるようだった。


 僕は自然と涙が止まらず零れる。


「お前が泣いてどうすんだよ!」


「ごめん、自分でもわからない……。けど、モカの悲しみはモカにしかわからないのに、何も考えられていなかった自分が少し悔しい」


 うまく話せなかった。




 困惑するモカは肩の力を抜いて口を開いた。


「そうか……ありがとうな、泣いてくれて。そういえば翠もこの話を聴いた時は、随分と泣いていたなぁ」


 ぼやけて映るモカの姿は、どこか強く、寂しそうであった。


「少し気が楽になった。今日はもう帰るとするか。朝日も登ってきちまったし」


「……え? 朝日?」


「なんだ? お前まさか夕日だと思ってたのか?」


「うん、だって、時間的に……あ!」


 気がつくのが遅かった。




 この世界は時間感覚がズレているから、日が落ちる時間に入ってきたということは、こっちでは日が昇っていたのだ。


「お前……マヌケだな……ハハ」


 初めて笑顔を見せるモカに心が少しだけ晴れた気がした。


「ほら、後ろみてみろよ」


 言われた通りに振り向くと、キレイな真っ白な空に、柔らかな青い雲が流れている。


「うわぁ……空の色も違うんだね……」


「ああ、不思議なとこだよな、ここは」


 流れる空色の雲に僕は、またも目を奪われる。


 空はとても素直だった。


「じゃあ俺は行くぜ。次はいつかわからんが、またここで会うだろうな。じゃあな」


 そういうと、モカは走ってカフェ横の建物の隙間へと抜けて行った。


「僕も帰らないと……」




 ここを出る前に、僕の鉢を確認してから帰ろうと、植木鉢が並ぶ棚に近寄ると、花は変わらず増えていない。


 一むらのカランコエは、生き生きと花びらを揺らしていた。


 神社へ続く穴を抜けると、うす暗く辺りが見えにくくなっていて、夜に限りなく近かった。黄昏時というのだろう。


 僕は鳥居に一礼し、足元が見えにくい階段を、転ばないように一段ずつゆっくりと下った。


 帰り道、雨で濡れたアスファルトと僕の靴が視界に入る。


 ただ、思い浮かぶ翠さんの表情が僕の心を揺さぶる。


 いつも笑顔を見せているが、本当はどう思っているのか、僕ははっきりさせたかった。


 こんな事を考えている帰り道は、とても長く感じた。


 家に着くと、もう辺りはすっかり暗く、昼白色の街灯と、それを映す水溜りだけが僕を見ていた。


 家の扉を開けると、ハンバーグの香りが鼻についた。




「おかえり」


 リビングに行くとテレビを見ていた美月だけが僕に気づいた。


「ただいま、お風呂入ってくる」


「愛花入ってるから無理だよー」


「マジか……」


 帰宅後はすぐに風呂に入りたい僕は口から言葉が漏れた。


 手を洗い、うがいをした後、愛花が出るまで待つしかなかった。


 部屋に入り椅子に座ると、太ももに違和感があった。


 右ポケットに手を突っ込むと、少し潰れた箱が出てきた。


「あぁ、そっか、これ……」




 箱を開くと、中から雪だるまのような置物が顔を覗かせた。


 引っ張り出すと、体育座りをしていた。


「……意外とかわいいな、これ」


 実際手元にあると、愛着が湧いた。


 少しの間見つめていると、ポケットからピコンと音がした。


 再びポケットに手を突っ込み、スマホを取り出すと、【U 翠】という名前からメッセージが来ていた。




「あ、翠さんか……」


 ロック画面には【写真を送信しました】と表示されていた。


 ロックを解除してアプリを開くと、枕に頭を乗せ、横たわる置物の画像が送られていた。


 立て続けに、またピコンとなった。


【みてみて可愛い! なんか癒される!】


 文末に笑顔マークの絵文字が付けられている。


 カシャッと音を立て、僕の置物の写真を送り返した。


【可愛いね。僕のは体育座りしてるよ。】


 送った写真をを追うように文を送ると、すぐに既読が付いた。


【颯君はどこに置くの?】




 どこに置こうか。考えていなかった。


【うーん、机の上にしようかな。】


 メッセージを送ると1秒もたたずに既読の文字がついた。


【いいねぇ! 私は横たわってるし、ベッドにしようかな】


 キラキラの絵文字が文末に添えられている。


【あと颯君、女の子とのやりとりは絵文字を使った方がいいよ?笑】


 そもそも家族や大地以外とメッセージのやりとりなどしたことがない僕には絵文字の付け方さえわからなかった。


【絵文字ってどうやってつけるの?】


 僕は一応尋ねてみた。


【え!? 絵文字使った事ないの!?】


 女の子の世界では当たり前なのだろうか。やけに驚いていた。


【うん。そもそもメッセージ自体あまり使わないんだよね。】


 慣れない手つきで翠さんとメッセージを繰り返した。


【まず句点やめよう!笑 怒ってるようにみえちゃうよ!笑】


 教科書や小説には句点がつくのに、変な誤解を招いてしまうことを初めて知った。


【どうすればいい?】




 僕が訊くと、すぐに返事が来た。


【んー、とりあえず文末に笑を付けておけばなんとかなる!笑】


 この文になんだか納得できた。


【わかった笑 これから意識してみるね笑】


 自分で送っておきながら違和感だけが残った。


【なんか面白い笑笑 じゃあ次は絵文字だね!】


 翠さんとの連絡が続いた。まるで本当に会話をしているように、途切れる事なく。


「お風呂空いたよー」


 下の階から美月が叫ぶ声が聞こえた。


【ごめん、一旦お風呂入ってくるね笑 戻ったらまた連絡する!】


 びっくりマーク、お風呂、謝る人の絵文字を添えて僕は一度スマホをベッドの上に置いた。


 僕がお風呂から出ると、ご飯が食卓に用意されていた。


 僕はホカホカの体でご飯を口にかきこんだ。




「なんか今日、お兄ちゃん食べるの早くない?」


 愛花が箸を止めた。


「え? そう?」


 自分ではいつも通りのつもりだった。無意識に急いでいたようだ。


「早く食べても今日はお兄ちゃんがお皿洗いの当番だよ」


 自分の中でどうしてか、気持ちが落ち込んだのがわかった。


「わ、わかってるよ」


 少し動揺してしまった。


 視線を感じ、顔を上げると美月と目があった。


「あ、そうだ。明日私夜やることあるから、颯、明日と今日代わってくれない?」


 僕は早く部屋に戻りたかったが故に了承した。


 ご飯を食べ終わり、部屋に戻ってスマホを手にした。


【そっか、私もご飯食べ終わったし、お風呂入って寝るね! おやすみ!】


 Zが3つ並ぶ絵文字が添えられていた。


 心の中で何かが落下する感覚があった。


 ふー、と大きく息を吐き、ベッドの上に大きく仰向けになった。


 体がベッドに沈んでいくように感じ、疲れがどっと溢れた。


 少しの間天井を見つめていると、コンコンコンとドアが叩かれた。




「何隠してるのー?」


 ドアの隙間から美月が顔を覗かせる。


「……え?」


 何のことだかわからず、一瞬だけ思考が停止した。


「妹を騙せても、姉は騙せんぞ。さあ吐け!」


 部屋の中に入り、扉を閉めると美月が強気で僕を問い詰めた。


「まってよ、何のこと!?」


 僕が美月を治めようとすると、首を傾げた。


「あれ? 女の子といい感じなんじゃないの?」


 ぎくりと強く叩かれる感覚が胸に響く。


 僕はあぐらをかいた自分の足を見つめ、口を開いた。




「いい感じ……では……ないと思う」


「ふっふっふ。やはりな」


 美月が悪い顔をして腕を組んだ。


「てか、なんで美月が知ってるんだよ……!」


「女の勘を舐めるでないぞ」


 ニヤッとして自慢気に言い、美月は続けて話す。


「というか、今日一日家にいなかった上に、あんなに早くご飯を食べようとするなんて、好きな人ができた他考えられないよ。初々しいなぁ」


 ニヤニヤと馬鹿にするような口調で話す美月に少し腹が立った。


「別に好きってわけではないし。ただの知り合いだよ」


 美月から目を逸らして言った。そして逸らした先にはたまたまあの置物が目に入った。


「へー、それ、お揃いで買っちゃったんだ?」


 美月には全て見抜かれているようで、驚きよりも少しだけ恐怖の方が強かった。


「なんで……わかるの……?」


「あんた顔に出やすいからね。昔から」




 僕はその言葉に自分の顔を、右手で少しだけ隠した。


「まあ馬鹿にしにきたわけじゃないよ。どんな子なの?」


 少し力を抜いた美月に、僕も同じように少しだけ力が抜けた。


「うーん、よく笑う人……かな……」


「へぇー、いいじゃん」


「けど……」


「けど?」


 僕は話すか迷ったが、数秒悩んだ末に美月になら話してもいいのかましれないと思った。


「よく笑うけど、いつも悲しんでる……」


「あー、颯そういうのわかるもんね」


「……うん」


 僕は他人の感情を読み取るのがうまかった。これは小さい頃からそうだった。生まれつきというやつなのだろう。


「いつもって?」


「本当に……いつも……。時には本当に笑ってる時もあるんだけど、悲しんでる気持ちの方が強く感じる……」




 美月はうんうんと頷き、僕の話を聴いてくれた。


「そっか、心当たりは?」


 僕は首を横に振った。


 美月は曲げた人差し指を顎につけると、うーんと少し考え始めた。


「どうしてその子が悲しんでるのか、私にもわからないけど、こういうのは人の気持ちがわかる颯だからこそ寄り添ってあげるべきだと思う。だからその子もきっと颯と一緒にいるんだよ」


 真面目な顔をする美月を久しぶりに見た気がした。


「それか何か嫌なことでも言ったんじゃない?」


 しかし、そうであるなら申し訳ないと思い、気分が落ち込んだ。


「うそうそ、あんたに限ってそんなことあんまり無いだろうし冗談だよ。けど、その子と関わる中で 解決できるのも、さらに悲しませるのも、颯次第だから、気をつけなね」


「うん、ありがとう……」




 美月の言葉にはいつも重みがあった。毎度姉のアドバイスに救われてきたし、きっと今の話も何か役立つのだろうと、その言葉を胸にしまっておいた。


 美月が部屋から出て行き、僕は明日の支度を始めた。


 リュックに体操着と教科書、筆箱を詰め込み、部屋を出た。


 洗面台に降り、歯を磨いていると愛花が前を通る。


「明日朝練だから寝るね、おやすみ」


「おやふみ」


 歯ブラシを咥え、うまく話せない。


 愛花は階段を上がって行った。


 口を濯ぎ、リビングでバラエティ番組を観る母におやすみと伝えて、また部屋に戻った。ベッドの上に置いてあったスマホに充電コードを挿すと、画面に2件の通知がきていた。


 ロックを解除すると、6分前に大地、4分前に翠さんからメッセージが届いていた。


 僕はアプリを開き、翠さんのトーク画面を表示した。


【そういえば、次はいつあのカフェ行く?】


 カフェはお金がかからない。金銭面的にはありがたいが、さすがにまたすぐにいくのは申し訳ないと思った。




【すぐにまた行くのはマスターに申し訳ないから、少し時間を置こうと思う。】


 送った文を眺めていると、すぐに既読がついた。


【そっか、お金かからないと申し訳ないよね笑 じゃあ次に会うのは梅雨明けなんてどう?】


 日付が明確にできないが、ちょうどいいかもしれないと納得した。


【うん、じゃあそうしようか。】


 梅雨明けについて考えていると、またすぐに返事が来た。


【おっけー! じゃあ梅雨明けの日の朝に集合で! あと、絵文字と笑つけなね! じゃあおやすみ!】


【おやすみ笑】


 すっかり忘れていた僕はおやすみとzzzの絵文字を付け加えて送り、翠さんとのトーク画面を閉じた。


 翠さんのトークの下に、大地のトーク画面があり、①の表示が残っている。


「あ、忘れてた」




 大地とのトーク画面を開くと1文だけメッセージが来ていた。


【明日体育だから体操着忘れんなよ! あとライブ外れた……泣】


 歯を磨く前に体操着をしまった記憶を思い出した。


【うん。大丈夫だよ。ありがとう。 またいつかの機会だね。】


 送信ボタンを押下する直前、翠さんとのトークを思い出した。


 僕は打ち込んだ文字を消し、打ち込み直した。


【うん!笑 大丈夫だよ!笑 ありがとう!!笑 次は当たるよ!!笑】


 びっくりマークをすべて赤い絵文字にし、笑顔の絵文字も付けて送った。


 すぐに返事がきた。


【え、お前……どうしちまったんだよ……笑】


 動揺を文字で送りつけられ、自分の雰囲気とはやっぱり違うのかと頭が冷静になった。


【ごめん。色々あって間違えた。】


 やっぱり僕にはこの方が合っている。そう思った。


 僕はスマホの電源を落とし、部屋の電気を消してベッドの中で隠れるように目を瞑った。

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