第5話

「ところで、たくみくん。ともみの方は、今も若さを持っているだろうか」

神妙に言うおじさんの横顔は年老いている。


「まあ、そういえばそうですね。お互い齢を取るはずですから」

 ぼくは納得する。


「それに」

トキオさんは続ける。

「もし仮にわたしが若さを手に入れて、ともみを待っていた時間をゼロにしたとする。同時にともみも時間をゼロにできれば何ら問題ないだろう。けれど、一方、例えばわたしがゼロにできてもともみができなかったら、わたしはいつのともみに会うんだろう」


 理解が追い付かなくて混乱する。

「いつの、トモミ…。ええっと逆に、いつのトモミさんに会うつもりなんです」


「いつ」

 トキオさんはさらに神妙にうつむく。見た目はまるで老人だ。


「いつでも構わない。それがともみなら、会えるなら」


 急に輝いた瞳はこどものようだ。


「ともみさんって、どんな人ですか」


 少しだけ幸福な顔で彼は語る。


「彼女とは岡山駅のホームで出会った。乗り継ぎを間違えて困り果てていたところを助けたんだ。わたしはちょうど勤務終わりだったから、彼女の目的地への最短路線を瞬時に編み出し、最良の乗り継ぎ時間を伝え、乗り場までお連れした。ついでに何両目が一番改札口に近いかもアドバイスしてね」


「一目惚れ?」


「まあ、そうだったのかもしれない。あの時は見た目がどうこうより一緒にいると呼吸がしやすいというか、何というか」


「好きなんですね」

「ああそうだな。好きだ」


 彼は時間を巻き戻す。タイムマシンに乗らなくても今時間が巻き戻ったことをぼくは感じる。


「いつも、岡山駅まで行って何してるんですか?」

「車両基地をぶらついたり、整備車両を点検したり」

「トキオさん、運転手だったんですよね」

「ああ、知ってるのか」

「でも、今は違うんでしょ。そんなことしてやばくないです?」

「ただぶらついていたり、ただ指差し確認しているだけだ。これを着て」

 トキオさんはリュックを開き鉄道会社社員時代の制服を見せる。


「以前、これを着ていなかったばっかりに呼び止められて時間をくった。時間は大事にしたいのに」


 彼の時間とぼくの時間は本当に同じ時間だろうか。ぼくはふと疑問に思う。


「タイム、クライマー」

ぼくは思わず口にした。彼はひゅっと呼吸を止めた。


「タイムクライマーは、彼女の方だ」


 彼は夜景のずっと遠くを眺めながら言った。


「時間を乗り越えて戻ってきてほしいのは」


 誰もいない車内の床は所々雨雫が光る。

 そこに傘を立てて立っていた人は今頃家でお風呂にでも浸かっているだろうか。ぼくはそんなことをぼんやり思い、それは未だ見ぬともみさんの顔になる。


「切符を失くしたんだ。ともみは」


「切符?」


 トキオさんは頷く。

「帰りの切符だ。ここU駅に戻るための。わたしが買って渡した。東京までの往復切符を買って事前に渡していたんだ。でも彼女は出張の日程を間違って一日余分に計上していた。だから、帰る日まで一日余ってしまった。そこでその一日で山歩きをした」


 彼は思い出す。その「余った」日、電話で話したこと。彼女は富士山がきちんと正面から見てみたい、と言った。


(新幹線から見える富士山はいつも一瞬で、もっと見ていたいと思うのにスピードを緩めることもちょっと道を逸れて近づいてみることもないの。レールの上を規則的にダイヤ通りに通過するだけ。わたし、どうしても、富士山がちゃんと見てみたかったの。自分で近づいて、立ち止まってゆっくりと正面から。だから近くの山に登ったわ。山頂で眺める富士山は素敵だった。今ね、山のふもとの公衆電話。もうあと少しで街へ出るの。でもね、たった今、帰りの切符がないことに気が付いてしまった)


「彼女はカメラをリュックから取り出した山頂で、切符を落としたらしい。それ以外、リュックを下ろし中身を出した場所はないと言った。仕事中で忙しかったわたしはそこで話を切り上げた。何しろこちらはダイヤ通りに列車を運行させなければならないから。だから今登った山の名前を聞かなかった。これからどうするつもりなのかも聞かなかった。(切符はまた買えばいいよ。ごめん、忙しいからあとで)そう言って、つながった電話を切ってしまった」


 トキオさんは顔を覆った。

「どうして切ってしまったんだろう。せっかく繋がっていたのに。あの時つながった時間と空間は今どこにある」


 さっきの模試に、そんな問題文はなかった。

「無駄だ。今この時も。ずっとあれから続く全てのわたしの過ごした時間全て」


 ぼくは解答欄を探している。彼は問題文を上手く作れないまま試験時間を延長する。


「列車の時刻表は、ダイヤグラムという規則的な表から作る」

 不意に彼は話す。

「ダイヤグラムは縦軸を駅、横軸を時間として、列車の走行を右上に伸びあがる線グラフで表現する。グラフは当然ながら進む時間の方向にしか伸びて行かない」


 窓外そうがいの暗闇で電線が幾重いくえにも伸び、電車に並走するように見える。


「わたしは自分の人生を恐らくダイヤグラム通りに生きてきた。ともみと会えなくなる日までは。今はけれど、時刻表を見失ってしまった。自分が今、乗り継ぎの列車を待っているのか。待つ場所がここで合っているのか」


 問題文に新たな情報が追加される。この運転手は時刻表を持たない。切符を失った乗客と運転手の、時間と空間は断たれた。彼は彼女を乗せることができるだろうか。

 ぼくには解答がはっきりとわかってしまう。そうしてぼくは話題を変えるという回答逃れをする。


「今日はこの電車でまたUまで引き返すの?」


「ああ、雨も強いし、たくみは中学生だし、そうした方がいい」

トキオさんは急に分別ある大人の顔をする。


「トキオさんは?」

「うん?」


「トキオさんも今晩はそうした方がいいよ。台風来てるから」

「台風?」


 トキオさんは何も知らなかった。台風の通過予測の点線がこのまま予定通り行くと今夜岡山の上を通過すること。

 岡山駅に到着し、改札の上を見上げる。どの線の電光掲示版も赤く点滅して運行中止を示す。


「え、これって、もう今夜は走るの止めたってこと?」

「そうなるな」

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