忘川河の守り人

白玖黎


 常夜の空から星が降ってきた。

 あまりにも切羽詰まった声で同朋が叫ぶものだから、とっさにまぶたを開けてしまった。牡丹雪のごとく淡く、やわらかに落ちゆく星を仰ぎ見て、ああ、もうそんな時期なのかとため息をつく。腕を枕に仰臥していた体を起こすと、冥き忘川河のほとりにはやはり彼岸花が咲いていた。

 現世では青桐の花が満開になる頃だというのに。


 今から遥か時を遡った上古より、人は死後のあれこれについて想いを馳せるようになったらしい。旧記によると霊魂は不滅であり、肉体を失えば輪廻転生のため黄泉の道をたどることになる。暗く長い黄泉路の果てに行き着く先は一条の河川。彼岸と此岸の境をなす忘川河である。

 まどろみから覚めた体をうんと伸ばし、彼岸花の群れをかきわけて進む。その名の通り死を象徴する赤き花は冥土であればどこにでも咲いていた。現世とは違って生物の存在しない死者の世界。大地を鮮やかに彩るのは彼岸花の赤だけだ。

 しばらくあたりを巡回し、異常なしと認めれば真っ赤な絨毯の上で再び横になった。もう数十年もこの場所で花園の管理を任されている。同じ時期に鬼使い、言わば死者の国の役人となった同朋はすでに高位に進み、日々現世と冥土をせわしなくゆき交っている。彼岸花の守り番を続けている者は今や他にいなかった。

 ふと視線を横にずらせば、忘川河を挟んだ対岸にずらりと長蛇の列をつくる霊魂の姿があった。そろいもそろって白装束を身に包んだ集団は、落ちゆく星の光を頼りに黄泉路を歩んでいる。死者の国へと向かい、魂の審判と転生のための手続きを受けるためだった。

 彼らの前に立ちはだかる忘川河は、その名のとおり忘却の河川である。霊魂は忘川河を渡りきり、今世の記憶をさっぱりと水に流さなければならない。死者の国へ足を踏み入れる者は、現世に残した縁やしがらみを断ち切ることを義務づけられているのだ。

 今年は例年にも増して死者が多いようだった。常夜の空から星が降れば降るほど、そろそろと鎖が連なるように列が長くなってゆく。燃え尽きた星々は昏き冥土へ降り立つ前に、乱れ咲く彼岸花の花弁に触れて溶けた。

 現世には星月夜という言葉があるようだが黄泉の星空は格別だった。こちらのものは落ちてくる。天から地へ。文字通り、上から下へ落下する。実を結ぶようにふくらんだ光が、ある日突然こぼれるように降り注ぐ。落下するとはいえ、その速さは雪花が舞い落ちるよりもゆっくりだ。

 星が落ちれば死人が増える。冥土へ喚ばれる魂が増える。鬼使いの仕事も積もり積もってゆく。慌ただしい足音に混じって怒号が聞こえてくるようになれば、そっと目を閉じた。

 同朋の邪魔にならなければそれでいい。

 ただこれまでもこれからも、自分だけは永遠に彼岸花園のかかしであればいいのだ。



 しかし再び惰眠を貪ろうとしたとき、怠惰な安息は妨げられた。突然の来訪者があったのだ。誰かに起こされるなんて久々だと思いながら顔を上げれば、見覚えのある姿があった。最近は顔すら見なかったかつての同朋である。

 風もないのに、白い官服の袖が煽られたように揺れる。冥土の鬼使いのあいだで袖の長さは位を表す。彼の袖は自分のものよりもうんと長かった。

「初仕事だ、見習い」

 奴は書簡を押しつけると、その場から逃げるように去っていった。わざとらしい嘲笑と皮肉めいたせりふを置き土産にして。

 後を追うことも億劫でしかたなく書簡を開く。簡潔にまとめられた文章の旨は、大方予想していた通りだった。正確に言うならば、予想していたのは内容ではなく書簡そのものだ。何度も同じ手口をこの目で見てきた。

 すぐさま河川へ投げ捨てようと、書簡をおもむろにまるめる。同封された依頼書から淡く光がもれ出たのはその直後だった。

 最初は星の残光が、書簡に反射しているだけなのだと思った。しかし封を開けてみれば、すぐにそうではないとわかった。一見何の変哲もない、墨で書かれた文字が青白い光を放っている。おどろおどろしく蠢き、徐々に強く、激しく輝きを増してゆく。誘われるようにふらりと目前に現れたのは、ひとつの燐火。光の胎動に呼応するように炎が大きくなってゆく。

 そのようすをしばしの間、呆然と眺めていた。それはまるで冥土に相応しくない、生命の誕生を見ているようで。見上げるほどに大きくなった燐火――もとい、魂の奔流が人の形を成してゆく。

 初めて見る光景に、やっと呼吸を思い出したかのように大きなため息が落ちる。すべてを悟ったようなそれには諦念も含まれていた。つまるところ、初仕事というのは冗談ではなかったようだ。いたずらだと思っていた書簡は上からの本物の命令で、たとえどんなに断りたくとも一介の鬼使いに拒否権はなかった。

「ごきげんよう、さまよえる迷魂さん」

 青白い光のなかになびく白装束をとらえれば、あくまで淡々と語りかけることにした。

「どうやらあなたの案内役を承ったようです。どうぞ短いあいだですが、よろしくお願いします」


 鬼使いとは、古い言葉で霊魂を導く者を指す。その名のとおり、現世でさまよえる迷魂を死者の国まで連れてゆくのが主な仕事だった。しばしば忘川河を渡る前、未練を残した魂から依頼を受け、未練晴らしの手助けをすることもある。

 此度の仕事は後者だった。未練にさいなまれた死者の霊魂は幽鬼となって現世に災いをもたらすこともある。

「私はただの案内人ですので、現世に直接介入することはできません。迷魂さん、あなたの未練はあなた自身で晴らすことが前提です」

 忘川河から現世へ渡る前に、いくつか注意しておくべきことを伝えておいた。あの世とこの世、両者の秩序を守るために死者の国が定めた鉄則である。

「あなたが自由に活動できる時間は一夜のみです。そのあいだに目的を果たして……」

 迷魂は始終興奮冷めやらぬようすで、真剣に話を聞いてくれた。しかし徐々に、その覆面の下から不穏な暗雲が立ちこめ始めているような気がした。

 先ほどから彼は一言も発さない。ざわざわと強風に煽られるような胸騒ぎがする。どうかしたのかと尋ねれば、不安は見事に的中した。

「実は、以前のことをあまり覚えていないのです」

 それでも問題ないでしょうか、と。

「以前とは……生前ですか」

「そうですが」

 完全に理解するのに数秒を要した。

「死者の国へ向かう道はあちらですよ」

「僕はまだ忘川河を渡っていません! ちゃんと依頼をするために、ここへやって来たのです」

 何だ? 今この迷魂は、何と言った?

 天地がひっくり返るというのはまさにこういうことだった。問題大ありである。生前の記憶もないのに未練など晴らせるわけがない。湧き上がる衝動のままそう言えば、芝居がかった仕草で大きく手をふられた。

「いえ! なにもさっぱり覚えていないわけじゃなくて、全体がかすみがかっているような……自分でも、よくわからないのです」

 白布の覆面の下で、自嘲気味に笑った気配がした。反応に困っていると、申し訳なさそうに目線をそらされた。

「ですが、ただひとつだけ、覚えていることがあるんです」

「名前、とかですか?」

 その瞬間、わずかに灯ったと思われた一筋の希望の炎は、他でもない彼自身によって吹き消された。

「僕には愛する人がいました。ただその人にもう一度会いたくて、ご依頼させてもらったんです」

 スケールの大きな未練になすすべもなく閉口する。いや、その手の依頼ならば特別めずらしいものでもないだろう。しかし、未練晴らしのよすががあまりにも漠然としすぎていると、どうにもできないのは事実だ。

 己の未練は己で晴らさなければ意味がない。鬼使いは手助けこそすれど、深く介入することはできなかった。その上制限時間はなんと一夜のみだ。もし間に合わなければどうなってしまうかを、この迷魂は知らない。

 ただ焦りだけが募り続けるなか、気づけば彼の白装束の裾をつかんで歩き出していた。

「あの場所なら、なにか手がかりがつかめるかもしれません」

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