第10話 藤森あやめは農家になる②

  藤森あやめはどんな状況下にあろうと諦めない。常にポジティブであるのが彼女の強みだった。心を乱して後ろ向きになったのは奏太にフラれたあの日だけだ。今でも思い出すと心が沈みそうになるので極力思い出さないようにしていた。

 実岡が軽トラを駆り、日の出よりも早くに荷物一式を運び込み、早速共同生活が開始した。


 ひとまず荷物を運び込んだあやめは実岡と二人、着替えて外に出る。そろそろ朝でも暑い季節だ、気合を入れて作業しなければ倒れてしまう。

 見ると作物たちはもういい色に色づき、収穫できるものができつつある。これはもうまずい状態だった。いや、いい出来なのだが、出荷する場所がないという今の状態を鑑みるとまずい状態だ。


 親友のみっちゃんはあやめの同じくらいデキる社会人なので約束通りにカメラマンを連れて実岡農園へとやって来てくれた。畑を見学し、写真を何枚か撮り、そしてインタビューをする。

 農園を始めたきっかける、二人で農園をやることになった経緯、実岡農園で収穫できる野菜の特徴。諸々細かく聞き出したみっちゃんは最後にこんな質問をした。


「とても仲睦まじい様子ですけど、ご結婚はいつ頃を予定しているんですか?」

「ええ!?」


「えっ!?」


 面食らう二人にみっちゃんはニヤリと含みのある笑顔を向ける。これは仕事ではなくオフの時に見せる顔だ。ずいっと近寄り、あやめに迫った。


「んん?だって、半年間二人で仕事して、倒産した後も一緒に働くことにしたんでしょ?しかも同じ家に住んで?そりゃあいつ結婚するのか気になるところじゃない!」


「いやいやいや」


 あやめは首を左右に激しく振った。実岡は顔がタコのように真っ赤になっており、首にかけたタオルで滝のように流れる冷や汗を拭っている。


「そんなんじゃないって、本当に!ねえ実岡さん!」


「あ、ああ」


 しどろもどろな二人を前に、パンツスーツ姿が決まっているみっちゃんは不服げな表情になった。


「えーっ、つまんないの。まあいいわ。その話はおいおいということで」


「おいおいも何も……」


 反論しようとするあやめにみっちゃんはため息をつき、声を潜めた。


「いいから、あやめはさぁ、能力は高いのに視野が狭すぎんのよね。せっかくなんだからちょっとは意識したらどうなの?実岡さん、いい人そうじゃん、顔だってイケメンの部類だよ」


「まあいい人だけどさ……」


「でしょ?いつまでも昔の恋愛引きずってないで、前を向きなよ、前を!」


 言ってあやめの胸を拳で軽くトンっと叩き、「じゃーね、ウェブには一週間以内に上げるから、原稿チェック後でよろしく!」と言って去って行った。


 残されたあやめは実岡と顔を見合わせ、笑う。なんとなく空気が気まずい。


「じゃ、残った作業終わらせようか」


「ですね!」


 一緒に住むことになり、一晩明けた翌日から実岡はあやめの行動にいちいち度肝を抜かされることになった。


「おはようございます、もうすぐ朝ごはんできますので待っていてください」


「あ、うん、ありがとう」


 農家の朝は早い。特に夏近くともなればもはや深夜くらいの時間帯に起き出し、作業に向かうことになる。

 というわけでこの「おはようございます」の時間はまだ午前四時だった。

 その時間に既に完璧に身支度を整え、パッチリと化粧を施した黒い瞳で実岡を見上げて笑顔で朝食を作るあやめ。トントントン、と規則正しい包丁の音と、出汁と味噌のいい匂い。

 実岡は起きたばかりなのでまだ部屋着で寝癖のついた頭のままだった。途端に恥ずかしくなり、そそくさと洗面所に向かう。

 

「身支度してくる」


「はーい」


 自分で言い出したこととはいえ、自分より七歳も年下の女の子と二人暮らしをすることになってしまっている。落ち着かない気持ちで洗面所へと向かうと、既にあやめが持ち込んだ洗濯機は回っていた。洗濯物はプライバシーの観点から個々にすることにしている。置いてある洗剤と柔軟剤が妙に可愛いパッケージだった。

 洗面所の鏡に映る自分は、日焼けして浅黒い肌にシミが目立ち始めた顔、水を救う手は爪にこびりついた泥が取れなくて真っ黒な指先をしている。せめて髪型だけでもなんとかしようと、いつもより洗面所の滞在時間が長くなり、髪型を整えたところで結局帽子を被るから意味がないのでは、ということに気がついた。


「「いただきます」」


 豆腐とワカメの味噌汁に、ご飯、焼き鮭、だし巻き玉子というザ・日本の朝食といった風な食事を共に取る。


「実岡さん、今日からネットで野菜の販売を始めて見ようと思うんですけど、どうでしょうか」


「ネットでって言うと、楽チン市場とかYahuu!みたいなところに出店するのかい?」


「いえ、飯チョクとかポッケマートとかの販売プラットフォームを使おうかと」


「ああ、そっちか」


 ずずーっと味噌汁をすすりながら実岡は答えた。


「でもなぁ、前に登録してやったことあるんだけど、あんまり効果がなかった記憶が」


「実岡さん、みっちゃんの取材効果を忘れてはいけませんよ。本当にすごいんですって」


「そんなにかい?」


「はい、絶対に売れること間違いなしです。あとは私が昔バイトしていた小料理屋に話を持ちかけて見ようと思ってます。そこがダメでも、暖簾分けしたお店で使ってくれるかもしれませんし。朝の作業が終わったら午後からは東京に行ってきてもいいですか?」


「いいけど、大変だから俺も行くよ」


「あ、じゃあ私のローズマリー号に一緒に乗って行きます?」


「あの車か……」


 実岡は迷った。あやめの乗る車は激しめのピンク色の外車で、凄まじく目立つ。さりとて実岡の車は跳ねた泥が幾重にもついているミニバンか軽トラの二択である。どちらにしろ都心まで行くのにふさわしい車とは言えない。


「じゃあ、運転は俺がする」


 せめてもの男の矜持だ。力強く言うと、あやめは納得したように「はい」と頷いた。


 二人して汗だくになりながら午前の畑仕事を終わらせて、シャワーを浴びてスーツに着替える。収穫できた野菜を箱に詰め、それを持って東京へと車を走らせた。

 昼過ぎの関越道は日差しが強く、車内にいてエアコンをかけていようと熱中症になりそうなほどだ。

 西麻布まで来るとあやめのナビで小道を曲がり、そして一つの店の前で停車する。

 あやめはなんのためらいも見せずに粋な暖簾を潜って見るからに高級そうな格子の引き戸を開けた。実岡は野菜の箱を小脇に抱えてついていく。


「らっしゃい。あれ」


「おじさん、お久しぶりです」


「おおー、あやめかぁ、久しぶりだな!」


 カウンターのみの小ぢんまりとした小料理屋には、板長と思しき初老の男がカウンター内で一人包丁を研いでいた。シャーッシャーッと鋭利な音が鳴り響いていたがあやめの姿を見るなりその所作を止め、シワが刻まれ始めた顔に喜色を浮かべる。強面の板長だったが笑顔は存外に可愛らしい。


「どうしたんだい、急に。例の彼氏とは結婚したのかい?」


「実はフラれまして」


「なんだ、あやめちゃんをフるなんて見る目のねえ男だな。じゃあ今日は何だ、仕事関係か?例のイタリアンの会社の」


「実は会社は倒産しました」


「倒産しただと?そりゃ難儀だったな。じゃああれか、ここで働きたいってか?あやめちゃんならいつでも歓迎だぜ」


「いえ、実は今、有機野菜を作っているんです。で、会社が倒産しちゃって引取先が無くなってしまったので、ここで使ってもらえないかなぁと」


「お、おお。会わない間に随分いろいろな事があったみたいだな……」


 板長の親父はあやめがさらっと明かす事実の数々に面食らいながらも、実岡が差し出した野菜の箱を受け取る。


「丹精込めて育てた有機栽培の野菜たちです。トマト、なす、きゅうり、かぼちゃ。他にも色々と作っていますが、今日採れた野菜がこれだけでして。使ってみて、よければ取引していただけないでしょうか」


 板長は箱に綺麗に詰められた野菜を掴み、矯めつ眇めつ眺める。洗ってトマトをひと齧り。きゅうりとナスも味見をする。


「……こりゃいい味にできてるな」


「はい、味には自信があります」


 こう答えたのは実岡の方だ。


「土壌から改良し、五年かけて作り上げた野菜たちです。無農薬で育てた野菜の味は、どこに出しても引けを取らない自信があります」


「んんー。ふむ」


 首をひねって板長が実岡を見る。


「農家にしちゃあ若いな」


「脱サラして農園を始めました」


「なるほどなぁ」


 あやめと実岡を交互に見つめ、板長は手を打った。


「よし、試してみて良かったら仕入れをお願いするよ」


「はい、ありがとうございます!」


「暖簾分けしたお弟子さんの店も回りたいと思っているんだけど、いいかな」


「いいぜ、どんどん行ってくれ。場所教えてやるからよ」


「おじさんありがとう!」


 場所を教わったあやめたちはローズマリー号に乗り込み次なる店を目指す。実岡が運転する助手席であやめは明るく言った。


「詰め込む資材や軽トラで運搬する方法があってよかったです。あとは販路を見つけるだけですからね」


「その販路を見つけるのが一番難しいと思うんだけど」


「実岡さん、そんな後ろ向きな発言しちゃダメですよ」


 あやめは人差し指を左右に動かした。


「こういう時は、前向きに考えるんです!」


「前向きにね」


 運転しながら苦笑を漏らす。確かにその方が気分は明るくなる。


「どうせ問題は一緒なんです。なら少しでも前向きに考えた方が楽しくなりませんか?」


「うん、そうだね」

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